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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3001
 おぉ、三千台が始まりましたね。何か凄く遠いところまで来たという気がします。ちょっと出かけてきます。書けたら又後で書きます。とりあえずここまで。

 絵を売るということに凄く違和感があった時期がある。今でもそんなにスッキリとした割り切り方が出来ているわけではないが、当時と比べると随分楽になった方だろう。ファインアートというのだろうか、青臭い芸術論とか芸術家に憧れてこの世界に入ったものは、最初の頃は絵を売ることに抵抗を感じる。仕事として絵を描いているわけではないと考えているからだな。

 絵を描く仲間と話していても、どうもそこらあたりで話が食い違うことがある。絵を描くことは自分のライフワークで生活の糧を稼ぎ出す仕事ではないと考えている人がわりと多い。そうすると生活の糧はほかで得なければならない訳で、まぁだから普通は学校の先生とかカルチャーの講師などをその場しのぎの職業にする。その方が好きな絵は描けるし、生活も安定する。でもそれは絵描きではない、生きた絵は描けない。

 絵が売れるからいい作家だとは思わない。いい作家でなくても絵は売れるからだ。明らかに手を抜いた、壁の飾りのような絵でも、ニセモノの版画でも、芸能人の下手くそな絵でも人は名前が通っていれば何の疑いもなく絵は売れて行く。まぁそれはそれでそんな絵もあってもいい。どんな形でも絵を売ってしのいでいるなら立派な「絵描き」だ。
 
 私はどうもそこらあたりがまだ青臭いところがあって、「売り絵描き」というのに凄く抵抗がある。やっていることは「売り絵描き」に近いにも関わらず、自分はそうではないと思っているふしがある。見る人が見れば同じようなものかな。

 このことはもう少し書きたい。
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3000(祝3000カウント)
 はる1が   2000 9/25
 はる1000が 2004 2/28
 はる2000が 2006 12/12
 はる3000が 2009 9/6

 まぁ野球選手が記録のコメントで「通過点ですから」というふうなことをよく言いますが、現役引退するまで通過点に過ぎない。引退はいつか?神ののみぞ知る。



 
はる 2999
 あぁ、明日が3000だ。 といいながら、今日もまた忙しくてバタバタとしていた。明日はゆっくりできるかな。では。
 



 
***祝はる3000カウント記念企画***
 残り三冊
 今日より先着10名様に08年制画集「こたえてくださいvol1」をプレゼントします。
期限は2009 8/27~9/10までとします。

 ここに住所、氏名を書いて送り返してください。購入と区別するために本文のところに
「祝3000カウント、画集希望」
と必ず書いてください。
希望としては、できるだけ私のことを知らない、
あったこともない人とのコンタクトが欲しいですね。待ってます。
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はる 2998
 またあと書ければ書きます。
 



 
はる 2997
 かぼちゃは偉い。種一つからかぼちゃがすでに6つ取れている。今まだ3つ大きくなっているので都合10個以上は出来るだろう。初めは自然に放っておいたのだが、かわいい雌花が付いたと思ったらニ三日すると黄色くなってしぼんでいた。家庭菜園の指南書を買って読むとなんと人工授精しろということだった。放っておいても二つに一つは実をつけるようだけれど、人工授精したほうがより確実らしい。同じツルに雄花と雌花が付くことさえ知らなかったのだから、なんと無知だったのだろうか。しかし、かぼちゃはかなり繁殖力が旺盛だな。さすがに飢饉の植物だけのことはある。切らずに置いておけばかなりの間保存することができるし、完全な無農薬野菜だし、この冬は甲州名物のほうとうを自家製のかぼちゃで食うことができる。めでたしめでたし。

「このところ考えていることの続き」
 ピカソやブラックがコラージュを始めた理由はなんだろうか。古い新聞紙や雑誌を切り抜いて自分の作品の仲の一部として取り込んだ。文字や写真という当時珍しい新しい媒体を画面の中に持ち込んだということが新しかった。それに例えばコップをコップとして画面に再登場するのではなく、全く関係のない果物や花などに変えてしまうそんなところが凄く斬新で新しかったように思う。

 価値の転換、見立てるというのはお茶の世界のはなしだけれど、新しい価値の発見というのが芸術の一つの大きな要素だとおもうんだな。今までは何でもなかったものを、これにはこういった価値があるんだと言ってのけること、そのことが面白い訳だ。骨董の青山二郎はこんなことを言っている。
 「優れた画家が、美を描いた事はない。

