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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 つらいけれど今観ておかなくてはならない。削除される可能性が大きい。
藤原新也より
http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php

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チェルノブイリ10年後のNHK特番より

チェルノブイリ原発事故・終わりなき人体汚染 1-4
http://takedanet.com/

チェルノブイリ原発事故・終わりなき人体汚染 2-4
http://takedanet.com/


チェルノブイリ原発事故・終わりなき人体汚染 3-4
http://takedanet.com/


チェルノブイリ原発事故・終わりなき人体汚染 4-4
http://takedanet.com/

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汚された大地で ~チェルノブイリ 20年後の真実~1_5.avi
http://www.youtube.com/watch?v=PHeq8TfSRBM&feature=related
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 かれこれ一ヶ月以上原発のことばかり書いているかな。それほどこの事故は大きな出来事だったのではないか。地震や津波だけなら、どんなに大きな災害であったとしてもそんなにはショックはないだろう。確かに驚きはするけれど、ありえないことではないからね。でもこの原発は明らかに備え不足による人災だろう。日本という国は技術立国で、勤勉でクリーンで色んなことで世界に冠たる国だと思っていたことが、いとも簡単にひっくり返ってしまったことが、驚きでショックなんだな。ありえないお粗末さだわな。

 それもねぇ、日本が一番率先して気にしなくてはならない放射能のことだからね。それが何の考えもなく簡単に漏れ出して、未だに止めることが出来ないでいることの異常さ、恐ろしさ。これは決してあってはいけないことだという認識になさに驚いてしまう。

 人為的なミスによって国民全てを危険に晒した、いまだに不安に陥れている、今まで築いてきた日本の安全神話、クリーンなイメージを根底から覆す、そんな可能性がある凶暴な道具だということをおくびにも出さず、隠していたこと、それに事故がおきてしまってからの、その住人に対する無責任な態度、一番に保護しなければならない守らなければならないのは企業や会社ではないはずだ、それが全くなされていないことの憤り。

 日本は世界中の人体実験場になってしまった。これから20年30年放射線を浴びたらどんな結果がまっているのか、興味本位で見ていると思う。自分は痛くもないからね・・。特に若い人、子供や女性がどんな影響をうけるのか、放射能の被曝との関係を知りたいと思っているだろう。そうなってしまった、この国の為政者、それを許してしまった大人の責任は大きいな。全員で謝らなければならない。

 けっして放射能の基準を甘くして「すぐさま健康に影響ない」「安心だ、安全だ」といいふらかすことではない。汚染された野菜をこれ見よがしに食べて「安全だ」などとほらを吹くことではない。どこかそれは間違えている。

 いま変らなければ、この国は歴史上消えてしまうだろう。意識として大事なのは「自分の頭で考える」ということだな。面倒でも考えることを止めないことだ。そういった人が増えてゆくことで総体として変ってゆくかもしれない。あまり期待はできないけれどね。



 
 大したことないのは自分のせいで誰のせいでもありゃしない・・。まぁ、この世のことは全て自分の中から出てきたもので、見た物も見えたものも全て自分の見たいように見ているということに気がついた。まぁだからその人の書いたもの、描いたもの、話したことなどを見れば間接的ではあるけれど、その人が分るわけだ。もっと言えば例えば身につけるもの、選んだものそんなものでもその人のある面を表しているんだな。おお怖い。

 本当は最悪の場合を想定して、警報レベル1とかレベル2とか避難のシュミレーションをしておくべきだったんだな。例えば今地震や津波の警報はかなり具体的にやっているじゃない。ケイタイにまで情報が飛んでくる。台風は刻一刻情報を流して注意報や警報の情報を流しているじゃないか。あれだけのことをしているのだから、原発のそばでも放射能もれの可能性あり風向きしだいでは警報1とかやればよかったんだな。それを反対に大したことない、すぐには健康に影響ないなどと嘘をいって国民に大本営的な情報を流し続けたもんだから、だれも信じなくなってしまった。

 こういった政府というのか組織しか持てないのはやはり悲しいことだな。他の国のことは良く知らないのだけれど、多かれ少なかれそういったものだろうか。根本的な発想はお上的な考えで、下々のものに御触れを出すというふうなかんがえ方のような気がする。お上が考えたものだから下々のものは黙って従えみたいな。

 理想をいうなら国民が選んだわけだからいつも国民の側にたって、国民を守るというのが政府の基本的なスタンスでしょう。不幸にして我々はいまだかつてそんな為政者を持ったことはないのだけれどね。徹底的に話し合って革命を経て出来上がった国ではないからね、どこかずるずるとしまりなく出来てしまったくにだから、白黒がはっきりとしない。物事が外圧でしか決まらない。主体的、自主的な意見では決まっては行かない。

