画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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はる 3011
いやもう三千も11になった。日々というやつは過ぎてしまえば夢の如し。おそろしいものです。こうやって毎日カウントしてゆくと、一年が365日というのを時々意識する。人の一生というのは有限で80年生きたとしても大した数ではない。
話題を変えて
絵を描きはじめた動機というのは何だったのだろうか。母親が少し趣味で絵を描いていたというのがあるけれど、特に親戚に絵を描くことを仕事にしたり、職人がいたりしたわけではない。だから小さい時からの職業の選択肢に物を作る仕事というのはなかったな。そういった意味では私の家系では凄く場違いなありえない選択だったように思う。自分自身の小さい頃を考えて特に内向的な文学的な嗜好を示したガキンチョではなったわけで、どちらかと言えば反対にガキ大将的であった。
高校時代から何か書くことが好きだった。それは日々の出来事を記録するという風な日記ではなく、自分の心のありようを知りたかったというような、今のもとになるような問いかけだったように気がする。今以上にもっと切実に誰かに聞いてもらいたかった、知ってもらいたかった、なんだろうな「私を見て」というのがやっぱり最初の声だったように思う。それはまぁだれでもそうなんだけれどね。自我と言うものが出てきて、どうして今ここにいるんだろう?と気付く頃だからね。
勉強が出来ればそこそこ評価されたんだろうけれど、受験勉強は要領が悪かったな。今もそうだけれど、時間の使い方とか集中力がない。能力もなかったのだけれど、そんな人間が普通に評価される場などない。特に秀でたものもなかったからな。
最初の大学は入れてくれたとこに入った。けれど、ほとんど学校には行ず、昼も夜もアルバイトに明け暮れていた。何が出来るのか、何ができるのか、実践で手探りで探していたようなところがある。だからアルバイトの数は半端なものじゃない。夜はジャズ喫茶の店長というのが一番気に入っていた、出来たら自分もそんなお店でもやって生きて行こうかなと考えていた。
どうしても極普通に就職して仕事してという気になれなかった。適当にアルバイトして食いつないでいく、今の派遣で生きている適当なぷー太郎の先輩だな。だから今の若い人に何も偉そうなことはいえない。昔の自分を見るようだ。無責任で適当で根性なしで自分のことしか考えていない。若い頃に戻りたいなどとは全く思えないな。二十代の前半はしんどいな。どうしたらいいのか全く道が見えないからだ。
そんな生活でも多少なりとも得ることはある。アルバイトはやはりアルバイトでしかないということだ。仕事という大きな意味で考えたらほとんど得るものがない。時間を労働力をお金にかえているだけだ。アルバイトによって大きく人間が変わるとか成長するということは期待できない。長い人生を考えた場合自分にとっては何か手仕事・職人仕事が一番適しているのかなと思った。
まぁそこから手仕事の修行が始まる。まず京都に出て焼き物の手付けの仕事を見つけてくる。これは工房に弟子入りみたいなものだから、何でもやった。土練りから、釜入れ、釜だし、掃除から洗濯までやる。飯は工房で出るからお金はかからなかった。まぁ微々たる給料だったけどね。二年ぐらいやったかな。まぁ二年やると不満も出てくる。我慢して10年やって独立という手もあったのだけれど、同じ物を数作る、まぁ職人とはそういったものだな。ところが京都という場所柄作るものが観光客相手のみやげ物的なものなんだな。これがまた飛ぶように売れるわけだ。我々が作っているところをサルのように見せてね。じゃ辞めたと辞表をだす。
まぁこうなったら好きな絵を描いて売れても売れなくても生きて行くかと考えたわけだな。収入はアルバイトで本業は絵を描くと一応の方針を決めた。これで生活は苦しくなったけれど、気持ちは随分と楽になった。
その後はまただな。
いやもう三千も11になった。日々というやつは過ぎてしまえば夢の如し。おそろしいものです。こうやって毎日カウントしてゆくと、一年が365日というのを時々意識する。人の一生というのは有限で80年生きたとしても大した数ではない。
話題を変えて
絵を描きはじめた動機というのは何だったのだろうか。母親が少し趣味で絵を描いていたというのがあるけれど、特に親戚に絵を描くことを仕事にしたり、職人がいたりしたわけではない。だから小さい時からの職業の選択肢に物を作る仕事というのはなかったな。そういった意味では私の家系では凄く場違いなありえない選択だったように思う。自分自身の小さい頃を考えて特に内向的な文学的な嗜好を示したガキンチョではなったわけで、どちらかと言えば反対にガキ大将的であった。
