画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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はる 3005
あいつは何をやるか分からないというのはやっぱり怖いものだ。最近では「きれる」という言葉を使うのかな。まぁ、ほとんどの場合は「切れたフリ」してその場の居たたまれなさをごまかしているのだろうけれど、何割かは実際に忘我の境地に達してしまった人がいるのだろう。
何か調べて書いているわけではないので、適当な話なので流して読んで欲しい。で、一度そういった臨界を越えた人というのは意識するかしないかは別にして、往々にしてそういった状態になりやすいのではないかと想像する。催眠状態というのは、何処か潜在的な無意識の世界に入り込んでいるのだと思うのだけれど、慣れた人はすぐにそういった無意識の状態に入れるようだな。どう考えても自分がそう簡単にあちらの世界に行けるとは思えない。
個人の許容量みたいなものかもしれないけれど、人によってそのタガというのかバリアーというのが色々のように思う。で、そういったタガはどうやってきまるのかというと、遺伝子的なレベルもあるだろうけれど、案外というのかほとんどが家族環境によるのではないかな。どういった家族構成なのか、信仰をもっているのか、親の職業とか、裕福か貧乏かとかね。
私のタガは非常に強固だった。一重も二重も何重にも巻きついていて容易にははずすことはできない。いや、今でもそれが外れた自分というのが想像できないし、普段はそのタガによって守られている自分というのを感じるのだけれどね。
唯一そのタガを越えたのは「絵描きになろう」と決めた時だ。学校の正規の教員を辞めた時にどれだけ開放された気持ちになったか。まぁほとんど後先を考えずに辞めてしまったけれど、不安とか心配というのはなかったな。それよりもこれでやっと本来の望んでいた生き方が出来る。もう後にはひけないと、気持ち的には随分と楽になった。
ところで、話は少し飛ぶのだが、芭蕉の「笈の小文」というのをご存知か。恥ずかしながら私は全く知らなかった。実は先日、山口画廊のオーナーから飯嶋和一の「始祖鳥記」を読んでみろといただいた。江戸時代の話なのだが、その主人公は空を飛ぶことに一生をかける。まぁ時代がそんなことを許す時代ではなかったので、時の権力者の捕らえられてしまうのだが、そのときに聞かれるのだ。「おまえの中にやっぱり、風羅坊がいるのか?」
どうしても、どうしても、飛びたくなってしまう。いいかげんに上手く世の中を黙って黙々と働いていれば捕らえられることもなかったのに、この主人公は飛んでしまうのだな、命懸けで。
その風羅坊というのが芭蕉の別名で、自らをそう呼んでいる。全てを捨てて漂白のたびに出てしまう、その因果なDNAをそう詠んでいる。
あいつは何をやるか分からないというのはやっぱり怖いものだ。最近では「きれる」という言葉を使うのかな。まぁ、ほとんどの場合は「切れたフリ」してその場の居たたまれなさをごまかしているのだろうけれど、何割かは実際に忘我の境地に達してしまった人がいるのだろう。
何か調べて書いているわけではないので、適当な話なので流して読んで欲しい。で、一度そういった臨界を越えた人というのは意識するかしないかは別にして、往々にしてそういった状態になりやすいのではないかと想像する。催眠状態というのは、何処か潜在的な無意識の世界に入り込んでいるのだと思うのだけれど、慣れた人はすぐにそういった無意識の状態に入れるようだな。どう考えても自分がそう簡単にあちらの世界に行けるとは思えない。
個人の許容量みたいなものかもしれないけれど、人によってそのタガというのかバリアーというのが色々のように思う。で、そういったタガはどうやってきまるのかというと、遺伝子的なレベルもあるだろうけれど、案外というのかほとんどが家族環境によるのではないかな。どういった家族構成なのか、信仰をもっているのか、親の職業とか、裕福か貧乏かとかね。
私のタガは非常に強固だった。一重も二重も何重にも巻きついていて容易にははずすことはできない。いや、今でもそれが外れた自分というのが想像できないし、普段はそのタガによって守られている自分というのを感じるのだけれどね。
唯一そのタガを越えたのは「絵描きになろう」と決めた時だ。学校の正規の教員を辞めた時にどれだけ開放された気持ちになったか。まぁほとんど後先を考えずに辞めてしまったけれど、不安とか心配というのはなかったな。それよりもこれでやっと本来の望んでいた生き方が出来る。もう後にはひけないと、気持ち的には随分と楽になった。
ところで、話は少し飛ぶのだが、芭蕉の「笈の小文」というのをご存知か。恥ずかしながら私は全く知らなかった。実は先日、山口画廊のオーナーから飯嶋和一の「始祖鳥記」を読んでみろといただいた。江戸時代の話なのだが、その主人公は空を飛ぶことに一生をかける。まぁ時代がそんなことを許す時代ではなかったので、時の権力者の捕らえられてしまうのだが、そのときに聞かれるのだ。「おまえの中にやっぱり、風羅坊がいるのか?」
どうしても、どうしても、飛びたくなってしまう。いいかげんに上手く世の中を黙って黙々と働いていれば捕らえられることもなかったのに、この主人公は飛んでしまうのだな、命懸けで。
その風羅坊というのが芭蕉の別名で、自らをそう呼んでいる。全てを捨てて漂白のたびに出てしまう、その因果なDNAをそう詠んでいる。
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