忍者ブログ
画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
[6]  [7]  [8]  [9]  [10]  [11]  [12]  [13]  [14]  [15]  [16
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。




 
はる 3630
 昨日の続き
 で、世界中で歌や踊りや絵や芝居を持たない民族はいない。人は嬉しい時、悲しい時、どうしようもいない悲しみに打ちひしがれた時に、何よりもまず「いのる」のだ。手を自分の前に組んで祈るのだ。その祈りの形というのは不思議にみんな同じなんだな。祈る対象は違ってもね。祈る事である人は慰められるし、ある人は勇気付けられる。そして明日に向って少しでも前にすすむ事ができるのだろう。

 芸術は信仰ではないのだけれど、そういった「いのりのかたち」が例えば歌になり、絵画になったり、芝居になったりするのだ。古今東西違いはあれど、時間のふるいにかけて残っているものは、人間のそんな切実な願い、心のそこからにじみ出てきたもののような気がする。それ以外のものは全て跡形もなく消えてなくなってしまう。

 少し話が飛躍します。

 自然環境が苛酷なほど強い想いが形成される。例えば一神教が生まれる風土は厳しい砂漠の民からであった。生きるためには、生き残るためには他との境界をあいまいにしては生きては行けない。生きるか死ぬか、二者択一的な強い信仰が生まれるのは故あることだろう。

 反対にアジアのモンスーンに住む我々は、他との共存が可能な豊かな土壌や水辺に恵まれていた。だからどことなくあいまいなやさしい多神教が生まれる。

 ところで、今回の原発の事故は我々の今までの理解の範ちゅうをはるかに超えた厳しい自然環境に陥らされた。今までのようにやさしい、八百万的な悠長な価値観でははっきり言って全てが滅んでしまう、とても共存共栄できる環境ではなくなってしまった。そのことを未だに理解しないで、対処しているように思えてならない。大げさかもしれないが、国がなくなるかもしれない、ぎりぎりのところに来ているようにも思う。

 もし仮に上手くしてこの危機を乗り越えたら、日本は今までの日本ではなくなる可能性があるな。なぜなら自然環境が変ってしまうからだ。海のものも山のものも安心して食べる事が出来なくなった。豊かな自然に囲まれて生きてきた民族は消えて、新しい「厳しい環境」に適応した一神教的な民族になるかもしれないな。
 
 誰が首相になるか争ってる場合ではない。

 
PR



 
はる 3629
 [いまここ」の話も続きを書きたいのだが、今日は少し違う話をしよう。

 毎年教科書の見本が送られてくる。業者さんも大変だ。美術などという大して必要とも感じていない科目はどんどん時間を削られて今や風前の灯火になってきたからね。一校でもこうやって続けてくれるのはありがたいことかもしれん。まぁ別に私の手柄ではありませんが・・。

 で、薄っぺらな教科書を何気に読んでいたら、なかなか鋭いことが書かれていた。教師である私が読んでもうなってしまうほどいい文章だった。写してこようと思ったんだけれど忘れてしまった。というか面倒になったという、いつもの情けないはなしだ。

 うろ覚えだけど、少し書いてみよう。私の解釈も入っています。

 美術は単に綺麗だ、とかかわいいとか、お洒落~というだけのものか。日本は周りを海に囲まれて、資源は少ないけれど何よりも美しい四季折々の風物や食べ物に恵まれている。それを当たり前のように感じて、普段何気なく暮らしてはいるけれど、世界のなかで考えてみると、そうではない環境で、また戦争や何らかの理由で先祖から受けつながれてきた土地を離れなければならない民族もいる。

 ここで、この教科書が書かれたのは今回の震災以前の話で、今の福島のことを考えると、上の言葉が現実となって降りてくる。われわれは、いまだかつて経験したことのない、大きな罪を背負ったことになる。生まれる前からそこにいて、そこで生きてゆく事を前提とした人生が、自分たちのせいでもない理由でその場を離れなければならない、なんとも悲しい話だ。その事の意味を未だにだれも真剣に考えていない。単に生活を保障するとか賠償すればいいといった話ではないのだな。

 そうやって自分たちの土地を離れなければならない時に人は何を持ってゆくのだろう。食べ物や生活の道具は必要だ。もちろんお金も必要だろう。けれどなんでもかんでも持ち出す事はできない。最低限必要なもの、自分にとってこれをなくしてはこれからの人生生きてゆけないというものは何だろうか。