高校時代から何か書くことが好きだった。それは日々の出来事を記録するという風な日記ではなく、自分の心のありようを知りたかったというような、今のもとになるような問いかけだったように気がする。今以上にもっと切実に誰かに聞いてもらいたかった、知ってもらいたかった、なんだろうな「私を見て」というのがやっぱり最初の声だったように思う。それはまぁだれでもそうなんだけれどね。自我と言うものが出てきて、どうして今ここにいるんだろう?と気付く頃だからね。
勉強が出来ればそこそこ評価されたんだろうけれど、受験勉強は要領が悪かったな。今もそうだけれど、時間の使い方とか集中力がない。能力もなかったのだけれど、そんな人間が普通に評価される場などない。特に秀でたものもなかったからな。
最初の大学は入れてくれたとこに入った。けれど、ほとんど学校には行ず、昼も夜もアルバイトに明け暮れていた。何が出来るのか、何ができるのか、実践で手探りで探していたようなところがある。だからアルバイトの数は半端なものじゃない。夜はジャズ喫茶の店長というのが一番気に入っていた、出来たら自分もそんなお店でもやって生きて行こうかなと考えていた。
どうしても極普通に就職して仕事してという気になれなかった。適当にアルバイトして食いつないでいく、今の派遣で生きている適当なぷー太郎の先輩だな。だから今の若い人に何も偉そうなことはいえない。昔の自分を見るようだ。無責任で適当で根性なしで自分のことしか考えていない。若い頃に戻りたいなどとは全く思えないな。二十代の前半はしんどいな。どうしたらいいのか全く道が見えないからだ。
そんな生活でも多少なりとも得ることはある。アルバイトはやはりアルバイトでしかないということだ。仕事という大きな意味で考えたらほとんど得るものがない。時間を労働力をお金にかえているだけだ。アルバイトによって大きく人間が変わるとか成長するということは期待できない。長い人生を考えた場合自分にとっては何か手仕事・職人仕事が一番適しているのかなと思った。
まぁそこから手仕事の修行が始まる。まず京都に出て焼き物の手付けの仕事を見つけてくる。これは工房に弟子入りみたいなものだから、何でもやった。土練りから、釜入れ、釜だし、掃除から洗濯までやる。飯は工房で出るからお金はかからなかった。まぁ微々たる給料だったけどね。二年ぐらいやったかな。まぁ二年やると不満も出てくる。我慢して10年やって独立という手もあったのだけれど、同じ物を数作る、まぁ職人とはそういったものだな。ところが京都という場所柄作るものが観光客相手のみやげ物的なものなんだな。これがまた飛ぶように売れるわけだ。我々が作っているところをサルのように見せてね。じゃ辞めたと辞表をだす。
まぁこうなったら好きな絵を描いて売れても売れなくても生きて行くかと考えたわけだな。収入はアルバイトで本業は絵を描くと一応の方針を決めた。これで生活は苦しくなったけれど、気持ちは随分と楽になった。
その後はまただな。
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20代の焦燥感
こんちは、あの昭和の高度成長期から、いよいよ社会に出てゆく頃、何とも云えないフンズマリ感、イヤ失礼、、(笑)ありました。
手の出しようがない、焦燥感、,結局一つの選択肢がそのまま,発展するという、こちらからの,期待感はすべて,社会から排除されてしまう感じで,20代はいつもそんな状況で、何となくやりたい職場のそばにいればいいみたいでした.僕の場合は、、死んでもサラリーマンにはなりたくないと,何の根拠もないのですが,会社組織の歯車になる恐怖みたいな事がありましてね、、、男の志じゃネーだろう的ないきがりですかね、、、それから、みょうに、分けの分からぬ自信みたいなものもあって、それも自家中毒になっていた。
はるさんまた,昔話お聞かせを、、、
手の出しようがない、焦燥感、,結局一つの選択肢がそのまま,発展するという、こちらからの,期待感はすべて,社会から排除されてしまう感じで,20代はいつもそんな状況で、何となくやりたい職場のそばにいればいいみたいでした.僕の場合は、、死んでもサラリーマンにはなりたくないと,何の根拠もないのですが,会社組織の歯車になる恐怖みたいな事がありましてね、、、男の志じゃネーだろう的ないきがりですかね、、、それから、みょうに、分けの分からぬ自信みたいなものもあって、それも自家中毒になっていた。
はるさんまた,昔話お聞かせを、、、
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