画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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はる 3031
今たまたまテレビを観たら、クローズアップ現代で「たすけてと言えない30代」などというくらい話をやっていた。なんでも少し前は50代とか60代がリストラにあってホームレスになる場合が多かったんだけれど、最近は30代がけっこう多くなったそうだ。
まぁ彼らはやる気になれば肉体労働だって何だってやれるんだろうけれど、何というのか生活の質を落とせないとか「負け」を認めたくないとか、かわいそうだと思われたくないとか、こうなったのは自分のせい自己責任だからと考えてしまうから余計に人様に迷惑をかけられないと考えるらしい。だからいいかげんな奴はそうはならない、生活保護でもなんでも申請で来ちゃう人はいいのだな。それが出来ないから隠れてしまうのだ。何かのきっかけで出社拒否、そしてホームレスになってしまう。
構造的な問題もあるだろうな。仕事としてはほんの少しの頭脳労働者と多くの使い捨ての単純労働者がいればこと足りるという社会になってきたものね。だからそのトップ25%にはいるのに過当競争だな。ただし最近は裕福な家庭育ちでなければそんな学校にも入れないそうだから、ますます格差は広がる一方だろう。
コンピュータ社会になればなるほど仕事はマニュアル通りになるだろうし、スピードは求められるし、結果も求められる。
30年も前に何となく漠然と考えていたことが、どうやら本当らしくなってきて最近はまんざら間違っていたのじゃなかったのだなと思って来た。それは仕事についてなんだ。
今就活とかいって学生が仕事を求めて色んな面接を受けたりしている。新採用が一番買い手が多くてそれにもれると中途採用ということになって5円安になってしまう。だから職種を選ばないで何とか名のある企業へ就職したいというのは人情としてよく分かる。今も意識は我々の頃とさして変わらんだろうと思う。
私にはどうしてもやりたい仕事がなかった。皆が髪を切って嬉々として就職活動しているのをうらやましくもあり、何故何の抵抗もなく就職できるのか不思議でもあった。だから就職試験など一社もうけなかったし、面接にいったこともない。
どうしてもやりたい仕事がないなら手に職をつけることだと考えた。今でもそう思う。でとりあえず陶器の工房に弟子入りした事は書いたことがある。
しかし、その考え方は間違ってはいなかったとは思うのだが、世の中は職人を必要とする生活ではなくなった来たんだな。例えば着る物は海外で作った安いものででも充分に役に立つ。ミシンが上手に使えてもジーンズのすそ上げぐらいにしか使えない。食べるものもどこで作られたか分からんようなレトルトが普通の食卓にのる訳だし、外に行くけばファーストフードやコンビニのお弁当やファミレスのマニュアル通りのレシピがある。味覚はジャンクフードで鍛えられて本物の味がわからない。住もまたどこの国なのか分からないような住宅展示場のようなツバイフォの建物だらけだ。大工はホッチキスのような電動工具で留めてゆく。カンナがけ出来ても使うところがない。
今のままじゃ農業は勿論だめ、製造業も国内じゃ成り立たないだろう。何か特化したものなら別だけれど、それもやがては下から追いついて越されてしまうだろう。そうなるとはっきり言って今までのような普通の仕事がない。これからもっとそうなるかな。何の手も考えないとね。やがてはコンビニとファミレスとネットショップだけになるだろう。
ある種の「ルネサンス」のような文化運動が必要じゃないかな。小さい世界、コミュニティを大事にしてその中で実際に手を使って作り出した衣食住の物を大切に使かうという生活、哲学、コンセプト。「お金」に頼らない生活、そういう価値観で計らない生活といのか、そうやって少しずつ「仕事」をもう一度自分達の手に戻す必要があるのじゃないかな。
今たまたまテレビを観たら、クローズアップ現代で「たすけてと言えない30代」などというくらい話をやっていた。なんでも少し前は50代とか60代がリストラにあってホームレスになる場合が多かったんだけれど、最近は30代がけっこう多くなったそうだ。