 今回の震災の後、大変な瓦礫のなかから家族の写真を拾い集めて洗って持ち主に返すボランティアをしている人たちがいた。戦争でもう二度とこの地に生きては帰れないだろうと思った若い兵士は一枚の恋人の写真や家族の写真を持っていったのだろう。

 信仰のある人はマリヤ像かもしれないし、もって歩ける何か心の拠り所になる偶像かもしれない。

 飾り物や綺麗なものでなくていい。故郷を離れなければならなくなった旅人が持って行きたくなるようなものが本物かな。まぁそんな深刻なものは私には作れないだろうけれど、いつも思うのは単に生活のなかの飾り物で終わりたくはないな。

 



 
 ちょっと考えなければと思っていたことをメモしておいた。最近はあまりゆっくり新聞を読むということもしないのだけれど、まぁ時々暇つぶしに新聞を読んだとする。そうすると何かしら気になるキーワードがある。どこか心に引っ掛かる言葉だな。それがなぜ引っかかったのか、そのときにはまだ分っていない。だから簡単にメモしておく。そうしないとほとんど忘れてしまうのだ。

 人というのは何も考えていない時でも、いや考えていない時の方が色んなことが無意識に入ってくるのかもしれないな。そこで引っ掛かりを感じるというのは潜在意識の中にあるか、普段は気にしていないけれどたまたま意識されたということかな。

 何かの書評を読んでいたときに「今ここ」の話が取り上げられていた。そう、このことを少し考えようと思っていたんだ。またとりとめもないことなので、結論もありません。ではでは。

 99年にテーマとして「いまここにいる」ということを選んでいるのだけれど、そのときの文章を読むと今考えていることとは随分違ってきている。そのときに考えていたのは、単に今生きている自分を確認するという事でしかなかった。文章としては「これからどこへ」というふうには書いてはいるけれど、関心は今の自分にしかない。

 今考えている「いまここ」のテーマは奥深いものだ。簡単に言ってしまえば「今ここ」の中に過去から現在を通って未来まで全てがあるということなんだな。前に書いた宇宙の成り立ちとまったく同じことのように思う。だから多分このことが究極の真理=理ではないかと思っている。

 しかし、眠くなったのでまた書きます。



 
 三月十二日のかなり早い段階で、福島とその近郊の人たちに避難するように警告を発していたブログがあった。私も一度はそのブログをリンクしていたのだが、あまりにも扇動的に思えたので削除してしまった。後にそのブログは炎上して作者は止めてしまった。今から考えるそのブログが警告していた通りだんだな。

 正直な話、今のまま放置しているのはかなり危険な状態ではないか。このままだと東京もかなりの汚染地域ということになるのじゃないかな。国は何の手もうたないで指をくわえて見ているだけなのかね。除線、掃除でもなんでもできる事はどんどんやって、極力被曝を少なくするという行動を率先してやって、なおかつそういったメッセージを出すべきじゃないかな。言った言わない、誰が首相になるなどと馬鹿げた争いをやっていないでさ。何だか国民は何も知らされてなくてのほほんと暮らしているけれど、実際に10年後にはだれも責任は取らないぞ。ただでさえ子供の数が少ないのに、わをかけて少なくなるぞな。
CESARE PICCOチェーザレ・ピッコ
 
"HOPE AT SUNRISE" A prayer for Japan (making of)
 
艸そう より勝手リンク
イタリア人ですが、何となく東洋的な匂いがします。
久石譲のアニメーションの影響かもしれない。
 
 



 
はる 3626
 前から薄々気がついていたことなんだけれど、今回の事故をきっかけに思い出した。

 例えば日本は技術立国という看板で食べている。様々な分野で素晴らしい技術を持った人や会社や研究者がいる。けれどロボット技術一つとってみても、これは世界で一番すすんでいる分野なんだな。人間とほぼ同じように二足歩行できるロボットをいち早く開発したのはホンダだった。

 けれど、いざ実際に事故が起きて、こういった人間が入ってゆけないような現場に採用されるのは外国のロボットだったりする。それは一体なぜなんだ?一番の見せ場ではないのか、一番必要な時に何をちゅうちょしているのだろう。

 こういう小さなミスというのか、決定力、判断力、のなさによる失敗というのが今回やたらと目に付いた。実際に役に立ったとか、失敗したということより、その事によって何よりも大切な自尊心、プライドを傷つけられた事の方が、大きなマイナスではないだろうかね。