 風に吹かれる凧のように行き先は風に聞いてくれと言った感じ。格好はいいけど、これからはそれじゃこの国際社会では生きては行けないでしょう。他国(アメリカ)にいいように利用されて、それでポイと捨てられてお終いだ。何も考えないように、上手い具合に洗脳されてしまったけれど、それも日本人の心情にぴったり合ったんだな。私にも大いにそんなところあるから。心の隙間というのか、まぁ上からの命令で動いているのはある意味楽だからね。いちいち考えて「生きるべきか、死ぬべきか」を決めてゆくのはやっかいだもの。でも西欧の革命の歴史は血を流して、自分たちの主権を勝ち取ってきたわけだな。だからフランスなどは一目散に国民を守るという手段に出るわけだ。

 暴動が起きない良く教育された国民というのは褒め言葉でもあるけれど、反対に良く飼いならされた国民と言うことも出来るわけだ。普通ならこれだけのことが起これば政府は転覆するでしょう。嘘ばっかりついて、国民に放射能の雨を降らせて平気なんだから。歓んでばかりもいられないよ。



 
 昨日遅く帰ってきました。二日前のオープン前日は飾りつけなどがあって関東近辺の関係者が駆集められてワイワイと忙しい。絵画だけでも600点ほど展示するわけだから全く気の遠くなるような作業だ。一つ一つが2mもあるような大きな作品なのでそりゃもうあきれてものが言えないくらい大変なことだ。それで10日すれば跡形もなく消えてしまう。いったい誰が何のためにやっているのか、荒行に近い修行だな。

 昨日はオープニングのパーティーがあって、受賞者や新会員推挙などが華々しく表彰されてうれしい時を過ごす。一年に一度全国からなじみの顔が集まって和気藹々と親睦を深める。団体展の面白いところだと思う。色んな作家と知り合うきっかけにもなる。

 でも何だか、自分が年取ったせいなのかどうか、昔ほどわくわくしなくなった。理由を考えたんだけれど、そうだなぁ・・この会には昔から早々たる作家が属していて、例えば好きな作家でいえば須田剋太や香月泰男とか松田正平とか、伊藤廉、久保守などがいた。これほど綺羅星のごとくに憧れていた作家がいた団体展は他にない。まぁだからその団体に出品し始めたわけだけれど、そういった歴史的な作家たちと同じ会に属しているということが、何となくわくわくうれしかったわけだ。

 それがねぇ、自分がその構成員になってくると、全然大したことないわけだ。その質の格段の差に気がつくわけだ。それがわくわくしなくなった一つの理由かな。 



 
 明日からまた東京です。絵描きが全国から六本木に集まります。出品した人には、それはそれで結構楽しいお祭りです。絵を描かない人には申し訳ありませんが面白くないと思います。あしからず。

 我々は良し悪しは別にして小さい頃から「理屈をいうな」という教育を受けてきた。四の五の言い訳するのは一番格好が悪い。潔くあれと。まず兎に角黙って聞く。聞けないならそんな振りをする。それが兎に角集団の中で何とか最低限ルールだと教えられる。分らないことは「黙って聞いていろ、そのうちに分る」それも一理ある。

 ある一定の全体的なレベルを上げるなら、まぁこれが一番効率のいい教育方法だと思う。上から流れるように新しい知識が流れてくる。物事を考える必要はほとんどないし、ほぼ機械的に覚えてゆけばよい。日本の受験勉強に限らないのかもしれないが、受験というのはほとんどこういったやり方ですすんでゆく。ここには自分のアイデアを考えるとか、思索するということはほとんど入っていない。

 我々はまず「自ら考えることを止める」ということを何度もなんども繰り返して教えられる。いらないことを考えるよりも兎に角単語の一つでも覚えた方が「役に立つ」と言う風に教えられる。いや実際に言われたことはないけれど、それが暗黙の了解になっているのではないかな。ああでもない、こうでもないと要らぬことをぐだ愚だと考えて、時間ばかりとられているのは一番下の下だとランクされる。

 要領よく一番効率よく「自ら考えることを止めた」人間が、この国では一番いいといわれる学校に入れて、一番いいという仕事にありつけるようになっている。それが超エリートと言われる人間だ。だから始末がわるい。

 内田樹の「辺境論」によると、この日本人独特の学習能力というのは二千年以上の歴があるものでちょっとやそっとでは変らない気質になってしまっている。というのは我々にとって「よきもの、ありがたきもの、優れたもの」はどこか遠いところからやってくると考えられている。例えば「唐様」だったり「洋風」「アメリカン」だったり、全て優れた文物は舶来物で外からやってきたものだ。

 あまりにも凄すぎて太刀打ちできないので、「考えることを止めて」徹底的に真似をする、吸収して取り込んでしまう。日本の文化はそういったことの繰り返しで出来ている。まぁそれが鵺の正体だ。

 もう少し書きたいけど眠くなった。続きは今度にしよう。



 
はる 3591
 言った言葉はすべて自分に跳ね返ってくるのだけれど、そのことは棚において言うしかない。どうも政府は東電だけが悪くて、今回の件は自分たちには責任がなく被害者であるというふうに仕向けている感じが見て取れる。誰かを責任者にしてそれに泥を被ってもらって、手早く済ませて今回のことを風化させたい、なかったものにしたい、あったとしても大したことなくて、早く安全宣言したいという風に仕向けているようにみえる。

