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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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引越しのご案内・・
2011 10/1より
「あそびべのはる・ここだけの日々」をとりあえずこちらの方に引っ越します。

http://asobibe.blog.fc2.com/     皆さん変更のほうよろしくお願いします。


「あそびべのはる・ここだけの美術館」は変らず

 http://enami.sakura.ne.jp


 ご連絡は「あそびべのはる・ここだけのメール」変らず

http://enami.sakura.ne.jp/mailform.htm















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 ついでだからいままでのブログの記事をみんな一つにまとめる事が出来る「引越し機能」が付いたサーバーを見つけた。

 2004年10/11(はる1211)のアメブロからの記事を一つにまとめた。まだ上手く機能が使えていないし、ここにするかどうかまだ決まっていない。一応記事を一つにまとめたと言うだけ。

http://asobibe.blog.fc2.com/



 しかしまぁ、とんでもないでかい広告があったものだ。苦肉の策でこんな事をしてみた。最新の記事に広告が付くので、最新の記事は・だけにする。直接貼られたら写真もぶっ飛んでしまうので広告だけ上に上げた。

 しばらく最初の項目は無視してください。まぁこうやると少しはましかな。記事に直接貼られたら台無しだ。

 しかし、これじゃみんなここから出て行くだろうな。私も引越しを考えているが、少し他を当たってみたが面倒だな。最近は色んな機能が付いていてすんなりシンプルにゆかないのね。しばらく考えてここが考え直さないようなら仕方ないので引越しだな。



 
また知らないうちに変なCMが入るようになってしまった。ブログというのは無料で借りているので当然CMが入るのだが、今まではほんの少し一番下の所に入っていたのが、今日から堂々と品のないカラーのCMが入るようになってしまった。

 元々このブログに引っ越してきたのは前のアメブロがCMが多くなりすぎたためだった。こうなるとまたどこかに引越ししたくなってくる。せっかく色んな詮索にもひっかるようになってきたんだけれどな。




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はる 3746
 今の時刻(夜の10;30)になるともう寒いね。段々に夜も長くなって、人恋しい季節になります。皆さんお元気ですか?などと言ってみる。こういったブログは誰かが見ているけれど、どうも手ごたえが希薄だ。いや、コメントを書けといっているわけではない。返事を書くのが面倒などで、コメントなど誰彼に書いてもらっても困る。適当に読んでもらえればそれでいい。

 私も何箇所か適当に読んでいるブログがある。あまり難しいのは読んでも分らないので、これもまた適当だな。

 明日はパートタイムのお仕事があるので、早く寝ます。ではまた。



 
はる 3744
 光より早い素粒子が見つかったということだ。まだ実際は検証がすんではいないので、これからどうなるかわからない。単純に考えるとアインシュタインの相対性理論が根底から覆ってしまうわけで、そうなると宇宙は閉じられた世界ではなくなる。どこまでも無限に広がる空間というと、暗黒の世界を空想して薄ら寒くなる。まぁどちらにしても日常にはなんら影響はないのだけれどね。

 隣の空き地に新しい家が建ち始めた。これが昨日まで土台が出来たと思ったら、今朝屈強の男たちが10人ばかりやってきて、大きなクレーン車が工場で作られたプラモデルのような家の断片を次々と持ち上げてあっという間に二階建ての大きな家が出来てしまった。

 面白いように立ち上がってゆく様子を見ると、これは家を建てるという仕事ではなく、単に組み立てると言う仕事だと思った。それぞれは実に楽しそうにホッチキスのお化けのような物を持ってパチパチとめていた。彼らは大工さんではない。まともな大工の修行をした人間は反対に邪魔になるだろう。そんな技術などこの場では使うところがない。まぁ時代の流れであるから、どうしようもない。仕事のやり方が変ったということだ。

 昔チャップリンがモダンタイムスで風刺していたのは、大きな工場の流れ作業だったけれど、今はそんな生易しいものじゃないね。実際一つ一つ最後までものづくりに関わっていけるというのはもう工芸品とか作家物しかないのかもしれないな。工場で作られた量産品か作家生産の一点物という両極端になってしまった。