 優れた詩人が、美を歌った事はない。

 それは描ききれるものではなく、

 歌い得るものでもない。

 美とは、それを観た者の発見である。

 創作である」

 ミクストメディアはある意味で異なる材質のコラージュだと思う。紙だけではなく布や木、土、その他親水性のあるものならあらゆるものが画材として画面の中に持ち込むことが出来る。絵の具にしても一番元のところまで下がって「絵の具は色の粉だ」というところまで還元できる。そうやって私は多くの新しい絵の具を手に入れた。

 何故だろうというのが私の癖だ。そしてどんどん前に戻って行く。何か物事を考える時にそうなった一つ前の理由を足がかりに考えて行く。数学の演繹的にはそうやって考えて行くといつかは元のオリジナルなものにぶつかるだろう。

 もう少し考えをすすめて行く。徒然なので結論の出るものではありません。



私の出稼ぎグッズ
はる 2996
 今日から三彩堂で「裸婦クロッキー展」をやっている。機会があれば覗いていってやってください。私も3点ほど出品しています。以下はその宣伝
「裸婦クロッキー展」
2009 9/2~9/9 9/7休み
甲府市貢川1-1-12
055-226-8393

 世の中の全てのものは動いている。動いているという言い方は正確ではない。同じ状態であることは出来ないといった方がより正確か。水が高いところから低いところに流れるように、この世のすべてのものは常にある方向に向かって進んでいる。この宇宙の星達もこの宇宙そのものも例外ではない。そしてある一定の限界、臨界点に達すると膨張したり爆発したり、融合したりして他の物質を取り込んだり、吸収したり、その一部を自分のものにしたりして新しい星に生まれ変わる。これは星だけではない宇宙そのものがそんことを繰り返しているのだろう。したがって今ある宇宙はすでに何世代か生まれ変わった後の形ではないかと思っている。

 幾度となく書き散らかしていることなのだが、生命の発生のプログラムは多分この宇宙の誕生から衰退して消えてゆくまでを模倣しているのではないかと思う。でなければこんなに都合よく何の見本もなく生命が生まれるわけがない。と考えると我々は宇宙そのものだということになる。少なくとも宇宙の遺伝子をもっていることになる。

 神というのが本当に存在するのかどうかそのことの直接的な答えではないけれど、その大きな理はたぶん神がつくったというのか、大いなるものを真似たものであるきがする。だからどうしたといわれれば困るのだけれど。

 話が変わって
 ミクストメディアの面白いところは、いやそんなものは百も承知だといわないで少し聞いて欲しい。

 人のスタイルというのは意外に変化しないものだ。特に長年その道で生きてきたものにとって自分のスタイルというのは変え難いものだ。こうやればこうなってどういった効果が生まれるか、知り尽くすことになる。まぁそれが熟練するということだな。ところでどうなんだろうか、自分が絵を描く理由を考えると、そういった分かりきったものを作り出すことが目標、目的なんだろうかね。確かに確実に熟練はするのだけれど、職人のようにきっちり形あるものを作り出すということが目的なんだろうか。結果的に絵が出来てくるのだけれど目的ではない。

 自分のスタイルだけでやっていると煮詰まってくるんだな。軽い自家中毒に近い状態になる。まぁ反面そこまで突っ込んで自家中毒にならなければ本物にはなれんという話もわかるけれどね。私の知り合いの日本画のブログを読むと、現場に行って泊り込んで具合が悪くなって救急車のお世話になったというふうなことが臨場感たっぷりに報告されていたけれど、それはそれで一つのスタイルで尊敬はできるのだけれどね。徹底して見つめることで見えてくるものだあるだろう。愚直に、私はそこまでというのかまるっきりそこまで自家中毒にはなれないなぁ。

 新しいものが生まれる瞬間というのは、考えて出来るものではないきがする。どこか偶然というのか人智を超えたある種の啓示によって気がつくというのか、知らされるのではないかな。その方法は人によってさまざまだとはおもうのだけれどね。

 自分では考えつかないような色や形、肌触りなどコラージュすることによって画面に持ち込むことが出来る。

 続きは又だな、眠くなった。

 



 
はる 2995
 ダーウィンの進化論の優れているところは、普通、弱肉強食で強いものが種として生き残ると考えるところを、実はそうではなく柔軟に環境に変化出来たものが生き残るのだとしたところだ。いつの時代でも強いものが勝と思われがちだけれど、その時代にあまりにも適応しすぎて強くなりすぎると反対に少しの変化で適応できなるという示唆を含んでいる。

