画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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はる 3011
いやもう三千も11になった。日々というやつは過ぎてしまえば夢の如し。おそろしいものです。こうやって毎日カウントしてゆくと、一年が365日というのを時々意識する。人の一生というのは有限で80年生きたとしても大した数ではない。
話題を変えて
絵を描きはじめた動機というのは何だったのだろうか。母親が少し趣味で絵を描いていたというのがあるけれど、特に親戚に絵を描くことを仕事にしたり、職人がいたりしたわけではない。だから小さい時からの職業の選択肢に物を作る仕事というのはなかったな。そういった意味では私の家系では凄く場違いなありえない選択だったように思う。自分自身の小さい頃を考えて特に内向的な文学的な嗜好を示したガキンチョではなったわけで、どちらかと言えば反対にガキ大将的であった。
高校時代から何か書くことが好きだった。それは日々の出来事を記録するという風な日記ではなく、自分の心のありようを知りたかったというような、今のもとになるような問いかけだったように気がする。今以上にもっと切実に誰かに聞いてもらいたかった、知ってもらいたかった、なんだろうな「私を見て」というのがやっぱり最初の声だったように思う。それはまぁだれでもそうなんだけれどね。自我と言うものが出てきて、どうして今ここにいるんだろう?と気付く頃だからね。
勉強が出来ればそこそこ評価されたんだろうけれど、受験勉強は要領が悪かったな。今もそうだけれど、時間の使い方とか集中力がない。能力もなかったのだけれど、そんな人間が普通に評価される場などない。特に秀でたものもなかったからな。
最初の大学は入れてくれたとこに入った。けれど、ほとんど学校には行ず、昼も夜もアルバイトに明け暮れていた。何が出来るのか、何ができるのか、実践で手探りで探していたようなところがある。だからアルバイトの数は半端なものじゃない。夜はジャズ喫茶の店長というのが一番気に入っていた、出来たら自分もそんなお店でもやって生きて行こうかなと考えていた。
どうしても極普通に就職して仕事してという気になれなかった。適当にアルバイトして食いつないでいく、今の派遣で生きている適当なぷー太郎の先輩だな。だから今の若い人に何も偉そうなことはいえない。昔の自分を見るようだ。無責任で適当で根性なしで自分のことしか考えていない。若い頃に戻りたいなどとは全く思えないな。二十代の前半はしんどいな。どうしたらいいのか全く道が見えないからだ。
そんな生活でも多少なりとも得ることはある。アルバイトはやはりアルバイトでしかないということだ。仕事という大きな意味で考えたらほとんど得るものがない。時間を労働力をお金にかえているだけだ。アルバイトによって大きく人間が変わるとか成長するということは期待できない。長い人生を考えた場合自分にとっては何か手仕事・職人仕事が一番適しているのかなと思った。
まぁそこから手仕事の修行が始まる。まず京都に出て焼き物の手付けの仕事を見つけてくる。これは工房に弟子入りみたいなものだから、何でもやった。土練りから、釜入れ、釜だし、掃除から洗濯までやる。飯は工房で出るからお金はかからなかった。まぁ微々たる給料だったけどね。二年ぐらいやったかな。まぁ二年やると不満も出てくる。我慢して10年やって独立という手もあったのだけれど、同じ物を数作る、まぁ職人とはそういったものだな。ところが京都という場所柄作るものが観光客相手のみやげ物的なものなんだな。これがまた飛ぶように売れるわけだ。我々が作っているところをサルのように見せてね。じゃ辞めたと辞表をだす。
まぁこうなったら好きな絵を描いて売れても売れなくても生きて行くかと考えたわけだな。収入はアルバイトで本業は絵を描くと一応の方針を決めた。これで生活は苦しくなったけれど、気持ちは随分と楽になった。