 能力を持ちながらそれを使いけれなかった場面とというのがやたらと多い。それは能力がなく出来なかったというより、人を悔しい思いにさせる。

 サッカーの国際試合などで今までよく感じたことだ。ここでシュート打てばたとえ成功しなくてもすっきりするじゃないかという場面で、日本人は逃げてパスにまわしてしまう事が多い。絶対的なチャンスに適切な判断ができない。まぁ私を含めてのことだけれど、多分DNAのなかにそういった狩人的にとっさの判断が出来るようには出来ていないなかもしれない。自分で考えて判断する、自尊独立というのができないか、不得意である。

 今回世界中が賛美した、震災後の秩序正しい行動というのも、反対に考えれば自分で判断できなかった、指示を待っていた烏合の衆ということも出来る。良く飼いならされた人々ということもできるな。

 一見それは凄く理性的な理想的な人々のように見えるけれど、反対に考えれば「何も考えていない」という事にもつながらないか。それをいいことに国はやりたいほうだいだ。国民を守るという発想がそもそもない。未だにお上的な考え方だな。そんな政府しかもてなかったのは我々にそれだけの意識しかなかったということだろう。

 これを契機に少しは変るかもしれない。それを期待したい。

 少し話が変って、例えば絵画表現なんかでも同じようなことがある。前にも書いたかな、国際的な版画コンクールがあって、他の外国の作家などと比べても日本人作家は断トツの素晴らしい技術を持っている。反対に外国の作家の作品は技術的に見てすごく未完成というのか未熟に見えるんだな。ところがコンセプトというのか、何を表現するのかということに関しては凄くストレートに伝わってくるものがある。

 まず自分が表現したいものがあって、それが絵画とか版画などの媒体を使っただけで、表現することが全てで技術はあったほうがいいけれど、大きな問題ではないという風に思った。

 まぁこれそうだけれど、大切なのは稚拙でもいいから、間違ってもいいから「自分で考える」「自分の言葉で考える」判断する、人を当てにしない、まず個人が自立すること、独立すること、そういった人々の集まりが地域であり地方であり国であるという考え方がこれからの方向だと思う。
 



 
はる 3625
 戦争に負けたようなものかもな。天災と人災が重なって、天災だけなら日本人は何とかする、できるんだけれどね。でもそれだけじゃまだ気付かなかっただろうな、また同じような過ちを犯すだろう。

 戦争と同じ次元で考えるのは少し違うのかもしれないが、どうもこの日本の体質というのか、民主的な振りしているけれど、そうではなくて一部のエリートと呼ばれる高級官僚とそれをひたすらまじめに遂行する下級役人とあとは善良な烏合の衆で成り立っている社会なんだな。

 高級官僚は机上の空論で書類上で仕事をする。理論的には間違っていなくても現実的ではない。それを突き詰めてゆけば破綻することが分っていながら、止める事はできない。上で決まったことだから・・とか、そこまでの権限がないと想像することさえ止めてしまう。

 戦前軍部の上層部がエリートたちが台頭してきて誰も暴走を止める事ができなかった。どこか似ているように感じる。

 危機管理といわれるけれど、それだけじゃないね。兎に角ないのは「大きなビジョン」だな。瑣末な技術などは世界的なものがいくつもある。それでもそれをどう使って、他とどうつなげれば一番効果的であるかという風な、大きな目がない。だから素晴らしい技術を持ちながら、ただ右往左往しているだけ。

 そういう人材を育ててこなかった。考える、想像する、そしてそれを伝える、表現するということにウエートを置いてこなかった。まぁ我々の文化がそういったことを良しとしないところがあったからね。

 聴く耳を持つこと、言い合い、争う、競うのではなくてね、間違っていれば考えを変えてゆく勇気を持ちたい、いいものを選択してゆく、そうやって高いものを目指してゆくという態度を養わなくては、いいものはできない。絶対に自分の意見を変えないのなら話し合う必要はない。

 言っても仕方ない事はわかっているけれど、悔しいな。



 
はる 3625
 来年還暦を迎える。別にだからといって何かが変るわけではない。けれど、まぁちょうどの区切りという事で、残された時間というのを意識するなぁ。それで後10年でどこまで行けるだろうか?とか後20年でどこまでという風な事をよく考える。

