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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3581
 復興計画。凄く楽観的な考えだけども、まぁこんな時だから許されるということで勘弁してもらいましょう。ということで、また考えながら綴って行きますので、迷文かもしれませんがよろしく。

 このところ隣国からの追い上げなどなどあって結構色んなところで閉塞感があったように思う。いいものを作っても百円ショップには対抗できないよなぁ・・とか、24時間営業で煌々と明かりをつけたコンビには便利で、これが無くなる事は考えられないし・・とか、仕事といったってほとんどがパソコンを使ったバーチャルなものだし、誰がやってもそう変らんのじゃねえか・・とか、なんだかんだいっても官僚は天下って甘い汁を吸ってんじゃン・・とか。

 変ろうとしてもなかなか変れなかった、それぞれには色んな既得権が絡み合って、悪いことは分っていても簡単には切れないところもあったりした。まぁ仕方ないじゃないのと済ましてきたんだな。

 そんな既得権云々が、どか~んと何もかもが綺麗さっぱり無くなってしまった。ここに昔ながらの、今までの常識を持ち込むことはやめにして、全く新しく本当に百年のビジョンをもった計画都市を作ればいいじゃないかな。原発で失敗したことを逆手にとって世界中が将来見本にするような、夢のある安全でクリーンな省エネ都市を作ればいいじゃない。フクシマが将来その代名詞になるような新しい街を作るべきだ。

 そのために、国民が等しく負担する東北都市計画税もいいじゃないの。

 
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*全国の食品の放射能値
 http://atmc.jp/food/
 これをみると結構怖い。どこで収穫されたものかよく見ないといけない。自己防衛すること。食品の安全など今はない。



 
 整理されていないへんてこな文章だけれど、そのままアップします。
はる 3579
 何だか憂鬱だ。新学期が始まるからか、それもある。けれどやっぱりあれのせいだ。いよいよレベル7になった。第二のチェルノブイリということだ。ヒロシマ、ナガサキは被害者として、フクシマはここから何十年も下手すれば何百年も語り継がれる、人類の失敗例として記憶される町になってしまった。とても残念に思う。人類の英知がこんな形でいともあっけなく吹き飛んでしまったことが、情けないというのか、こんな形で記憶されることが腹立たしい。

 今朝の地震のおりの東電の状況説明を聞いてもまだまだ本質的には懲りていないし、このままの状態が続くのであろうと思われる。彼らが悪いとかだれそれが失敗した、ごまかしたというような犯人探しをしているのではない。悪いのは我々全ての責任だろう。

 具体的に何が違うのかと感じたかと言えば、記者が原発の電源は大丈夫か?という質問にこんな風に答えていた。外部電源は複数あって「わが社の電源は大丈夫です、他の会社のものは分りません」これは非常に今回の事故の様子を表していると思う。

 原子炉を作ったのは東電ではない、大手の電気機器会社だ。彼らの仕事はまぁ今までの想定内であれば絶対に壊れない原子炉を作るということだ。地震があれば「止めて、冷やして、もらさない」だっけ、そんな原則で設計した。原発は日本が世界の中でも技術的に一番進んでいて、これこれの条件で作ってくれと言われれば、職人的なもの作りの技でつくってしまう。そんな技術を日本は持っている。で実際にそんな強固なものを作った。

 それでも地震が起きて送電が止まってしまった時の事は自分たちの責任ではないのだな。それは設備屋さんだったり、それこそ電気やさんだったりするのだろう。それも送電が止まってしまえば、彼らは何もできない。電源があって計器が動いていれば何とか作業できるのだが、停電になってしまえばやることはない。停電は自分たちの責任ではない。

 最後にそれをコントロールする東電さんにおいては、ただ機械を使うだけだだな。コンピュータは使えても壊れてしまえば自分では修理できない、まして電源が落ちてしまえば何も出来ない。自分たちのせいではない。

 それぞれの立場でそれぞれの仕事をやっている。決して手抜きをしているとは思えない。いったん事故が起きれば取り返しのつかないことになるということは彼らも充分感じていただろう。

 何が問題か?ということだな。

 お役人仕事とよく言われるけれど、仕事というのが高度に細分化、マニュアル化してくると、全く全体が見えなくなってしまう。部分を任された人間はそのことを「出来るだけ間違わないように」「出来るだけ無駄を省いて」「要領よくやる」ということに一生懸命になる。本人は至極まじめにそつなくやっているのだが、いつの間にか仕事そのものが単に一連の作業になってしまう。意味のないルーティンになって、想像力のない、何事もないのが一番の仕事と言う風になってしまう。これがお役所仕事のもっとも怖いところ。
 
 素朴に単純に考えて極当たり前のことさえ想像できていない。想像することを拒んでいるようにさえ見える。あれほど高度な精密機械や電気機器を作ることができる頭のいい人たちが、なんという単純なミスをおかすのだろう。

 「木を見て森を見ず」というようなたとえ話があるけれど、我々はずっと木ばかりを見ていたのではないかな。木を見ること、木だけを見ることを奨励していたのでないかな。森には心地よい風が吹いたり、動物や小さな生き物がいて、雨が降ってそんな生命を守って育てる、何よりも人智を超えた神がいる。そんな全体を見る目が我々には欠けていたのではないかな。

 悲しいけれど、前に向って進むしかない。



 
山本堪 : ドイツ気象庁 (DWD)による粒子分布シミュレーションの日本語訳
(随時更新されます)
http://www.witheyesclosed.net/post/4169481471/dwd0329