その後はまただな。
いやもう三千も11になった。日々というやつは過ぎてしまえば夢の如し。おそろしいものです。こうやって毎日カウントしてゆくと、一年が365日というのを時々意識する。人の一生というのは有限で80年生きたとしても大した数ではない。
話題を変えて
絵を描きはじめた動機というのは何だったのだろうか。母親が少し趣味で絵を描いていたというのがあるけれど、特に親戚に絵を描くことを仕事にしたり、職人がいたりしたわけではない。だから小さい時からの職業の選択肢に物を作る仕事というのはなかったな。そういった意味では私の家系では凄く場違いなありえない選択だったように思う。自分自身の小さい頃を考えて特に内向的な文学的な嗜好を示したガキンチョではなったわけで、どちらかと言えば反対にガキ大将的であった。
高校時代から何か書くことが好きだった。それは日々の出来事を記録するという風な日記ではなく、自分の心のありようを知りたかったというような、今のもとになるような問いかけだったように気がする。今以上にもっと切実に誰かに聞いてもらいたかった、知ってもらいたかった、なんだろうな「私を見て」というのがやっぱり最初の声だったように思う。それはまぁだれでもそうなんだけれどね。自我と言うものが出てきて、どうして今ここにいるんだろう?と気付く頃だからね。
勉強が出来ればそこそこ評価されたんだろうけれど、受験勉強は要領が悪かったな。今もそうだけれど、時間の使い方とか集中力がない。能力もなかったのだけれど、そんな人間が普通に評価される場などない。特に秀でたものもなかったからな。
最初の大学は入れてくれたとこに入った。けれど、ほとんど学校には行ず、昼も夜もアルバイトに明け暮れていた。何が出来るのか、何ができるのか、実践で手探りで探していたようなところがある。だからアルバイトの数は半端なものじゃない。夜はジャズ喫茶の店長というのが一番気に入っていた、出来たら自分もそんなお店でもやって生きて行こうかなと考えていた。
どうしても極普通に就職して仕事してという気になれなかった。適当にアルバイトして食いつないでいく、今の派遣で生きている適当なぷー太郎の先輩だな。だから今の若い人に何も偉そうなことはいえない。昔の自分を見るようだ。無責任で適当で根性なしで自分のことしか考えていない。若い頃に戻りたいなどとは全く思えないな。二十代の前半はしんどいな。どうしたらいいのか全く道が見えないからだ。
そんな生活でも多少なりとも得ることはある。アルバイトはやはりアルバイトでしかないということだ。仕事という大きな意味で考えたらほとんど得るものがない。時間を労働力をお金にかえているだけだ。アルバイトによって大きく人間が変わるとか成長するということは期待できない。長い人生を考えた場合自分にとっては何か手仕事・職人仕事が一番適しているのかなと思った。
まぁそこから手仕事の修行が始まる。まず京都に出て焼き物の手付けの仕事を見つけてくる。これは工房に弟子入りみたいなものだから、何でもやった。土練りから、釜入れ、釜だし、掃除から洗濯までやる。飯は工房で出るからお金はかからなかった。まぁ微々たる給料だったけどね。二年ぐらいやったかな。まぁ二年やると不満も出てくる。我慢して10年やって独立という手もあったのだけれど、同じ物を数作る、まぁ職人とはそういったものだな。ところが京都という場所柄作るものが観光客相手のみやげ物的なものなんだな。これがまた飛ぶように売れるわけだ。我々が作っているところをサルのように見せてね。じゃ辞めたと辞表をだす。
まぁこうなったら好きな絵を描いて売れても売れなくても生きて行くかと考えたわけだな。収入はアルバイトで本業は絵を描くと一応の方針を決めた。これで生活は苦しくなったけれど、気持ちは随分と楽になった。
その後はまただな。