 誰が悪いこれが悪いといってもおきてしまったものは仕方ないじゃないの、それよりも早く復興作業に入った方がいいのじゃないか、というふうな何かを見つけられるのが怖くて隠しているように思えるな。悪いのはそこに
こそこそ隠れている原子力安全委員、保安員という官僚だだぞ。何もしないで高給だけもらって、天下り先を考えている、たまたま自分がここの配属になった時に起こった事故でなぜ責任を取らなきゃならないのだ。我々は決められた安全と言われるマニュアルのとおり仕事をしていただけで、それ以上の責任ははっきりいてない。そう顔が言っている。

 法律上は多分責任は問えないのかもしれない。何も失策はしていない。想定内のことであるならば今までどおり淡々と処理できていたわけだ。想定外のことをあれこれ考えて差し出がましいことをする役職ではない。想定外の津波が来て原発が壊れた、その責任は我々にはない。心情的には責任がありそうだけれど、法律上では多分何の責任もないと思われる。だから彼らは淡々としているのだ。悪いのは事故を起こした東電だ。と言う風にね。

 ここからは推論でしかない。間違えている可能瀬もあるので、すらすらよんでくださいな。

 官僚、役人というのはいつもそうだ。自分たちの保身しか考えていない。そのことが次第に組織を蝕んで行くことが理解できない。まぁ多分その中にどっぷりとつかってしまえば、何も見えなくなってしまう。旧東側の社会主義体制もそうだった。全ての人が平等に仕事にありつけて、貧富の差がない理想的な社会。それが夢だったわけだけれどね。人と言うのはそれだけでは生きてはいけないということだ。一生懸命働かなくてもいい、適当にやっても同じだと言うことになれば、嫌なことはやらなくなってしまう。既得権を持ったものはそれを守るために一生懸命になる、本来の仕事以上にね。本末転倒。そうやって次第に社会が腐っていった。

 戦後、戦争責任を問う東京裁判があった。最後の東条英機の姿を映画などでみるけれど、その姿はどこか隣の頑固祖父さんのようであり、軍服姿でふんぞり返ってはいるけれど、どこか憎めないおじさんのように見える。ドイツの戦犯であるところのヒットラーなどとは明らかに違う。彼は明らかな意志をもって戦争を遂行した。連合軍からみれば誰かを最高責任者にしなければ理論上裁判は成り立たないのだろうけれど、本当に彼が責任者なのかどうか、その自覚があったのかどうか、疑わしい。

 負けるとわかっていた戦争になぜ闇雲に突っ込んでいったのか?軍部、官僚の暴走というけれど、本当に彼らだけが暴走していっただけなのか?実態のある、戦争を推し進めていった人なり団体というものが実際にあったのかどうか?当時の軍というのはエリート集団で今で言う高級官僚なんだな。私は今回の原発のケースも同じようなものの気がする。誰かが実質的に責任をとって推し進めたわけではない。だからだれも責任がとれないのだな。集団としては存在するけれど、実体はない高級官僚なんだ。

 で、ここが真実なんだけれど、それを許しているのは実は我々日本人全ての中にある、漠然とした優柔不断な付和雷同型の鵺の様な気質ということだ。

 例えば年金問題でもそうだ。だれも責任をとらない。誰かが意識して年金を騙し取ったと言うならば犯罪にも問えるかもしれない。けれど総体として兎に角進んでしまっている。個人の仕事としては何の問題もなく、淡々と仕事が済んでしまっている。結局いずれは破綻してにっちもさっちも行かなくなるだろうということは何となく予測はできるのだが、そんなことを考える役職にはない。だからまぁいいやとそのままにしておいた。私の仕事は言われたことを淡々とそれ以上でもそれ以下でもなくやることである。

 我々は基本的には凄くまじめで小心である。農耕民族の血が多分そうさせるのだと思うのだけれど、決まったことを疑いもせず、淡々とこなしてゆくということは大いに得意とする。大勢というのか全体の意志というのか、そんなものに実体はないのだけれど、付和雷同型についてゆくのを得意とする。自分の意思で考えることを止めてしまう。その方が多分楽だからだと思える。ある時気付いたのだけれど、それは私の中にもある部分なのだ。

 「自ら考えることを止めてついて行く」という体質は例えば何か大きな事件や事故がおきた時に協力して成し遂げるとか、国がとんでもない状態になって国民全体が一丸となってという風なときには大きな力にはなる。明治維新や二次大戦後など大いなる国難の時にはそれが役に立った。けれど目標が明らかに見えなくなった時には危ないね。どこに行くか分らなくなってしまう。なぜなら一人一人が考えることを止めてしまうからだな。

 多分これからも大きく変る事は期待できないだろうな。けれど変るチャンスではあるきがする。自ら考えて行動する、そんな行動パターンで生きる人が増えてゆけば総体で変ってゆくのではないだろうか。与えられたもの(既成の価値観、誰かのアイディア)ではなく、あるもの(自ら行動して得られた言葉や体験)で工夫して考える、それが自ら考えると言うことだろう。

 しかし、それは良くも悪くも今までの日本ではありえないということだ。
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