 効率とか利便性、経済的なことを考えると、日常生活は出来るだけ量産品を使って暮らすというのが生きてはいきやすいのだけれど、この間の話の続きのようになるのだけれど、例えば何かを観るとか聴くとか感じるというのは、ただ単に流されていたのでは出来ないことなんだ。ただ単に口に入るものを食って、そこらの量産品の服を着て、張りぼてのような家に住んでいたのでは、何を食っても同じだし、どう生きても変らないということになる。

 この間の鑑賞の話とつながる。
 「それで終わってしまったのでは何も観ていない、聴いていない、感じていないのと同じなのではないかな。少し前にクロッキーのところで書いたけれど、物を見るとか、感じるとか、聴くというのは「はっきり意識して聴く、観る、感じる」という姿勢が必要なのではないか。我々に抜けている、教えられてこなかったのはそういうはっきりした姿勢ではないのかな」

 それが生きる、生きた、ということだ。

 裸の王様のように気がつかなければそれでもいいのだけれど、何だかすこし寂しい。
 
 



 
はる 3743
 今日から「こうふのまちの芸術祭」というイベントが始まって、私は既に一ヶ月も前から展示は始まっているのだが、その関係で来てくれる人もいるのかと思って夕方の一時間ほど珈琲を飲みに出かけた。上の足は私のものです。すみません。

 何箇所かの展示も見たけれど、どれも何か色んな廃材を使ったインスタレーションだったり、空間や音などで今ひとつ私には興味がわかない。どうも作品というのはこれこれというものだという私の既成概念が強いためだろうな。面白いという意味では分るのだが、それで何が言いたいのとなるとそこで止まってしまう。

 ここに参加している若者は各地のこういったイベントに積極的に参加している人も多く、展覧会があればそこに留まって何かしらの作品をその場にあるものを利用して展示して、終わったら片付けてまた違う場所に出かけるというスタイルをとっている。

 こういった現代美術の先駆的なものにイタリアのベニスビエンナーレがあるけれど、これなどはもう百年の歴史がある。15年ほど前に一度たまたま滞在した時にやっていたので観たけれど、各国の展示場が大きな広い公園の中に点在して、そうだな昔の大阪の万博みたいな感じで観てまわった記憶がある。多くの人がぞろぞろと言った感じで展示をのぞいていて、お祭りの山車や出し物を見る感じかな、面白ければいい、楽しければいい、まぁそんなお祭りに近いのかもしれない。

 まぁ考えてみると、こういったものの原点はお祭りのお化け屋敷とか、見世物やサーカスや芝居小屋などに由来して、アーティストなどと言うのは最近の話で、芸人や大道芸人、歌舞伎者、流れ者、漂泊者に近いのかもしれないな。そう考えれば彼らのやっている事の方が、私などがやっている額縁の絵より真っ当な「芸事」のようにも思う。



 昨年から縁があって自分の子供たちぐらいの若いアーティストと街中で遊んでいる。実際の話彼らがやっている事、やらんとしている意味が良くは分っていない。「あの有名な・・・」といわれても全く聞いた事も、見たこともないような奇妙な輩が、ガラクタを集めて即興的に何かをやっているという事しか分らん。あれで食べていけるのか?とおじさんは心配してしまう。もっとも彼らにとってはそれで食べるとかサクセスするなどという発想は元々ないのだろうな・・そこのところでもうギャップを感じてしまう。

 私は何度かこの場でお知らせしているように、街中のカフェでほぼ一ヶ月という長期にわたって作品を展示している。これは一年前から続いている企画で、昨年のまちなか芸術祭をきっかけにバールスローの石原さんの快諾を得て何人かの作家をほぼ一ヶ月間の個展という形で紹介してきた。私の紹介という形はこれで終りにしますが、引き続いて展示の計画もあるようなので、どうぞ参考作品か作品ファイルを持って石原さんにそうだんしてみて下さい。

 バールスロー ここです。 

 画廊という商売を考えれば、こんな人が行き交う事が少なくなった街中では経営はなりたたない。今甲府の町で画廊と言われるスペースが一体どれだけあるだろう。画廊は空きスペースがあるからと簡単に考えて始める人が多いけれど、見た目ほど気楽な商売ではない。