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はる 3009
覚書「こえをきく」
見えないものを観る、聞こえないものを聴くそんなこと。
思索すること、考えること、それを書いたり、描いたりして「こころのありよう」を探ること。
******************
作家の生活はなぞに包まれている方がそれらしい。何も語らず、顔も見せず、その存在さえ隠しておく。そんな手もあるだろうな。
ところが、私は自分の心のありようを隠しておけない。どうしてそうなのか、なぜそうなのか、語れば語るほど浅はかな底が見えるというものだ。まぁそれでお里が知れるようであれば、それまでのことだとあきらめている。
作家とはそういったものだろう。出し惜しみせず、その時の精一杯の全部出してしまう。出し尽くせばまた湧いてくるものだ。
思索すること、それを書いたり、描いたりして、その時々の心の声を聴くことが私の仕事のように思う。
はる 3008
又あとで。
少し書いたのだけど、pcのトラブルで消えてしまった。もう一度同じ文章を書くきにはなれないので、違うことを書こう。
上の絵は奇妙な絵柄だな。サルが台の上にいて左の少女と見合っている、髭のおっさんがそれを行司しているといった感じかな。自分で描いていながらどうしてサルが出てきたのか分からない。旅芸人とか大道芸人などは今までも描いていたのだけれど、動物使いのようなのははじめてだな。
いつだったかな、もう4,5年前になるか、兄弟の還暦を祝う行事で兵庫の有馬温泉に行った事がある。温泉そのものはそう珍しくもないのだけれど、そこで初めてかなお猿さんをつれた旅芸人を見た。まぁもともとそんな場末の芸人みたいなものに惹かれるところがあるので、時間を忘れてみていた。そんなことがどこかにあって出てきたのかもしれない。
私の絵は芸術などという高尚なものではないな。どうやっても芸術をやれ、芸術を語らなければ絵を描く資格がないというなら、絵など止めてもいい。私がやっていることで世の中が変わるとも思わないし、美術史に残るような絵描きにもなれないだろう。だから今の先端の芸術を語る能力も資格もないな。第一全く面白いとは思えないのだからどうしようもない。
私は自分が面白いと思った極々小さい世界を見つけて、こんなのもありますよ、あんなのもありますよと言うだけでいい。ただねぇ、自分のいいと思う眼だけは一級品であると自負しているのだけどな。腕がなかなか追いつかない。
また眠くなったのでお終いです。
又あとで。
少し書いたのだけど、pcのトラブルで消えてしまった。もう一度同じ文章を書くきにはなれないので、違うことを書こう。
上の絵は奇妙な絵柄だな。サルが台の上にいて左の少女と見合っている、髭のおっさんがそれを行司しているといった感じかな。自分で描いていながらどうしてサルが出てきたのか分からない。旅芸人とか大道芸人などは今までも描いていたのだけれど、動物使いのようなのははじめてだな。
いつだったかな、もう4,5年前になるか、兄弟の還暦を祝う行事で兵庫の有馬温泉に行った事がある。温泉そのものはそう珍しくもないのだけれど、そこで初めてかなお猿さんをつれた旅芸人を見た。まぁもともとそんな場末の芸人みたいなものに惹かれるところがあるので、時間を忘れてみていた。そんなことがどこかにあって出てきたのかもしれない。
私の絵は芸術などという高尚なものではないな。どうやっても芸術をやれ、芸術を語らなければ絵を描く資格がないというなら、絵など止めてもいい。私がやっていることで世の中が変わるとも思わないし、美術史に残るような絵描きにもなれないだろう。だから今の先端の芸術を語る能力も資格もないな。第一全く面白いとは思えないのだからどうしようもない。
私は自分が面白いと思った極々小さい世界を見つけて、こんなのもありますよ、あんなのもありますよと言うだけでいい。ただねぇ、自分のいいと思う眼だけは一級品であると自負しているのだけどな。腕がなかなか追いつかない。
