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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3042
 般若心経4
 形あるものは必ず崩れて行くし、秩序あるものは放っておけば無秩序な混沌に向かうというのは科学ではすでに証明されていることらしい。「エントロピーの増大の法則」

 自然界を眺めていると水は高いところから低いところに流れて行く。何か他からの力が働かない限り逆に流れることはないわけだ。で、一番低いところが海抜0mで海というわけだな。まぁそこから水蒸気なってまた循環したり、一部は水素た酸素の分子や原子になって他の生物の体を作ったりするんだろうけれど、水という観点だけで考えると海にたどりつくというのが一番安定しているわけだ。

 たとえば冷蔵庫などに蓄えられているペットボトルの水なんかも、そこにある間はまだまだ不安定なんだな。最終の場、一番安定しているところと言うが海だということになれば、エントロピーは小さい。で飲むとか流されるされてどんどんエントロピーが大きくなってゆくというわけだな。

 ちょっと例が良くないな。

 いずれにしろ、規則正しく並んでいたり、秩序だって序列があるというのは不自然であって、安定はしていない、いずれは混ざり合ってグジャグジャになって行く。それが一番安定していると言うことらしい。

 何となく分かっていたことだけれど、明確にきっぱりと言われると目からうろこだな。あぁそうなんだ、混沌こそが安定した状態なんだってね。妙に納得した。

 ところでまた般若心経に戻って、この文章を眺めてみる。
「「般若心経とは、この世にあるものは、すべて実体のないものだから、生じたということも、滅したということもなく、汚れたものも清浄なものもなく、迷いもなく、老いも死もなく、苦しみもなく、心をおおうものは何一つなく、それゆえ、恐れるものもないので永遠の平安を極めているのです」

 人は物事にしても、心の中にしても、分かりたい理解したいと分けて分けて、分類して、秩序立てて、いっぱい勉強してきたよな。それがまぁ心の中を知る方法だと思っていたし、心の安定が欲しかったから、理解しようとやって来た。

 でもねぇ、そうやって秩序だてることが、理解できた、分かったとすること自体が間違っていたということじゃないかな。

 まだ未消化だな。つづく・・。

 
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はる 3041
 覚書
 いままでのことを少しまとめてみた。

 名前を付ける    名前を付けない
 意識化する     無意識、潜在意識
 分ける       分けない
 分類する      分類しない
 秩序だてる     無秩序、混沌
 意味つける     無意味
 価値つける     等価
 直列        並列
 アナログ      バーチャル
 ミクロ       マクロ
 ファースト     スロー
 特殊        普遍
 唯一        沢山
 



 
はる 3038
「般若心経2」
 価値というものは相対的なもので全ては並列に並んでいるものだよ、どちらも同じように価値があるということは、どれも価値がないともいえるし、価値という人の範疇を超えているということなんだな。

 もっと言えば「私が、ぼくは」という判断基準(ものさし)はいずれ意味の無いことだといっている気がする。いいたいことは、いいも悪いも、便利も不便も、速いも遅いも、役に立つも、無用も、綺麗も汚いも、すべて同じであるということかな。

 これは全く凄い発想だ。人類は有史以来自分たちにとって有益かどうか、ということで序列を作ってきたわけだ。人に役立ては益虫になるし、役立たなくなれば害虫となる。そして膨大な農薬を注いでその役に立たないものを駆除してきたわけだ。その結果色んな免疫系の弊害が起きる。一方が無くなってしまえばそれをカバーするために異常繁殖したり、ついには絶滅したりする。そういったようにバランスがとられているものだ。

 自分たちの都合で序列を作ってきてその最高に効率を極めたコンピュータが実はその序列を無視する機械だったというのは、アンチテーゼとして凄く面白い。

 「私が、僕は」とやりつくして極めていったら、結局私も貴方もない境界のない世界にたどり着いたということだ。

 少し話は戻るけれど、「オリジン」の話のところで、全ての人、もの、ことの源をたどってゆくと、結局は全ての人に共通するといった普遍と言う言葉にたどり着いた。誰にでもどこにでもあるということは、結局どこにもないのと同じなんだよと。

 



はる 3037
 「ギャァテー ギャァテー ハラギャァテー」のお題目は田舎の爺さんが毎朝唱えていたので何となく耳に残っていた。意味など皆目わからないけれど、言葉の音が面白かったのだと思う。

 ある小説を読んでいたら般若心経についてこんな風に説明されていた。

 「般若心経とは、この世にあるものは、すべて実体のないものだから、生じたということも、滅したということもなく、汚れたものも清浄なものもなく、迷いもなく、老いも死もなく、苦しみもなく、心をおおうものは何一つなく、それゆえ、恐れるものもないので永遠の平安を極めているのです」と書かれていた。

 これは非常に分かりやすい説明で、あぁなるほどと思って般若心経で検索したらやたらとたくさんヒットしたのだけれど、どれもこれも難しくて途中で放り投げた。ありがたいお題目として人の心に残るにはこのくらい分かりやすく書く必要があるだろう。

 この文章のどこに反応したのかと言えば上手く説明できないかもしれないがやってみる。

「全ては並列に存在する」というところだな。この間の「恐竜の尻尾」の話覚えています?要するに今までの物事の価値というものは「重要である」「価値がある」順番で一番から無限大まで並んでいたわけだな。ところがパソコンの時代になって、人の思惑など関係なく一つは一つとしてカウントされるようになったわけだ。

 いいも悪いも、綺麗も汚いも、楽も苦も、老い死も、人の思惑など関係なく同じステージにあって、どれも同じだけ起きる可能性があるということだな。くだけた言い方をすれば、いいことだけあるのではなく必ず同じだけ悪いこともある。違うなぁそういうことではない。

