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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 どの街にもある公募展の審査や陳列のお手伝いをする。全国公募の中央の団体展からこういった地方の公募展まで、規模の大小はあるけれど、大体が同じようなシステムで成り立っている。日本の絵画人口を支えているのはこういった団体の構成員とその予備軍だろう。まぁそういった意味ではここが最前線ではある。今年は全体的に出品者が減少した。震災の影響かもしれないな。

 私の学生の頃は、絵を描くということはこういった公募展に出品するということでもあった。目標でもあったんだな。だからまわりまわって、今は多少なりともお手伝いできればと考えている。

 疲れたので、寝ます。



 
はる 3663
 何とか復興大臣が暴言で10日ほどで辞めた。何とも情けない話だ。ちょっとだけテレビのニュースでみたけれど、確かにあの傲慢な偉そうな態度はどこで見た、どこにでもいる、嫌な野郎そのものだった。あんたはそんなに偉いのか?何様のつもりと言いたくなる。

 しかし、考えてみるとあれほど露骨ではないけれど、多かれ少なかれ上に立つ人の典型的なタイプではないだろうか。ある意味でいえばリーダーシップというものはそういったものだという風に捕らえられてはいないかな。

 まぁそれは百年前の日本がまだ開国して間もない頃で貧しく、これから西欧に負けないくらいの豊かで強い国を目指して、一致団結している時なら、それも分るしそんなリーダーが必要だったかもしれない。

 けれど今は違う。意識が違う。だれも飢えてはいないし、恵んで欲しいとも思っていない。「やってもらいたい」「してもらいたい」という意識は彼らには今ないのだな。どちらかと言えば、総意として「やらせる」という意識のほうが強いきがする。

 お上に「してもらう」ことを期待していたばかりに、今回の事故はおきた。お上は信用できない。少なくとも3.11以前より少しばかり賢くなった、自ら考えなければと思うようになってきたのではないかな。

 そうでなければ、日本は変らない。新しい人になります。
 


 
はる 3661

 千葉の山口画廊より帰宅。楽しい二日間でした。暑い中御来廊ありがとうございました。また来年おあいしましょう。

http://resonance-1111.tumblr.com/day/2011/07/04
より勝手引用
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都築 響一 Kyoichi Tsuzuki

人は、君の日常生活なんかに興味はないのだ。君の自分探しの旅や、かわいい彼女や、バアさんの臨終や、まして君の結婚式なんて誰も見たくないのだ。そういう人たちをムリヤリにでも自分の写真世界へと引きずり込むには、なにが必要なのか。それをもう少し考えてほしい。たとえば、それは卓越した技術であったり、飛びぬけた対象物であったり、思いの純度の深さであったりする。プロであるとは、そういうことだ。今日はたくさんの写真を見たが、正直言ってなんだか椅子に縛り付けられたまま、耳元でミツル(326)の詩を延々聞かされているような、イヤな気分になる時間が多かった。とにかく突き詰めていくこと。これ以上ないという地点まで。説得力はそこからしか生まれない。

キヤノン:写真新世紀|写真新世紀展2001 開催報告
(Reblogged from bryan2new

 




Arvo Part - Magnificat



大脳生理学者・ノーベル医学賞受賞
 
 このポートレイトの写真が好きでアトリエの壁にもう何年も貼ってある。この人がどんな研究をしてどんな業績を残したのかは全く知らないし、全く理解もできないだろうし、ほとんど興味もない。

 顔は作られるものだと言う気がする。長年一つの事をやり通した人間にはどこから見てもゆるぎない自信と信念のようなものがにじみ出てきて、多くの人を納得させるような顔になるようだ。

  明日、明後日と千葉の山口画廊に在廊しています。もしお時間があればお立ち寄りくださいな。






 
 ブログが一般に公開されて面白いのは、どういった経路でそのブログにたどり着いたのかというのが、正確に誰と言う事は分らないけれど、何となく分ることだ。私という個人を知ってここに来る人はまれなわけで、通りすがりでここにたどり着くこともあまり期待できない。

 最近多くなったのが「小国寡民」いう検索項目だ。元々は老子の理想郷の話で、国は小さくて人は少ないほうがいい。最新の道具があってもそんなもの使わないで、そこで取れたものを食って、着て、住んで、平々凡々暮らしてゆくのが理想だよっていう話。
http://homepage2.nifty.com/sakai
070403/ROSHI/80syokokukamin.htm


 3.11以後の我々にとって凄く耳の痛い話ですな。何でもかんでも効率一点張りで古いものをバンバン捨てて新しいものを摂取して来たがゆえに、まぁ世界中の人々が度肝を抜くような経済的な発展をしてきたけれど、まぁなんと大事な大切なものを失ってしまったんでしょ!もう取り返しはつかないけれど、少なくとも希望だけは失わないで行きましょう。ここからは新しい人になります。
 






 
 今朝の新聞に吉田秀和がイギリスの民意について書いていた。簡単に言えば新しい技術というものは、まだ発展途上のものであって不確実性を含んだもので、それを踏まえて付き合えというようなことだろうか。

 産業革命を経て先進的な機械文明を謳歌してきた英国は、だからこそ新しい技術というものは輝かしいものであるけれど、もう一方では何かとんでもない失敗が隠れていいるものだということを、身にしみて知っているとうことだろうか。

 かの国の民意がどういうものか、民主主義についても私は何も知らないけれど、知ったかぶりで書くことを許してくださいな。

 我々は政治に対してとんでもない勘違いをしている気がする。未だに「お上」的な考えで、何かやってもらう、してもらうということばかりを期待していないだろうか。本来は民意の総意として「やらせる」という方がただしいのではないかな。

 「やってもらう」というオネダリ体質がやがては天下りに癒着に予算のばら撒きに補助金漬けになってしまうように思う。明らかに負の大きな力が出来上がってしまう。我々の中に、何となく政治とはそんなものだという意識があるようにおもう。

 予算をつけてもらうとか、配分してもらうことに国会議員を何とか利用して既得権として優遇してもらう、仕事を回してもらう、そんな事のために政治と言うものを利用していないだろうか。

 だから、政治というものが凄く胡散臭い、まして政治家という人種がとても尊敬できる人物ではなくて小汚い俗物のように思えてしまうのだ。本当はもっと理想があってもいいように思うのだな。

 我々の中にある「やってもらう」「してもらう」というオネダリ体質を放棄すうることだな。指示を待つのではなく、自分たちが自主的に考えて、国民の総意として「やらせる」という方向にもってゆかねばならないように思うな。どうだろうか。
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