また眠くなったのでお終いです。
はる 3007
流行というのは何だろう。その時代の流れの中でたまたま時流に乗れば一気にメジャーになって、何処でも雑誌に取り上げられたりする。一時の有本利夫なんかもシンデレラボーイと言われて注目されていた。まぁ彼はその後早くに亡くなってしまったので、以後の展開がどうなっていたのかは想像するしかないのだけれど、ひょっとすると鳴かず飛ばずの作家で終わっていたかもしれない。
流行歌の作曲家でも一時はこれでもかと思うほど次から次にヒットを飛ばしていた人が、ある時を境にほとんど活動が見えなくなってしまう。で、死亡のニュースを聞いてあぁまだ生きていたんだと気付いたりする。
才能は変わらずあるのだろうけれど、いつしか通り越して取り残されてしまうんだな。変わらずにずーっと評価されるのは一時当てるより難しい。反対に評価され出したら終わりが近いと言うことかもしれない。そう考えると鳴かず飛ばずの今の方が幸せなのかもしれないな、ひがみが多少入っていますが・・。
生きてきたように死んでゆくという例えがあるが、実際の話パッと出た作家は消えてゆくのも速い。まぁ出来うるならば死ぬまで淡々と描き続けていたいので、そこそこでいいよなぁと思う次第です。
流行というのは何だろう。その時代の流れの中でたまたま時流に乗れば一気にメジャーになって、何処でも雑誌に取り上げられたりする。一時の有本利夫なんかもシンデレラボーイと言われて注目されていた。まぁ彼はその後早くに亡くなってしまったので、以後の展開がどうなっていたのかは想像するしかないのだけれど、ひょっとすると鳴かず飛ばずの作家で終わっていたかもしれない。
流行歌の作曲家でも一時はこれでもかと思うほど次から次にヒットを飛ばしていた人が、ある時を境にほとんど活動が見えなくなってしまう。で、死亡のニュースを聞いてあぁまだ生きていたんだと気付いたりする。
才能は変わらずあるのだろうけれど、いつしか通り越して取り残されてしまうんだな。変わらずにずーっと評価されるのは一時当てるより難しい。反対に評価され出したら終わりが近いと言うことかもしれない。そう考えると鳴かず飛ばずの今の方が幸せなのかもしれないな、ひがみが多少入っていますが・・。
生きてきたように死んでゆくという例えがあるが、実際の話パッと出た作家は消えてゆくのも速い。まぁ出来うるならば死ぬまで淡々と描き続けていたいので、そこそこでいいよなぁと思う次第です。
はる 3006
何をもって一流というのか分からないのだけれど、未だかつてこの人は一流の人だという人に会ったことがない。いやすでに出会ってはいるのだけれど、私にそのアンテナがなかったがために見過ごしてしまったのかもしれない。
大体がその道では優れているけれど、人間的には尊敬できないとか、一芸に秀でてはいるのが人格破綻者だとか、そういった類がほとんどだ。最終的な全人格的に圧倒的に、ダントツに優れている、そんな人は人間ではないのかもしれないな。人間くさくない。
吉田秀和の話を前に書いたけど、もう一度書く。彼が奥さんを亡くして、もう何もやりたくない、聞きたくもない、まして仕事などしたくない、と思っていた時期があった。彼の仕事はクラシックの音楽評論であるから、好きで聴くのではなく仕事として聞かねばならなかったわけだ。
モーツアルトは天才だ。音が淀みなく美しい流れとなって自然に懇々と湧き出してくる。普通は真っ先に聴きたくなるだろう美しい音楽であるはずだ。ところがそのモーツアルトでさえ聴きたくなくなったらしい。なぜなら彼の音楽でさえ「私が、僕が、俺が・・」と聴こえてきたらしい。
で、一番最初に心ひかれた音楽はやはりバッハだったというふうなことが書かれていた。バッハの音は宇宙の存在を感じさせるそんな音楽だからだな。
器の問題かもしれないね。眠たいので又明日。