まぁ彼らはやる気になれば肉体労働だって何だってやれるんだろうけれど、何というのか生活の質を落とせないとか「負け」を認めたくないとか、かわいそうだと思われたくないとか、こうなったのは自分のせい自己責任だからと考えてしまうから余計に人様に迷惑をかけられないと考えるらしい。だからいいかげんな奴はそうはならない、生活保護でもなんでも申請で来ちゃう人はいいのだな。それが出来ないから隠れてしまうのだ。何かのきっかけで出社拒否、そしてホームレスになってしまう。
構造的な問題もあるだろうな。仕事としてはほんの少しの頭脳労働者と多くの使い捨ての単純労働者がいればこと足りるという社会になってきたものね。だからそのトップ25%にはいるのに過当競争だな。ただし最近は裕福な家庭育ちでなければそんな学校にも入れないそうだから、ますます格差は広がる一方だろう。
コンピュータ社会になればなるほど仕事はマニュアル通りになるだろうし、スピードは求められるし、結果も求められる。
30年も前に何となく漠然と考えていたことが、どうやら本当らしくなってきて最近はまんざら間違っていたのじゃなかったのだなと思って来た。それは仕事についてなんだ。
今就活とかいって学生が仕事を求めて色んな面接を受けたりしている。新採用が一番買い手が多くてそれにもれると中途採用ということになって5円安になってしまう。だから職種を選ばないで何とか名のある企業へ就職したいというのは人情としてよく分かる。今も意識は我々の頃とさして変わらんだろうと思う。
私にはどうしてもやりたい仕事がなかった。皆が髪を切って嬉々として就職活動しているのをうらやましくもあり、何故何の抵抗もなく就職できるのか不思議でもあった。だから就職試験など一社もうけなかったし、面接にいったこともない。
どうしてもやりたい仕事がないなら手に職をつけることだと考えた。今でもそう思う。でとりあえず陶器の工房に弟子入りした事は書いたことがある。
しかし、その考え方は間違ってはいなかったとは思うのだが、世の中は職人を必要とする生活ではなくなった来たんだな。例えば着る物は海外で作った安いものででも充分に役に立つ。ミシンが上手に使えてもジーンズのすそ上げぐらいにしか使えない。食べるものもどこで作られたか分からんようなレトルトが普通の食卓にのる訳だし、外に行くけばファーストフードやコンビニのお弁当やファミレスのマニュアル通りのレシピがある。味覚はジャンクフードで鍛えられて本物の味がわからない。住もまたどこの国なのか分からないような住宅展示場のようなツバイフォの建物だらけだ。大工はホッチキスのような電動工具で留めてゆく。カンナがけ出来ても使うところがない。
今のままじゃ農業は勿論だめ、製造業も国内じゃ成り立たないだろう。何か特化したものなら別だけれど、それもやがては下から追いついて越されてしまうだろう。そうなるとはっきり言って今までのような普通の仕事がない。これからもっとそうなるかな。何の手も考えないとね。やがてはコンビニとファミレスとネットショップだけになるだろう。
ある種の「ルネサンス」のような文化運動が必要じゃないかな。小さい世界、コミュニティを大事にしてその中で実際に手を使って作り出した衣食住の物を大切に使かうという生活、哲学、コンセプト。「お金」に頼らない生活、そういう価値観で計らない生活といのか、そうやって少しずつ「仕事」をもう一度自分達の手に戻す必要があるのじゃないかな。
はる 3029
徒然に結論もありません。
「こえをきく3」
物事を知るとか分かる理解するということは、一つ一つを区別して差別化して、自分にとってどうなのか価値があるのかないのか並び替えを行う。多くの人の営みはそうやってある種の序列化することでもあるわけだ。「私を見て」というのが全ての物事の動機だとすると、その価値体系の中心には「私」というものがいる。で、意識するかしないかは別にして、今まで生きてきた経験なり体験なり知識なりでもって一番から無限大までの序列が自然に出来ているような気がする。
「美は発見である」という基本的なものさしで考えるならば、何もなかったところに自分の物差しを持ち込んで、これが一番だと価値付けるわけだ。芸術の流行とかブームとかいうのもまぁそういったものだろう。だから今まで見向きもされなかった作家がなにかのきっかけで一躍スターになったりする。
