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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 2972
 風邪なのか扁桃腺が少しはれて微熱がある。大したことはないけれど、夏風邪は熱くてだるい。少し夏の疲れが出てきたのかな。

 昨日の続きのようだけれど、少し違う話を書こう。日常と言うのはありふれたものだ。だから昔からお祭りがあって、大衆はお祭りの非日常を少し浮かれたようにたのしんだ。どこかで息抜きをしないと良からぬことをしでかしたり考えたりするからだな。

 「はれとけ」って言うんだそうな。ハレ舞台のはれかな。ブラジルのリオのカーニバルなど死人が出たりする。日本でも諏訪の御柱などけが人や死人が出たりする。まぁ元々我々はそんな詰まらんことに命かけたりするんだな。誰も責められない,そういう浮かれ者が人なんだ。

 芸能と言うのは元々巫女みたいなもので、神楽とか舞など遊びから転じた職業だ。今の芸能界はやや違うけれど、「はれとけ」があやふやで、いつもやや興奮気味で、日常生活では飽き足らないと思っているようだな。脳内麻薬ではないけれど、芸能にはそんなものが元々付加されているのじゃないだろうか。どうも紙一重のところがあるように思う。まぁだからといって肯定しているわけではないので、間違わないように。

 よく言われることなんだけれど、例えば酒によって気持ちよくなって書いた文章を人様が読んで気持ちいいか?といえばけっして面白いとはいえない。ここが難しいところなんだけれど、人を酔わせるには自分が酔ってしまっては出来ないのではないかと思うんだな。まぁそれだけではないだろうけれど、適度にアルコールが入ってリラックスするのはいいのだけれど、酔っ払ってしまえばただのクダになってしまう。

 それからもう一つ感じたのは、皆がみな正義の味方のようになって一人をたたくのは我々独特な村意識があるのじゃないかな。どうも世論というのか上手い具合にコントロールされて最初は同情的だったのが、いきなりバッシングの変わるのがこれまた恐ろしいね。

 
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 毎年個展を開催するようになってもう20年ほどになる。よくネタが尽きませんねと言われる。まぁ実際、ネタはもう出し尽くした感はある。しかし、今のような形になるまでは本当にネタに困った。最初の頃は何か実際のものを見てスケッチしたものを元に作品化を図るわけだけれど、そんなものは二度三度描くともうネタに飽きてくる。大体似たような花とか風景とかが並ぶわけだ。

 こういったブログなんかも似ているけれど、何かこれぞと思ったネタを探していると明らかに何処か無理が生じてくる。毎日それほど波乱万丈な生活をしているわけだはないのでね。じつはこういった表現を続けるコツというのか、方法は絵画であろうが文章であろうがとてもよく似ている気がする。

 それは、ごくごく平凡な日常に何かしら書くことが隠れているということだな。それを見つけることができるかどうか、まぁこれも長い間の訓練というのか習慣で身につけることができるように思うけれど、大事なことは「好きである」ということだろうな。好きでなければ続かないし、やっても面白くないだろう。基本は「好き」ということだ。

 波乱万丈の人生も楽しいかもしれないけれど、とても疲れるだろう。若い時は作家はそうあるべきだのように思っていたけれど、まぁそういった作家が居てもいいけれどあまり近づきたくはないな。映画の小津安二郎のように本当に描きたいことは何気ない日常にあるように思うなぁ。奇をてらったものではなく、淡々とした日常にこと宝物が隠れていると思う。妙に演出することはない。

 その隠れた宝物を見つける眼を養うことが大事だろうな。それにはこうやって毎日何かしら書いたり描いたりすることだ。これがネタになる。



 
 私の身体はアルコールに異常に反応する。ほんの少しのアルコール分でも心臓があおったり、体が熱くなる。今あるメーカーのノンアルコール0.00というビールを飲んだのだけれど、体が火照ってきて顔が赤くなってきた。これは偽りの表示ではないか。これでつかまったらどうするのか?事故を起こしたら酒酔い運転で処分されるのか?ちょっと怖いぞ。

  



 
東京のホテルにいる。また明日。



 
はる 2961
 いわゆるアール・ブリュットとかアウトサイダーアートと言われる表現がある。一般に知的障害者や精神障害者の絵画や造形をさすと思われているが、全く伝統的な造形教育を受けていない表現も含めて言うらしい。

 アフリカのプリミティブアートとかオーストラリアの原住民アボリジニの描く絵画なども含まれるのかもしれない。もっと広く解釈すれば韓国の民画とか日本の祭りの仮面とかも近いかもしれない。

 ピカソがアフリカのプリミティブアートである彫刻や仮面などを見て強い衝撃をうけそれを自らの表現に取り込んだのは有名な話だ。これだけ情報が自由に行き来する現代でもあの彫刻を観ればかなりのショックを受けるのだから、当時はそれは凄いものだったと想像する。

 アール・ブリュットの命名者であるところのデビッフェなどもそのくちで、当時の残っているいい作品はほとんどそういったものから真似したものだ。その後彼の作品はその様式から変わってゆく。

 アメリカの抽象主義でもデクーニングなどはアール・ブリュットの絵画に似ている。その後出てきた全く独学というのか落書きアートから出てきたバスキアとかキースヘディングなんかもアール・ブリュットに入れてもいいかもしれないな。

 とにかくこちら側のいいとか悪いとか、芸術であるかないか、のはんちゅうに入らないところから出てきたもので、いきなり本質を見せられるような、我々からみれば一種の衝撃がある。