何をもって一流というのか分からないのだけれど、未だかつてこの人は一流の人だという人に会ったことがない。いやすでに出会ってはいるのだけれど、私にそのアンテナがなかったがために見過ごしてしまったのかもしれない。
大体がその道では優れているけれど、人間的には尊敬できないとか、一芸に秀でてはいるのが人格破綻者だとか、そういった類がほとんどだ。最終的な全人格的に圧倒的に、ダントツに優れている、そんな人は人間ではないのかもしれないな。人間くさくない。
吉田秀和の話を前に書いたけど、もう一度書く。彼が奥さんを亡くして、もう何もやりたくない、聞きたくもない、まして仕事などしたくない、と思っていた時期があった。彼の仕事はクラシックの音楽評論であるから、好きで聴くのではなく仕事として聞かねばならなかったわけだ。
モーツアルトは天才だ。音が淀みなく美しい流れとなって自然に懇々と湧き出してくる。普通は真っ先に聴きたくなるだろう美しい音楽であるはずだ。ところがそのモーツアルトでさえ聴きたくなくなったらしい。なぜなら彼の音楽でさえ「私が、僕が、俺が・・」と聴こえてきたらしい。
で、一番最初に心ひかれた音楽はやはりバッハだったというふうなことが書かれていた。バッハの音は宇宙の存在を感じさせるそんな音楽だからだな。
器の問題かもしれないね。眠たいので又明日。
はる 3005
あいつは何をやるか分からないというのはやっぱり怖いものだ。最近では「きれる」という言葉を使うのかな。まぁ、ほとんどの場合は「切れたフリ」してその場の居たたまれなさをごまかしているのだろうけれど、何割かは実際に忘我の境地に達してしまった人がいるのだろう。
何か調べて書いているわけではないので、適当な話なので流して読んで欲しい。で、一度そういった臨界を越えた人というのは意識するかしないかは別にして、往々にしてそういった状態になりやすいのではないかと想像する。催眠状態というのは、何処か潜在的な無意識の世界に入り込んでいるのだと思うのだけれど、慣れた人はすぐにそういった無意識の状態に入れるようだな。どう考えても自分がそう簡単にあちらの世界に行けるとは思えない。
個人の許容量みたいなものかもしれないけれど、人によってそのタガというのかバリアーというのが色々のように思う。で、そういったタガはどうやってきまるのかというと、遺伝子的なレベルもあるだろうけれど、案外というのかほとんどが家族環境によるのではないかな。どういった家族構成なのか、信仰をもっているのか、親の職業とか、裕福か貧乏かとかね。
私のタガは非常に強固だった。一重も二重も何重にも巻きついていて容易にははずすことはできない。いや、今でもそれが外れた自分というのが想像できないし、普段はそのタガによって守られている自分というのを感じるのだけれどね。
唯一そのタガを越えたのは「絵描きになろう」と決めた時だ。学校の正規の教員を辞めた時にどれだけ開放された気持ちになったか。まぁほとんど後先を考えずに辞めてしまったけれど、不安とか心配というのはなかったな。それよりもこれでやっと本来の望んでいた生き方が出来る。もう後にはひけないと、気持ち的には随分と楽になった。
ところで、話は少し飛ぶのだが、芭蕉の「笈の小文」というのをご存知か。恥ずかしながら私は全く知らなかった。実は先日、山口画廊のオーナーから飯嶋和一の「始祖鳥記」を読んでみろといただいた。江戸時代の話なのだが、その主人公は空を飛ぶことに一生をかける。まぁ時代がそんなことを許す時代ではなかったので、時の権力者の捕らえられてしまうのだが、そのときに聞かれるのだ。「おまえの中にやっぱり、風羅坊がいるのか?」
どうしても、どうしても、飛びたくなってしまう。いいかげんに上手く世の中を黙って黙々と働いていれば捕らえられることもなかったのに、この主人公は飛んでしまうのだな、命懸けで。
その風羅坊というのが芭蕉の別名で、自らをそう呼んでいる。全てを捨てて漂白のたびに出てしまう、その因果なDNAをそう詠んでいる。