絵を描くことは多分修行の一種ではないかと思っている。こころの中が不安になったり心配事が増えたりそうやって何か憂鬱な気分になるのはまだまだ修行が足りないせいだろうと考える。で、最近ちょっと考えついたのは自分を集発点にした序列をつくること自体が間違っているのではないか、いつまでも「私が、僕は・・」というものさしで計っていたのではここから抜けだせないのではないかと考えるようになってきた。
何を言ってるのか良く分からないが続けます。
この間ネットで数少ない本を注文して購入したときに思ったのだが、多分物事というのかこれからは何が価値が高くてこれは低いというような一元化にはならなくて多くの物事が並列に並んだようなものになるのではないかと思ったんだな。
個というものを追求して行くと段々に他との境界が分からなくなって行く。これはオリジンということにもつながってゆく。他とは異なる個性というのではなく、誰にでも共通にあるものその源という意味の方なのだが。この考え方も面白いと思う。
「あるがまま」という。しかし、そうあることはなかなか難しい。勝とか負けるとか、美と醜、善と悪など、人は何かと区別し価値付ける。けれど本来、物事には善も悪もなくただそこにあるだけなのだ。
ただその理に従った「こえをきく」だけだ。
徒然に結論もありません。
「こえをきく3」
物事を知るとか分かる理解するということは、一つ一つを区別して差別化して、自分にとってどうなのか価値があるのかないのか並び替えを行う。多くの人の営みはそうやってある種の序列化することでもあるわけだ。「私を見て」というのが全ての物事の動機だとすると、その価値体系の中心には「私」というものがいる。で、意識するかしないかは別にして、今まで生きてきた経験なり体験なり知識なりでもって一番から無限大までの序列が自然に出来ているような気がする。
「美は発見である」という基本的なものさしで考えるならば、何もなかったところに自分の物差しを持ち込んで、これが一番だと価値付けるわけだ。芸術の流行とかブームとかいうのもまぁそういったものだろう。だから今まで見向きもされなかった作家がなにかのきっかけで一躍スターになったりする。
絵を描くことは多分修行の一種ではないかと思っている。こころの中が不安になったり心配事が増えたりそうやって何か憂鬱な気分になるのはまだまだ修行が足りないせいだろうと考える。で、最近ちょっと考えついたのは自分を集発点にした序列をつくること自体が間違っているのではないか、いつまでも「私が、僕は・・」というものさしで計っていたのではここから抜けだせないのではないかと考えるようになってきた。
何を言ってるのか良く分からないが続けます。
この間ネットで数少ない本を注文して購入したときに思ったのだが、多分物事というのかこれからは何が価値が高くてこれは低いというような一元化にはならなくて多くの物事が並列に並んだようなものになるのではないかと思ったんだな。
個というものを追求して行くと段々に他との境界が分からなくなって行く。これはオリジンということにもつながってゆく。他とは異なる個性というのではなく、誰にでも共通にあるものその源という意味の方なのだが。この考え方も面白いと思う。
「あるがまま」という。しかし、そうあることはなかなか難しい。勝とか負けるとか、美と醜、善と悪など、人は何かと区別し価値付ける。けれど本来、物事には善も悪もなくただそこにあるだけなのだ。
ただその理に従った「こえをきく」だけだ。
はる 3027
今日は公民館で絵画教室の指導。このグループもいつのまにか5年が過ぎた。最初はゲリラ的に空いている公民館でやっていたのが最近は同じ場所が取れるようになった。この公民館もそうだけれどこういった地位のカルチャー事業は活発だと思う。もう一つの裸婦クロッキーの会場に使わせてもらっている会場も地域の公民館で時に吹奏楽や長唄や太鼓が聴こえたり、料理教室のいい匂いがしたり、お茶室もある。
今団塊の世代が暇になってこういったカルチャースクールに怒涛のごとく押し寄せて右往左往している、「人生の放課後の部活動」といった感じかな。老後をどんなふうに暮らすのか、そこのところが一番難しいかもしれない。