 子供の絵画などもそうだけれど本人からすればなんでもない普通のことなんだけれど、大人から見ればとても真似の出来ない造形だったりする。これって一体なんだろうな。

 昨日の続きみたいなものだけれど、人は社会の中で生きてゆく場合、生のままではとうてい生きては行けない。何かしらの社会的な約束とかルールを学習してゆく。まぁそれが一人前の大人になると言うことなんだけれど、そうやって行くにしたがって生のままの自分と言うものを失ってゆくわけだ。

 そのまま生のままでいられる環境であればそれはそれで幸せなんだけれど、そうはなかなかいかない。

 あちらの世界とこちらの世界、作為と無作為を自由に行き来できる能力を持ったものは一種の巫女みたいなもので、能の世界でも翁はそういった役割があるらしい。古代から芸能者はそういった能力を修行することで得たようだ。全ての人がと言うわけではなく似非の成りすましがほとんどだったようだけれどね。

 生のままの芸はうらやましいけれど、反対に持ってしまったことを意識しないまでにもってゆくのはなかなかの修行を要する。

 極普通の人間はそうやって修行するしか「生のままの自分」に出会うことはできない。それが私の立場だと思う。

 



はる 2960
 徒然に
 最近ちらちらと頭に浮かぶことはまぁ世の中全般的なことでもいいのだけれど、何もかも何の影響もなく全くの独創などというものがあるかなということ。こうやって言葉でモノを考えること自体何らかの文化的な影響を受けているわけで、これが生まれてこの方誰にも会わず、何処からも情報が入ってこなければ人間にはならんだろうな。宇宙

 動物というのはチンパンジーのような高等なものでもどうなんだろう、自我みたいなものはあるのだろうか。自我があれば他者があるわけで、そこから時間的な過去。現在、未来みたいな概念がでてくるわな。だからまぁ彼らは今しか生きていない。経験といっても自分が体験した恐怖とか美味しかったとかの感覚は学習してゆくのだろうけれど、まぁそれだけで終了だわな。まぁだからそれ以上の記憶みたいなもの、遺伝子レベルの記憶に残してゆくには何世代もの経験が必要だろう。

 人の場合言葉があるために何世代もかけて遺伝子レベルの記憶にしなくても次世代に自分の記憶を少しは残せる。まぁだから人間は学習することで人間になるということだな。

 ところで、例えばシマウマの模様とか虎の縞模様など指紋みたいなもので全く同じモノはないらしい。でもシマウマならシマウマらしい模様に必ずなるわけで、それがヒョウ柄になったりはしない。それには何かしらの遺伝子情報があるわけで、ちょっと違うけれどフラクラル(自己相似形)みたいなものだろう。まぁちょっともう確かな理論があるようだよ。

 一番簡単な自然界の法則としてよく言われるのが1.618の黄金比だな。植物のツルのカーブとか種の並び方、貝殻や卵の形など計ってみるとそうなっていたということなんだけれど、これにもフラクタルの理論の簡単な応用だな。

 この植物の渦巻き形と宇宙の星雲の形って似ていない?多分我々の住んでいる太陽系もそんな大きな銀河のうずまきのなかにある。

 金子みすずのこの詩に感動したのだけれど、そんなことがさりげなく美しく歌われている。これってフラクタルだよな。
***********
蜂は花のなかに

花は庭のなかに

庭は土塀のなかに

土塀は町のなかに

町は日本のなかに

日本は世界のなかに

世界は神のなかに

そして そして

神は蜂のなかに

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 で、ここからは想像だけれど、やっぱり人の頭脳というのは宇宙を真似て出来ていると思うんだな。でなければこんなに上手い具合にちょうどいいものが出来るわけない。頭脳というと物理的な大きさを持ってしまうのだけれど、想像力とか空想力と考えてみるとこれはほぼ無限の広がりがあるわけで、過去も未来も自由に行き来できる。映画マトリックスみたいだけれど、そのうちにイメージの世界が他人共有できるようになれば、まんざら嘘のせかいでもない。

 眠くなった。また。
 



 
どうやって私のブログにやってきたのかその来歴がわかるシステムがある。みなさんもうよくご存知の何とか解析というやつですな。その中で検索の項目があるのだけれど、「画家のなる方法」などという項目で私のところに来る人がいる。

 まぁまるっきり嘘を書いているわけでもないけれど、画家などという職業はないのだ。これは仕事ではない。生き方なんだ。絵を描いて生きて行きたいというのであれば色んな方法がある。漫画家やイラストレーター、アニメーターの作画家とか、そのた色々絵を描く仕事はあると思う。けれど私がやっているのはそういったものと微妙に違うな。

 回答にまず美大に行けとかどこかの会に出品しろだとかコンクールに出して賞を狙えだとか書いてある。それもまぁまんざら嘘でもないけれど、それが画家になる方法だとすれば普通の学校へ行ってサラリーマンになった方が楽に生きてゆける。大体「・・方法」という就職活動みたいなものでなれる職業ではないだろう。多くの職業の選択肢の中の一つではない。根本的に何か違う。そんな「・・方法」などというものを捨てたところでようよう生きているのが我々のような人種なのじゃないかね。間違えてはいけない。

 



 
 高校野球にもほとんど興味がない。ないけれど教え子がテレビに出て炎天下で汗みどろになっている姿をみれば応援したくなるのが人情だ。授業中に見せる態度と明らかに真剣度が違うわけで、眠ったようなあの本性はは、ここに来て花開く。まぁそれもまたいいだろう。結局あと一勝で甲子園に行けたのだけれど負けてしまった。残念だったね。

 ところで、明日から銀座の方では国画会のグループ展をやっている。お近くに寄りましたら是非どうぞ。ちなみに私は最後の8/1~2と当番で在郎しています。よろしくお願いします。

新しい時の会」・国画会新会員展
2009 7/27~8/2
11:00~18:30
銀座・ギャラリー向日葵
東京都中央区銀座5-19-13 2F
03-3573-1680
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