あいつは何をやるか分からないというのはやっぱり怖いものだ。最近では「きれる」という言葉を使うのかな。まぁ、ほとんどの場合は「切れたフリ」してその場の居たたまれなさをごまかしているのだろうけれど、何割かは実際に忘我の境地に達してしまった人がいるのだろう。
何か調べて書いているわけではないので、適当な話なので流して読んで欲しい。で、一度そういった臨界を越えた人というのは意識するかしないかは別にして、往々にしてそういった状態になりやすいのではないかと想像する。催眠状態というのは、何処か潜在的な無意識の世界に入り込んでいるのだと思うのだけれど、慣れた人はすぐにそういった無意識の状態に入れるようだな。どう考えても自分がそう簡単にあちらの世界に行けるとは思えない。
個人の許容量みたいなものかもしれないけれど、人によってそのタガというのかバリアーというのが色々のように思う。で、そういったタガはどうやってきまるのかというと、遺伝子的なレベルもあるだろうけれど、案外というのかほとんどが家族環境によるのではないかな。どういった家族構成なのか、信仰をもっているのか、親の職業とか、裕福か貧乏かとかね。
私のタガは非常に強固だった。一重も二重も何重にも巻きついていて容易にははずすことはできない。いや、今でもそれが外れた自分というのが想像できないし、普段はそのタガによって守られている自分というのを感じるのだけれどね。
唯一そのタガを越えたのは「絵描きになろう」と決めた時だ。学校の正規の教員を辞めた時にどれだけ開放された気持ちになったか。まぁほとんど後先を考えずに辞めてしまったけれど、不安とか心配というのはなかったな。それよりもこれでやっと本来の望んでいた生き方が出来る。もう後にはひけないと、気持ち的には随分と楽になった。
ところで、話は少し飛ぶのだが、芭蕉の「笈の小文」というのをご存知か。恥ずかしながら私は全く知らなかった。実は先日、山口画廊のオーナーから飯嶋和一の「始祖鳥記」を読んでみろといただいた。江戸時代の話なのだが、その主人公は空を飛ぶことに一生をかける。まぁ時代がそんなことを許す時代ではなかったので、時の権力者の捕らえられてしまうのだが、そのときに聞かれるのだ。「おまえの中にやっぱり、風羅坊がいるのか?」
どうしても、どうしても、飛びたくなってしまう。いいかげんに上手く世の中を黙って黙々と働いていれば捕らえられることもなかったのに、この主人公は飛んでしまうのだな、命懸けで。
その風羅坊というのが芭蕉の別名で、自らをそう呼んでいる。全てを捨てて漂白のたびに出てしまう、その因果なDNAをそう詠んでいる。
はる 3004
秋空になってきた。何処となくうすら寂しい季節だな。好きだけどね。
人格が崩壊するするほどの怒りとか、興奮とか、前後不覚で何も覚えていないなどとたまに聞くけれど、そこまで自分をコントロール不可能なところまで落ちた事がない。例えは悪いけれどよく犯罪者がもう全く別の人格になってしまったような自己の崩壊をきたしたなどということを聞くと、もし仮にそうなった自分と言うのは怖いなぁと思う。知らない自分が出てくるのは怖い。
アルコールに極度に弱い体質なので、われを忘れて何もおぼえていないなどというそんな体験はない。昔無理に飲んでほぼ病気のようになったことはあるけれど、それでも自分を見失った、前後不覚になったというほどではない。
幸運にもいままでそういった臨界の状態に陥ったことがないので、分からないのだが、例えば戦争を経験するとか暴徒に襲われるとか、そういった場合にある一線を越えてしまった人間は自分のタガが外れてしまったと感じるのではないだろうか。
ただの支離滅裂な話になってしまった。ごめんまた。
秋空になってきた。何処となくうすら寂しい季節だな。好きだけどね。