今や大学もこの世代の動向を無視できなくて大きなカルチャーセンターのように模様替えしているようだ。まぁ衣食足りた彼らが文化芸術のよき理解者になって、ひょっとすると今までかつてどこの国も経験しなかったような大きな文化運動のようなものになるかもしれない。そうなることを大いに期待したい。
長老のSさんはもう80を超えている。(承諾を得てブログに載せました)若いときに絵をやりたくて近くの研究所でデッサンも習っていた。家の都合で一時筆を休めていたけれど、退職して自由になって今は好きな絵を描くことが嬉しくて仕方ないらしい。ほぼ一ヶ月に一度顔を見せるのだが、100号の絵を赤帽さんに運搬を頼んで持ってくる。ちょっと趣味でやりましたというのではここまで描けない。その絵に対するひたむきな態度、80を越えても次から次と表現したいことが湧き上がってくるその情熱は見ていても頭が下がります。・・会の会員とか・・賞受賞などという経歴ばかりを誇らしげに誇示する先生がたよりも何倍も輝いてみえます。自戒を込めて。
趣味の定義は難しいのだけれど、人生を有意義に暮らす大事な要素ではないかな。ただ趣味は「暇つぶし」ではない。暇つぶしはどんなに打ち込んでもどこかむなしさが残る。そうならないために現役のころから趣味にかける時間を取ることだ。いらないものを人様にあげても喜ばれない。大事な自分の身を切るから、活きた時間、大事な時間をさくから趣味に血が通う。
今日は公民館で絵画教室の指導。このグループもいつのまにか5年が過ぎた。最初はゲリラ的に空いている公民館でやっていたのが最近は同じ場所が取れるようになった。この公民館もそうだけれどこういった地位のカルチャー事業は活発だと思う。もう一つの裸婦クロッキーの会場に使わせてもらっている会場も地域の公民館で時に吹奏楽や長唄や太鼓が聴こえたり、料理教室のいい匂いがしたり、お茶室もある。
今団塊の世代が暇になってこういったカルチャースクールに怒涛のごとく押し寄せて右往左往している、「人生の放課後の部活動」といった感じかな。老後をどんなふうに暮らすのか、そこのところが一番難しいかもしれない。
今や大学もこの世代の動向を無視できなくて大きなカルチャーセンターのように模様替えしているようだ。まぁ衣食足りた彼らが文化芸術のよき理解者になって、ひょっとすると今までかつてどこの国も経験しなかったような大きな文化運動のようなものになるかもしれない。そうなることを大いに期待したい。
長老のSさんはもう80を超えている。(承諾を得てブログに載せました)若いときに絵をやりたくて近くの研究所でデッサンも習っていた。家の都合で一時筆を休めていたけれど、退職して自由になって今は好きな絵を描くことが嬉しくて仕方ないらしい。ほぼ一ヶ月に一度顔を見せるのだが、100号の絵を赤帽さんに運搬を頼んで持ってくる。ちょっと趣味でやりましたというのではここまで描けない。その絵に対するひたむきな態度、80を越えても次から次と表現したいことが湧き上がってくるその情熱は見ていても頭が下がります。・・会の会員とか・・賞受賞などという経歴ばかりを誇らしげに誇示する先生がたよりも何倍も輝いてみえます。自戒を込めて。
趣味の定義は難しいのだけれど、人生を有意義に暮らす大事な要素ではないかな。ただ趣味は「暇つぶし」ではない。暇つぶしはどんなに打ち込んでもどこかむなしさが残る。そうならないために現役のころから趣味にかける時間を取ることだ。いらないものを人様にあげても喜ばれない。大事な自分の身を切るから、活きた時間、大事な時間をさくから趣味に血が通う。
はる 3026
「あそびをせんと」というタイトルのメルールマガジンを月一回配信している。これももう随分古くて最初のメルマガのバックナンバーは取ってありませんね。初めの頃は不定期に何か書いていたような気もしますが途中から面倒になってトップページの画像更新のお知らせだけになっていました。で途中から月一回のブログのまとめみたいなものを「雑感・・」として配信するようになりました。雑感は今回で157ですから結構長く続いています。ちなみに第一回は2002年の10/26です。
まぁ他に個展の案内とかそんなもので、ブログを毎回ご覧になっている方には特に目新しいものはありませんから、読者もそう増えませんがね。たまにしかここに立ち寄らない人には月一回のブログをまとめて読むには便利かもしれませんね。大したコラムでもないけれど・・。