 少し前に司馬遼太郎の『夏草の賦』長宗我部元親の話を読んだ時に、主人公が自身は凄く臆病でだからこそ戦略家として一流なんだ、勇気があって武勇の徒などは軍人としては使えるけれど危なくて頭には仕えないというふうなことが書かれていた。まぁこれなんかも凄くよく分かる。何でも両刃の剣のところがあって強いだけが必要なわけではない。弱いところがあるから如何にすれば戦えるかということを考える、そのことがトップとしては要だということなんだな。

 強さがもろさであり、弱さがしたたかさを生む。物事は決して一面ではなくて、少なくとも表裏複数の面をもっている。そのことを理解していないと物事の本質を見失うということだな。まぁ面白い。

 ところで、こんな話を書くつもりで書き始めたのではない。ミクストメディアで他の作品を取り込んでいくその柔軟性の正当性をいいたくて書きはじめたのだが、そこに行く前に眠くなった。ではまた明日。



 
はる 2994
 昨日は選挙で地元も大騒ぎだったようだ。歴史的大敗とか勝利とか、まぁいつもいわれている常套句のような気もするけれどね。我々は大体が一元的なものに流れやすい国民性があるのかな、右なら右、左なら左と誰かの意見に惑わされる。

 今ならテレビとかマスコミの意見がそのまま自分の意見だと思っている人が多いな。まぁ洗脳されやすい国民性なんだろう。批判精神というのかな、自分でモノを考えるという習慣がないというのか、教えられていないので、人の意見に従いやすいわけだ。どちらかといえば自分の意見を述べる人は「うるさ型」などといわれて煙たがられる。

 農耕的な民族だから、全てが一列に並んでいっせいに作業する。個の意見はこの場合ほとんど邪魔になる。ただ一つの機械、部品として働いてくれればいいわけで、列を乱すものはとことん嫌われる。村八分になる。これが恐ろしい、いじめだな。だからじっと我慢が尊ばれるわけだ。聖徳太子の十七条の憲法でも一番大事なのは「和」だとあげている。まぁ今それをあらためて読んだけれどほとんどが官僚、役人について述べているんだな、今のお役人さんもよくよく読んで欲しい。

 サッカーなどを見ているとはっきりあれは狩人のスポーツだとわかる。集団で追い込んで一番いいチャンスがあるものが獲物を仕留める。だから誰もが瞬時の判断が要求されるシュートが撃てるわけだ。運動能力というのもあるけれど、まぁ訓練というのか民族のDNAだろうな。同じアジアの中でも韓国人は農耕もやるけれど、どちらかといえば狩人の血が流れている。焼肉(大好きだ)を食ったり、犬を食ったりするのはその証拠だろう(非難しているのではないのでくれぐれも)血が熱い。顔はよく似ているけれど明らかな違いがあるな。

 まぁ最近はさらにおたく化が進んで若い男が植物化しているのでよけいにこういった洗脳現象が起きるのではないだろうかね。ちょっと末恐ろしい気がするのは私だけかね。



 
はる 2991
 夏が終わります。どことなく寂しいですな。

 めったにテレビは観ないのだが、ここ四日ばかり井上陽水をやっていたので続けてみた。まぁ彼とはほぼ同じ世代でね、言っていることがよく分かった。最終的にやっぱり歌手は歌が上手くなければ生き残れないのかな、それに何とも詩がシュールで面白い。歌謡曲ふうでありながらほとんど抽象的な言葉遊びをやっている。そんなことができるのも歌が上手いという余裕かもしれんなぁ。

 「最後のニュース」を初めて聞いた時はさすがだなと感動したな。あんなニュースの断片を羅列しただけで何処となく終末観がただよう詩にしてしまうのだから凄いねぇ。「少年時代」も好きな歌でね。何かそんなタイトルの絵を描いたおぼえがある。

 リリー・フランキーと対談していたけれど、あれだけの当たりを取った作家とシンガーでも「禍福はあざなえる縄の如し」というふうなことを言っていた。大きな成功を収めるとそれと同じだけの犠牲も払わなきゃならんということだな。結局幸福と不幸はおなじもので表裏なんだろう。ある一方から見れば幸にみえるものが、反対から見れば不幸だったということだ。

 自分だけ不幸だなどとよく言ったり聞いたりするけれど、それは一方的な見方でね、もしそうしか見えないなら見方が浅いということだろうね。その最中には分からないのだけれど、人生はなかなか面白いしよく出来ている。全てのことはプラスマイナス0、ここでもエネルギー不変の法則は生きている。
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