 私たちには子供がいないので、子供の成長で時間を知るというすべがない。だから余計に時間の意識があいまいだな。今日は昨日の延長でしか推測できないのだな。大人になりきれないのもそういったことが関係しているかもしれないな。

 10年単位で少し振り返って、次の10年を考える足がかりにするか。

 10歳の頃(1962年)というのはあまり憶えていないなぁ。1961年のSEIKOのコマーシャルが1961をひっくり返しても1961だなどというのをやっていた。1964年が東京オリンピックの年。家族そろってテレビにかじりついていた。日本全体がまだまだ貧乏で娯楽といえばそんなものしかなかった。それでも何か時代が具体的に動いていて、今日より明日、明日より明後日と右上がりによくなっているという活気にあふれていた気がするな。

 20歳の頃(1972)大阪の万博が1970年。時代は行け行けどんどん。今の中国などと良く似ている。消費が美徳、お金を儲けてどんどん新しいものを買う、そういった欲望を満たす事、そんなエネルギーに満ちていた。よく言えば活気に満ちていた。悪く言えば品がない。

 この頃に絵を始める。何をすればいいのか、自分には何が出来るのか、皆目見当もつかなくて、あっちにふらふら、こっちにふらふら、大阪の街をズタブクロ下げて徘徊していた。兎に角自分で働いて自由になるお金ができることが嬉しかった。朝から晩までバイトばかりしていたな。JAZZ喫茶の親父になりたいと真剣に考えていた。

 30歳の頃(1982)この十年で大きく人生が変る。25歳で受験して関西を離れて山梨に移住。四年間の執行猶予をもらう。切羽詰ったものからゆっくり考える時間をもらったのは良かったように思う。おぼろげながら絵を描いて生きてゆこうと決心する。

 40歳の頃(1992)1988年銀座で初めて個展を開催する。右も左もどうなるかも予想がつかなかったけれど、兎に角画家としてやってゆくには個展しかないと思っていた。時代はバブル全盛の頃で、まぁそこそこ収支がつながった。それからほぼ毎年個展を続けている、これは自慢できるだろう。

 この頃色んなコンクールに出品。企業の奨学金や公募展に出品して遊学の資金を集める。1995年には全ての活動を中止して一年間イタリアにあそぶ。これはまたまた偶然だけれど、望めば適うものだと思った。今の私のベースを作っている気がする。

 50歳の頃(2002)2000年、晴天の霹靂で大病をする。入院、手術、治療と五年ほどは再発が心配だったが今は健康を取り戻す。年間、数箇所で個展を開催して旅芸人のように生きて行けたら、それでいいと思っている。それ以上は何が望みなのか? 
 



 
はる 3624
 明日から土曜日にかけてかなり西の方面に風が吹くようだ。雨による放射能物質の降下も気になるところ。
http://www.witheyesclosed.net/post/4169481471/dwd0329

 




裸婦クロッキー展
6/4~6/19
(6/13休廊)
三彩洞
甲府市貢川1-1-12
055-226-8393
私も二点ほど出品します。

 末期の社会主義の国のようだな。どうすればいいのか分っていながら何の手だても打てないでいる。確かになぁ、原発の問題は頭の隅っこにずっとあったんだな、地震がくれば、台風やその他の災害がくれば取り返しのつかないことが起きるののじゃないかという危惧はずっとあったんだな。普通に生活していれば、例えばこんなに世の中に清涼飲料の自販機が必要なの、コンビには四六時中煌々と灯りをつけているけど、本当にいいのかな?とか

 あったんだけど、便利であるということで全て考えないようにしてきたところがあるな。日常の生活に追われて、いいわけだけど真剣に考えてこなかった。みんなそうだ。とりあえず今日はいいや、明日から考えようと先延ばしにしてきたんだ。それが全ての始まりだな。

 普通に素朴に考えれば、やっぱりどこかおかしかったんだよ。絶対壊れない機械などないわけだ。機械はいつかどこかで壊れるし、人間は必ずミスをおかす。そうなった場合にどうするか、そこのところを考えないようにしてきたことがどう考えてもおかしくないか。人間が止められない、直接コントロールできないものなど道具ではないな。

 今我々は何をすればいいのかな。何が出来るのだろう。一人一人が真剣に考えなきゃならないのじゃないかな。政府などまったくないのと同じだ。
**
ブログ内検索
忍者ブログ [PR]


(Design by 夜井)