あぁそれから今回二人ほどメールアドレスが変わって戻ってきました。(shimizuさん、yumiさん)もし続いて読まれるなら新たに申告してください。
ここです。メルマガ「あそびをせんと」
「あそびをせんと」というタイトルのメルールマガジンを月一回配信している。これももう随分古くて最初のメルマガのバックナンバーは取ってありませんね。初めの頃は不定期に何か書いていたような気もしますが途中から面倒になってトップページの画像更新のお知らせだけになっていました。で途中から月一回のブログのまとめみたいなものを「雑感・・」として配信するようになりました。雑感は今回で157ですから結構長く続いています。ちなみに第一回は2002年の10/26です。
まぁ他に個展の案内とかそんなもので、ブログを毎回ご覧になっている方には特に目新しいものはありませんから、読者もそう増えませんがね。たまにしかここに立ち寄らない人には月一回のブログをまとめて読むには便利かもしれませんね。大したコラムでもないけれど・・。
あぁそれから今回二人ほどメールアドレスが変わって戻ってきました。(shimizuさん、yumiさん)もし続いて読まれるなら新たに申告してください。
ここです。メルマガ「あそびをせんと」
はる 3024
確かに豊かに暮らすというのは難しい。勿論お金もなくてはならないだろうけれど、お金が全てではない。多分いつの時代も不満はあったし、戦後の食うや食わずの時代にも幸せはあったように思う。全ては相対的なものだと言ってしまえば話は進まなくなってしまう。
一時勝ち組み、負け組みなどという話が大手を振って話題になった。いまでもそうなのかな?学校生活を考えてもまぁ上の25%はとにかくエリート意識を持っていて、やがてはいい学校いい就職いい会社いい結婚いい生活いい葬式?と順調にいい人生を送ってゆく。と考えられているらしい。そうすると後の75%の人間は良くない人生なのかね?
公立の学校の教師をしていた時によく感じたことがある。運動会はまだしも行進の練習とか全員で体操などやっているとこれは何の訓練なのか?国からお金を貰っているのだから仕方ないのかなぁ、まぁある程度成績のいい奴はいいけど、その他大勢組みはどう生きろと言えばいいのか、一生上の奴らのご機嫌伺ってお上には逆らいませんみたいな生き方をしろというのかなと漠然と思ったね。
はっきり言って学校の勉強という能力には適正があるよな。出来る奴は勉強などやらなくても点は取れる。反対にどんなに頑張っても限度というものがある。それを「負け」と言ってしまうとどうやっても浮かばれない。
まず大人たちが、そういった価値観で生きているから、どうやっても「勝だ負ける」にこだわってしまう。結局ライブドアのホリエモンじゃないけれど「お金を稼いだものが一番だ」といった発想になる。「速い、安い、上手い」といううたい文句があるけれど、なんだろうな、とにかく効率、便利、手軽という一元的な価値で世の中が進んでしまうことが、色んな弊害の元だ。
時代が進んで価値が凄く多様化しているように見えるけれど、実のところはこの効率という価値にどんどん一元化されてきているように思うなぁ。いまここではっきり違うと意識しなきゃいけないのじゃないか。
成績がよく何でも手早くすます能力だけが幸せをつかむレシピだと考えるのではなく、色んな人生の選択があってそれでも充分生きがいを感じて生きてゆけるんだということを、身をもって教えて行くべきだ。
具体的には言えば「お金などなくても楽しく生きられるレシピ」を教えることだ。そんな人はたくさんいると思う。そういう人を「人生の勝ち組み」というのだ。
確かに豊かに暮らすというのは難しい。勿論お金もなくてはならないだろうけれど、お金が全てではない。多分いつの時代も不満はあったし、戦後の食うや食わずの時代にも幸せはあったように思う。全ては相対的なものだと言ってしまえば話は進まなくなってしまう。
一時勝ち組み、負け組みなどという話が大手を振って話題になった。いまでもそうなのかな?学校生活を考えてもまぁ上の25%はとにかくエリート意識を持っていて、やがてはいい学校いい就職いい会社いい結婚いい生活いい葬式?と順調にいい人生を送ってゆく。と考えられているらしい。そうすると後の75%の人間は良くない人生なのかね?