人格が崩壊するするほどの怒りとか、興奮とか、前後不覚で何も覚えていないなどとたまに聞くけれど、そこまで自分をコントロール不可能なところまで落ちた事がない。例えは悪いけれどよく犯罪者がもう全く別の人格になってしまったような自己の崩壊をきたしたなどということを聞くと、もし仮にそうなった自分と言うのは怖いなぁと思う。知らない自分が出てくるのは怖い。
アルコールに極度に弱い体質なので、われを忘れて何もおぼえていないなどというそんな体験はない。昔無理に飲んでほぼ病気のようになったことはあるけれど、それでも自分を見失った、前後不覚になったというほどではない。
幸運にもいままでそういった臨界の状態に陥ったことがないので、分からないのだが、例えば戦争を経験するとか暴徒に襲われるとか、そういった場合にある一線を越えてしまった人間は自分のタガが外れてしまったと感じるのではないだろうか。
ただの支離滅裂な話になってしまった。ごめんまた。
憂鬱な気質が私の中にはある。まぁそれも考え方によればその気質があるから絵などというものを書き続けられるわけで、全く何の心配事もないあっけらかんとした性格ならこのブログさえ続けることは難しいのじゃないか。そんなうっとうしい気質など要らない、わずらわしいだけだとは思うのだけれど、まぁこれもプラスマイナス0だな。
このすっきりと晴れない、目の前の霧のようなぐずぐずしたものは何なのか?長い間の懸案事項ではあった。不安、心配、強迫観念そんな言葉で語られるのだけれど、よくよく考えてみれば全ては自分のなかにあるもので、自らが作り出した亡霊におびえているようなものだ。幽霊の正体見たり枯れ尾花というのは、この私の状態をよく言い表している。
小さい頃のお化けとか、化け物、何だか分からないけれど恐ろしいものというのは、それも結局その本人が作り出した幻でね、大人になって恐ろしくなくなるのは、ある種空想力の枯渇ということもできるかな。 さて、私のそれはたぶんに遺伝的なものが大きいとは思うのだけれど、仕方ないとあきらめると解決の糸口が切れてしまう。遺伝的な要素を差し引いて残った中から私のその「不安、恐怖」の材料が何か考えてみたい。
子供の頃見た夢に大きな風船のようなものが無数にあってその中に自分が閉じ込められてアップアップするというような、今まさに呼吸困難になるというところで目が覚めるというようなことがよくあった。今考えるとこれは親や兄弟のプレッシャーのように思うんだな。私は五人兄弟の末っ子で、みんなのいう話では甘やかされて自由に育ったと言うふうなことを言われるのだけれど、私自身は全くそんな風には感じていない。
幼い頃というのは子供同士の上下関係はかなり厳しいもので、絶対服従が前提である。その代わりに安心と安堵をもらうといった封建制度に近いものがある。「絶対服従と安心安堵」この相反する飴と鞭のような感覚は、例えば親方と徒弟、親分子分、会社と社員、みんな共通する命題じゃないかな。
私の不安の原因はその安心と安泰の絶対服従の殻から出てしまったということにあるのじゃないかな。またもう少し考えてみよう。今日はここまで。
はる 3002
例えばデパートなどでがんがん売れている絵描きがいる。でそういった画家の経歴を見るとほとんど大きな団体には参加していないか、無所属だ。参加していても全く無名のどうでもいいような団体である場合が多い。そういった作家に共通するのは「私は絵で食べているんだ」という暗黙の自信だろうか。花と実という例えなら、明らかに実を取ったということかな。団体展の作家には分からない厳しい世界を生きているんだという凄みだろうか。でもしかし、心のどこかに芸術家ではなくなってしまった後ろめたさみたいなものがあるきがする。
まぁ我々の方からみれば「なんだい、こんな写真のような売り絵を描いて」と思うのだけれどね。それがまたどんどん売れるのだから仕方がない。団体展の作家とデパートの作家とでは永久に埋まらない溝がある。お互いに意識しないようで気にはしているのだ。