 例えば街中の画廊に絵が飾られていたとして、いったい何人の人がゆっくり絵を見てくれるだろう。絵を身近なものとして鑑賞する生活習慣がわれわれにあるのかということだな。確かに絵を描く人は比較的に多いのだけれど、それを観る、鑑賞するという姿勢はできていないように思うな。

 まぁ私自身も偉そうな事は言えないのだけれど、我々がどうして人の作品を鑑賞するのが上手くないのかを少し考えてみる。

 趣味として書く欄に「絵画鑑賞」とか「映画鑑賞」などと書くとまぁ比較的上品な趣味として可もなく不可かもなしといったところなんだが、ここで言う鑑賞は「ただ見る、眺める、娯楽」といった意味だな。「好きだ、嫌いだ、面白い、面白くない」そんな程度の事だ。普通はそれで終了、終わってしまっても誰からも非難されないし、いい趣味ですねで終わってしまう。

 でもそれで終わってしまったのでは何も観ていない、聴いていない、感じていないのと同じなのではないかな。少し前にクロッキーのところで書いたけれど、物を見るとか、感じるとか、聴くというのは「はっきり意識して聴く、観る、感じる」という姿勢が必要なのではないか。我々に抜けている、教えられてこなかったのはそういうはっきりした姿勢ではないのかな。

 そういった姿勢がどうすれば養われるかということなんだけれど、多分「言葉にする」という客観的な作業が必要なのではないだろうか。「言葉にする」事によって「今自分はこのことを意識した、聴いた、観た、感じた」ということを五体に響かすことができるのではないかな。

 ただ面白かったというだけではなしに、何故それが面白いと感じたのか、そのどこに面白さを感じたのか、それを面白いとおもった自分を知りたい。その事によって自然に自分の中にある種の「ものさし」ができるように思う。結局のところ「源泉オリジンへの旅」につながってゆくのだ。


 
はる 3741
 昨日のうちに早々授業のカットが決まって、突然幸せな休日になった。といっても我々パートタイム教師は授業をやらないと給料が減るという「嬉しくてやがて悲しき」状態ではある。それでも臨時休暇は得した気持ちになるから不思議なものだ。

 午後から風や雨が激しくなってきて、午後4時ごろは甲府を通過したらしい。久しぶりの台風の直撃だが、やっぱりお山に守られているのか、神戸で経験した第二室戸台風とは比べ物にならないものだった。勢力はけっこう大きかったんだが、ここはあまり風も吹かなかった。冬の空風でもあのぐらいの事がよくある。

 それに比べて雨はけっこう凄いものだった。川が近くを流れているので、もし氾濫ということになったら、まず今あるアトリエの絵を二階に運ばなければ個展が出来ないなぁ・・などと考えていた。実際はそんな事にはならなかったので取り越し苦労に終わってよかった。

 あと情報取得のためテレビを久しぶりに観た。どうでもいいような、同じようなことをどこのチャンネルでも何度も何度も繰り返しているだけであきれるなぁ。台風ならこんなに詳しく報道するのに、本当に必要な情報はほとんど誰かに遠慮して言わない。日本のマスコミはすごく偏向しているように思う。NHKでさえそうなんだから、民放はスポンサーが手綱を握っているから、推して知るべしだ。

 少し勘違いしていたところがあるのだが、新聞やテレビやラジオなど大手のマスコミはどうやってもその今の体制側(今現在力を持っている側)が握っているわけだから、体制批判てきなことは出来ない、やりづらいわけだ。それを天の公器のような顔をして、あくまでも公平な立場で物を言っているように言うのは間違っている。

 まぁそう考える何を信じて判断すればいいのか分らなくなってしまうのだが、まぁ何にしても絶対と言うものはなくて是があれば必ず非があるわけだ。だからある意味ネットのように玉石混合で何でもあって、ごちゃ混ぜの情報のなかから自分のモノサシで選んで判断すると言うのが正しいのかもしれない。誰かの目を通したものはどうしてもその色が付いているわけで、現場に行って実際に見聞きできないのであるならば、色んな雑多な情報が雑多な状態で入る方が正しいのかもしれないな。嘘も多いけど。まず疑ってかかった方がいいのかもね。

 台風で原発はどうなったのか、どこのテレビも報道していないぞ。
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