公立の学校の教師をしていた時によく感じたことがある。運動会はまだしも行進の練習とか全員で体操などやっているとこれは何の訓練なのか?国からお金を貰っているのだから仕方ないのかなぁ、まぁある程度成績のいい奴はいいけど、その他大勢組みはどう生きろと言えばいいのか、一生上の奴らのご機嫌伺ってお上には逆らいませんみたいな生き方をしろというのかなと漠然と思ったね。
はっきり言って学校の勉強という能力には適正があるよな。出来る奴は勉強などやらなくても点は取れる。反対にどんなに頑張っても限度というものがある。それを「負け」と言ってしまうとどうやっても浮かばれない。
まず大人たちが、そういった価値観で生きているから、どうやっても「勝だ負ける」にこだわってしまう。結局ライブドアのホリエモンじゃないけれど「お金を稼いだものが一番だ」といった発想になる。「速い、安い、上手い」といううたい文句があるけれど、なんだろうな、とにかく効率、便利、手軽という一元的な価値で世の中が進んでしまうことが、色んな弊害の元だ。
時代が進んで価値が凄く多様化しているように見えるけれど、実のところはこの効率という価値にどんどん一元化されてきているように思うなぁ。いまここではっきり違うと意識しなきゃいけないのじゃないか。
成績がよく何でも手早くすます能力だけが幸せをつかむレシピだと考えるのではなく、色んな人生の選択があってそれでも充分生きがいを感じて生きてゆけるんだということを、身をもって教えて行くべきだ。
具体的には言えば「お金などなくても楽しく生きられるレシピ」を教えることだ。そんな人はたくさんいると思う。そういう人を「人生の勝ち組み」というのだ。
はる 3023
今日はとても驚いたことがあった。まぁ大したことではないのだけれどね。
私は自分の画集をネットで販売しているにもかかわらず、いままでネットで買い物したことがなかった。まぁそれに近いような例えばホテルの予約みたいなことは必要に迫られて活用はしていたのだけれど、実際に現物を見ないで買い物をするということに若干の違和感があるんだな。随分と古風な考え方だと言われればその通りなんだけれど、多分これからもそれはあまり変わらないように思う。
ところで驚いたことと言うのは、チェロの教則本なんだけれど、これは県内の楽器屋さんにもあることはあるのだけれど、欲しいと思う本は洋書だったりすると、もうこれは注文するしかない。実は前に注文したら随分と時間がかかった。それはそうだろう、そんなに需要がある本でもないし、倉庫に置いておいても右から左に売れてゆくものでもない。場所ふさぎだし、ひょっとすると最後まで売れないかもしれない、そんな本を置いておくより、もっとポピュラーな売れ線の本を置きたいわな。私が店主でもそう思う。
ところが、昨日ネットで検索してそういった洋書の楽譜を扱う専門店を見つけた。地方のそれもほとんど誰も知らないようなお店で、たぶんお店の形態もしていないのではないだろうか。いや見つけたというより、その本のタイトルと検索したら一発でそこに飛んだ。で、在庫数5で即日発送しますということだ。午前中にがたがたとして必要事項を書き込んで注文したら、午後には発送しましたというメールがきて、何と今日朝の10時には手にすることができた。何と、24時間以内にマイナーなほとんど店頭にはない本を手にすることが出来た。
実感として世の中というのか、販売の形態というのが変わりつつあるのがよく分かった。少し前の「ウエブ革命」?かな、その本にそんなことが書かれていたなぁと思い出した。確かにこういった今まで埋もれていた古書とか廃盤のレコードどか、マニアックな品物とか骨董とかは、なかなか世の中に晒されることがなかった。私物化されるともうほとんど死蔵・デッドになって世の中から存在が消えてしまう。
パソコンというのかネットというのこういったバーチャルなせかいではこういったことが一番得意である。で、よく考えるとこれはじつはニ三日前の写真からデッサンを起こす方法と同じことなんだな。
少し繰り返しになるけれど書く。現実の世界は三次元であるから、二つの目で見た像を個人の頭の中で一つの画像として統合している。立体を絵にした時の何ともいえないあの分厚い立体感はそんなところから来ている。要する三次元の像には正面や側面がある。奥行きがある。描き手はそれをかき分けなければならないわけだ。
ところが写真の画像には奥行きがない。当たり前だけれど、奥行きがありそうに描かれていてもそれをかき分けてはいない。実は全てが同じ光の点、同じ絵の具の点になっているからだな。