団体展の作家でもデパートでやるとなるとやたら迎合して花やら風景を描くひとがいるけれど、それはちがうだろう?とつっこみたくなる。本来の自分の仕事の延長上に今のスタイルがあるわけだから、それを無視して「売り絵」を描きましたというスタイルは反発を感じるな。芸能人のサインやお相撲さんの手形みたいな感じじゃないの。何でもいいじゃ安易すぎるなぁ。
私なんかはこれもまたどちらにも属している中間派だな。どちらの言い分もわかるし、正しい気もする。団体展にも長く出品してきたし、団体展に出品する前から個展をやって作品を売ってきた。売れればいいと考えるとどうしても他者に迎合する。人が好むような絵柄だったり描き方だったりする。それがいつのまにか職人仕事のようにパターン化してしまう原因となる。職人仕事が悪いというわけでは決してないのだが、芸というのは自己模倣すると次第に壊れて行く。
反対に売らないなら、それらの仕事はあくまで趣味の延長上にあるということになる。正業をどこかで持たなければやってはいけない。趣味なら高級な楽しみだが、人様を巻き込むほどの絵描きになるのは難しい。
私はねぇ、こう思うんだな。どちらか一方というのは片手落ちだ、二頭立てでゆけばいいのだ。あくまで自分の絵を描きながら、個展もやって絵も売ってゆく、両方やるんだな。それが正解じゃないのかな。本来そうあるべきじゃないの。表現者として力を持とうと思ったら、どちらも必要だと思うんだな。
例えばデパートなどでがんがん売れている絵描きがいる。でそういった画家の経歴を見るとほとんど大きな団体には参加していないか、無所属だ。参加していても全く無名のどうでもいいような団体である場合が多い。そういった作家に共通するのは「私は絵で食べているんだ」という暗黙の自信だろうか。花と実という例えなら、明らかに実を取ったということかな。団体展の作家には分からない厳しい世界を生きているんだという凄みだろうか。でもしかし、心のどこかに芸術家ではなくなってしまった後ろめたさみたいなものがあるきがする。
まぁ我々の方からみれば「なんだい、こんな写真のような売り絵を描いて」と思うのだけれどね。それがまたどんどん売れるのだから仕方がない。団体展の作家とデパートの作家とでは永久に埋まらない溝がある。お互いに意識しないようで気にはしているのだ。
団体展の作家でもデパートでやるとなるとやたら迎合して花やら風景を描くひとがいるけれど、それはちがうだろう?とつっこみたくなる。本来の自分の仕事の延長上に今のスタイルがあるわけだから、それを無視して「売り絵」を描きましたというスタイルは反発を感じるな。芸能人のサインやお相撲さんの手形みたいな感じじゃないの。何でもいいじゃ安易すぎるなぁ。
私なんかはこれもまたどちらにも属している中間派だな。どちらの言い分もわかるし、正しい気もする。団体展にも長く出品してきたし、団体展に出品する前から個展をやって作品を売ってきた。売れればいいと考えるとどうしても他者に迎合する。人が好むような絵柄だったり描き方だったりする。それがいつのまにか職人仕事のようにパターン化してしまう原因となる。職人仕事が悪いというわけでは決してないのだが、芸というのは自己模倣すると次第に壊れて行く。
反対に売らないなら、それらの仕事はあくまで趣味の延長上にあるということになる。正業をどこかで持たなければやってはいけない。趣味なら高級な楽しみだが、人様を巻き込むほどの絵描きになるのは難しい。
私はねぇ、こう思うんだな。どちらか一方というのは片手落ちだ、二頭立てでゆけばいいのだ。あくまで自分の絵を描きながら、個展もやって絵も売ってゆく、両方やるんだな。それが正解じゃないのかな。本来そうあるべきじゃないの。表現者として力を持とうと思ったら、どちらも必要だと思うんだな。
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