 こうなんと言うのかな、現世、今の世、人生と言うのは人と区別する、序列をつけるということで成り立っていたところがある。例えば私にとってこれは役に立つのか、便利か、効率がいいか、人類にとって役に立つ発明かどうか、有用な物かどうかで価値が決まって行く。当然有用なものが大切にされ、いらない物は無用な物として捨てられるか、無視される。

 ところが般若心経がいっていることは、喉が乾いているものにはただの一杯の水がとてつもなく価値のあるもので、どんな高級な飲み物にもかえがたいものだよ。価値というものは相対的なもので全ては並列に並んでいるものだよ、どちらも同じように価値があるし、また価値も無いということなんだな。

 もっと言えば「私が、ぼくは」という判断基準(ものさし)はいずれ意味の無いことだといっている気がする。いいたいことは、いいも悪いも、便利も不便も、速いも遅いも、役に立つも、無用も、綺麗も汚いも、すべて同じであるということかな。

 
 



 
はる 3035
 今日はいい天気だったので、午前中は布団を干した。最近は夜になると少し冷えるようになってきたので、しまってあった毛布を出す。昔は干す場所がなくて屋根の上に直接干したりしていた。今はそのためにテラスを作ったので非常に便利になった。夏場はテラスで食事などと洒落てみたけれど、結局一度か二度やって運ぶのが面倒で止めてしまった。今はもっぱら布団干し場専用になっている。

 午後から美術館に知り合いの個展を観に出かける。行楽のシーズンの連休なので駐車場も一杯だった。なかなか人気のある場所ではある。4時ごろ小さなグループ展の搬出に県立文化ホールに行く。これがなかなか面倒な行事でね。県が仕切っている展覧会だけれど、あまり意味がない。広報されていないので、誰も知らないだろうし、行く人もない。役人さんが「文化行事をやっていますよ」というだけの消化行事だな。大体「文化」と名のつく行事は飾り物が多い。お題目は立派だけれど内容はお粗末だ。省略するわけにも行かないから仕方なしにやっている。やめてもいいと思う。

 半年振りに散発に出かける。髪が薄くなったな。こればかりはどうしようもない。さびしい事実。

 



 
はる 3033
 非常勤講師という仕事は教師ではあるけれど普通の先生とは違うところが多々ある。生徒からみれば普通に教壇に立っている先生に過ぎないのだけれど、その内実は大いに違う。

 大体において講師の先生方というのはその学校の真の構成員ではない。身分的には付録のような扱いを受ける。自由ではあるがその自由は「あぁあなた達はかってにやっていていいんですよ」的な自由であって、充分に実力を認められた真の構成員としての自由ではない。

 まぁそれもこれも踏まえて講師になったわけだから、何やかやと文句をいう筋合いではない。ある意味で時給が他の仕事よりいい、肉体的に楽だ、時間も融通が利く、比較的に休みが多い、そんなことで今までやってきた。けれどそろそろ卒業したいなぁ。

 27年もやってきて言うのも妙だけれど、やはり適性がないということかもしれんな。未だに授業のある日は腹具合がおかしくなる。一日に何度もトイレに行かなくてはならない。まるで登校拒否の小学生のようだ。どこかで無理をしているということだろうな。それを少し検証してみよう。

 極々当たり前のことだけれど、決められた時刻に必ず行かねばならないというのが、これまた苦痛なんだな。何を当たり前のことをというかもしれないが、生徒に遅刻は絶対にしないようにと言った手前必ず30分前には教室にいて、換気したり準備して生徒を待ち受けている。そんな自分に疲れてしまう。

 仕事を始めたら私語は厳禁で、少しのゴソゴソが気になってしかたがない。自分で決めたルールに自分で縛られるみたいなところがある。いいかげんなずぼらな性格のくせに何故かこんなところだけくそ生真面目なんだろう、もっと余裕をもって生徒に接すればいいものを何故か余裕のない自分がいる。自分の容量のなさを知られるのが怖いのだろうか。

 選択ならまだしも必修なので、40人いれば半分は興味を持っているが他の半分はやる気がない。興味のない人間に教えるほどむなしいものはない。やる気のない生徒を如何にやるきにさせるか腕の見せ所なんだけれど疲れたなぁ。ありがたいと思ってくれるならやる気にもなるがね。

 もっと本質的なことがありそうだけれど、まただな。

 




 
はる 3034
 大きな台風ということで少しばかり警戒して雨戸を閉めたり準備をしていました。朝七時ごろ風の音で起こされてそのままテレビの情報を聞きながら、コタツで少し眠ってしまったようだ。雨も風も予測していたよりは少なく、まぁ安堵しました。

 午後からは台風一過の上天気で、毎度のことだが青空が抜けるようでそれだけでもチョビット幸せな気分になる。雲が飛ぶように流れていた。明日はフェーン現象で暑いかもしれない。

 甲府展のDMできました。希望があればメール下さい。地元のかたは11月に入りましたら郵送します。お待ちください。
 
 10月に入ってたくさんの展覧会のDMが来る。県内の個展は出来るだけ行くつもりではいるのだが、東京や他の地方の展覧会まではちょっと行けない。まぁ出すほうもお知らせのつもりだとは思うのだけれどね。でそのDMを見てどうしても見ておきたいと思うような案内状がないのが寂しいね。特に何回もやっているグループ展になるとDMの絵が小さくなるということもあるけれど、どうしてもきて欲しいという熱意が感じられないな。自分のを含めてだけれどね、気をつけないといけない。
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