パソコンにとっては大ベストテラーも100年に一冊しか売れない本も同じ価値しかない。一冊は一冊、価値のある本もない本も同じ。そこのところが人間の尺度を越えているということだな。
こういったブログも同じだな、意味のある意見も、まったく意味のないアホな意見も同じ重要度で存在する。味噌くそ状態。今後ますますこういったバーチャル化が進むと考えると、そうだな、どういう方向に進んでいるのかといえば、宇宙の混沌に近いかもな。結局のところ誰も重要ではないし、何も特別なことはない。全ては並列でお互いに影響しあいながら離れていっている。やがてはそれぞれが素粒子になって宇宙に飛び出して行くのかもしれない。
何のこっちゃ。
今日はとても驚いたことがあった。まぁ大したことではないのだけれどね。
私は自分の画集をネットで販売しているにもかかわらず、いままでネットで買い物したことがなかった。まぁそれに近いような例えばホテルの予約みたいなことは必要に迫られて活用はしていたのだけれど、実際に現物を見ないで買い物をするということに若干の違和感があるんだな。随分と古風な考え方だと言われればその通りなんだけれど、多分これからもそれはあまり変わらないように思う。
ところで驚いたことと言うのは、チェロの教則本なんだけれど、これは県内の楽器屋さんにもあることはあるのだけれど、欲しいと思う本は洋書だったりすると、もうこれは注文するしかない。実は前に注文したら随分と時間がかかった。それはそうだろう、そんなに需要がある本でもないし、倉庫に置いておいても右から左に売れてゆくものでもない。場所ふさぎだし、ひょっとすると最後まで売れないかもしれない、そんな本を置いておくより、もっとポピュラーな売れ線の本を置きたいわな。私が店主でもそう思う。
ところが、昨日ネットで検索してそういった洋書の楽譜を扱う専門店を見つけた。地方のそれもほとんど誰も知らないようなお店で、たぶんお店の形態もしていないのではないだろうか。いや見つけたというより、その本のタイトルと検索したら一発でそこに飛んだ。で、在庫数5で即日発送しますということだ。午前中にがたがたとして必要事項を書き込んで注文したら、午後には発送しましたというメールがきて、何と今日朝の10時には手にすることができた。何と、24時間以内にマイナーなほとんど店頭にはない本を手にすることが出来た。
実感として世の中というのか、販売の形態というのが変わりつつあるのがよく分かった。少し前の「ウエブ革命」?かな、その本にそんなことが書かれていたなぁと思い出した。確かにこういった今まで埋もれていた古書とか廃盤のレコードどか、マニアックな品物とか骨董とかは、なかなか世の中に晒されることがなかった。私物化されるともうほとんど死蔵・デッドになって世の中から存在が消えてしまう。
パソコンというのかネットというのこういったバーチャルなせかいではこういったことが一番得意である。で、よく考えるとこれはじつはニ三日前の写真からデッサンを起こす方法と同じことなんだな。
少し繰り返しになるけれど書く。現実の世界は三次元であるから、二つの目で見た像を個人の頭の中で一つの画像として統合している。立体を絵にした時の何ともいえないあの分厚い立体感はそんなところから来ている。要する三次元の像には正面や側面がある。奥行きがある。描き手はそれをかき分けなければならないわけだ。
ところが写真の画像には奥行きがない。当たり前だけれど、奥行きがありそうに描かれていてもそれをかき分けてはいない。実は全てが同じ光の点、同じ絵の具の点になっているからだな。
パソコンにとっては大ベストテラーも100年に一冊しか売れない本も同じ価値しかない。一冊は一冊、価値のある本もない本も同じ。そこのところが人間の尺度を越えているということだな。
こういったブログも同じだな、意味のある意見も、まったく意味のないアホな意見も同じ重要度で存在する。味噌くそ状態。今後ますますこういったバーチャル化が進むと考えると、そうだな、どういう方向に進んでいるのかといえば、宇宙の混沌に近いかもな。結局のところ誰も重要ではないし、何も特別なことはない。全ては並列でお互いに影響しあいながら離れていっている。やがてはそれぞれが素粒子になって宇宙に飛び出して行くのかもしれない。
何のこっちゃ。
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