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はる 3578
 自分の生まれた土地とか故郷を捨てなければならないというのはどんな気持ちなんだろうか。幼馴染や同級生と過ごした思い出が一瞬のうちに過去のものになって、二度とその地には立つことができないというのは、何ともいえないものがあるだろう。いつも思うことなんだけれど、何事もなく普通に過ごしていたことがどれだけ幸せであったか、事が起きてから出ないと気がつかないんだな。悲しいけれどこれは事実だ。

 我々は戦争を何度も経験したけれど、幸いなことに他国に侵略されたことはなかったし、住んでいた土地を追われたことがない。歴史的に観ると、例えば戦争で、政治的な内紛で、宗教的な争いで、多くの場合難民となる。今こうやって幸せに暮らしているけれど、ひょっとすると我々はここを出てゆかねばならないかもしれない。

 汚してしまった大地はけっして元には戻らない。そこで営々といとなんできた生活が突然断ち切られて、終わってしまう。そのことの意味はすこぶる大きい。人の幸せというのはそういった何気ない日々の中にこそあるからだ。



 
はる 3576
 五十代も最後になりました。



 
はる 3575
 昨夜また大きな地震があった。この間のことがあったので、すぐにテレビをつけて原発がどうなったかチェックする。別に私は保安員でもないので誰から頼まれたわけでもないのだけれど、またぞろ電源が止まったのではないか、施設が壊れたのではないか、放射線の漏れはないか、などなど。全くの素人で一般大衆の一人である私でさえ、このぐらいの心配はする。

 案の定女川の原発の電源は止まって、非常用のディーゼル発電一つがようやっと生きていてそれに切り替わって難なくすんだとのこと。

 原発は壊れない、安全だというのはどこの国の話だい。原発そのものは壊れなくても、電源が止まって冷却装置が働かなきゃ意味ないじゃないのか。で、最低の非常用のディーゼル発電にたよってようやっと生きているような代物は「安全」とは言わないのじゃないか。そこらへんのぼっこい自家発電の施設じゃないんだからな。いったんことが起きたら、一国が沈むかもしれない、世界中が何十年も放射能で汚染されるんだろう。下手すりゃ人類は滅亡するかもしれん、そんな怖い恐ろしい道具だ。もしそれを使うなら、何重にも何重にも安全装置をつけて、それでもだめだった場合は一番最初に住民を避難させる。シェルターをよういする。そのぐらいの想像力を働かせよな。馬鹿じゃないのかね。

 理系の頭じゃそこまで想像できないというのであれば、「アキラ」の大友克洋に知恵を借りるとか、「日本沈没」の小松左京に意見を聞くとか、「ナウシカ」宮崎駿とか世界的な想像主がいるじゃないの。

 何とかしてくれよ、ったく。



 
 はる 3574
 事が起きてしまってから批判するのはとても簡単だ。あれが悪いとか何でそうだったのか・・などなど。いつも思うのだけれど、学者とか専門家などという輩が出てきてしたり顔で批判するのは見たくない。多くの場合視聴者が望むような意見をいう。世論とはだいたいそういったものだ。だからと言って事が起きる前に言えば、胡散臭い占い師か預言者ということになる。不安な真理に乗じてそんなデマや流言がまことしやかにささやかれ出した。惑わされないように。

 しかし、あの出来事がおきてかから、ほとんどそのことばかりを考えている。いくら私がここで考えてもらちはあかない事だけれどね。原子力発電などという現代の科学の粋を集めた機械が、いざ事が起きてしまうと消防車がでてきて水をぶっ掛けたり、掛け過ぎるとあふれた水を止めることさえ出来ずに、バタバタと新聞紙やおがくずを混ぜて懸命に止水している。笑っては失礼だけれど、その手法は子供の遊びの範ちゅうでしかない。その程度の事しか出来ないのであるならば、やはり原子力に手を出してはいけなかったのだろう。
 



 
西風やむ。
http://www.witheyesclosed.net/post/4169481471/dwd0329#

 昨日は野暮用でお江戸にいきました。どことなく各駅も暗く、エスカレータもほぼ半分くらいが止まっていて、非常事態なんだなぁと感じさせられました。田舎に住んでいてもお江戸に出ればいつも活気に満ちていて、いつもたまには都会もいいものだと思うのだけれど、今回は少し違ったな・・。

 すごく皮肉な話なんだけれど、世界で唯一の被爆国で原子力とか原発などにかなりのアレルギーがあって、昔は原子力の潜水艦などが国内の港に入港するのさえ反対運動していた。あれは一体何のまじないだったのだろう。いつの間にかそんなことはお構いなしに原発がどこどこできていた。我々の悪い癖で、のど元すぎればあっという間に風化してしまって、深く追求することを怠ってしまう。それをあくまでも阻止しなかった我々全員の責任でもある。

 確かに東電や安全委員会の責任は大きいけれど、魔女裁判のように彼らだけをつるし上げてもあまり意味はない。そうやって責任転化することで、また同じ事を繰り返してしまうのだ。それに、彼らが全ての責任が取れるわけでもない。一民間企業が責任とれることではない。あまりにも犠牲が大きすぎる。それを許してしまった我々の責任でもある。

 むかし、軍部が少しずつすこしずつ台頭してきて、太平洋戦争に巻き込まれていった。それに気がついて止めようとした人もいたんだろうけれど、大方の世論というのか流れは戦争も致し方なしという方向になっていったのではないかな。後からなら何とでも言える、そういった流れの中でもはっきり「反対」を言える教育を我々はしてこなかった。またも同じような失敗をしてしまったのではないかな。これはある意味で二度目の敗戦だ。

 大きく価値が変換されるだろう。今まで超エリートでキャリア組みで、サラリーマンなら最高のポジションを取って来た人たちのなんと無残な、無能な、恥ずかしい姿か。こういった人たちが偉そうに国や政治を動かしていたんだな。これもまた昔の軍部と良く似ているなぁ。
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