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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 2797
 (ここからはかなり空想がはいります。間違っていても異議は受け付けません。あしからず)アインシュタインが特殊相対性理論でやろうとしたのは、すべてのものはエネルギーの変形した形だということだった。想像するにニュートンの「エネルギー不変の法則」あたりから考えて当然の帰着だな。

 で次にもっと一般的に考え方を広げて、エネルギーだけではなくてすべての物事はある理にしたがっているのではないかという「統一場の理論」だった。このすべての物事というのが曲者で、宇宙の生成から哲学的なことまでを含んだものだったから、結局うまくは行かなかった。もともと我々は宇宙の子孫なので、どこかに必ずその理を隠し持っているものなのだが、普段それを意識することはない。

 絵を描いている時に時々感じるのは、絵画という特殊な閉じられた世界で究極的にはここは宇宙と同じなんだということだ。すごく小さな閉じられた世界ではあるが、ここに血の通った世界を構築するにはこの大宇宙と同じ理を持ち込まなくてはならない。

 セザンヌがやろうとしていたことはこのことなんだと思う。あるべきところに必ずあるように点を打つ。そのことの積み重ねがこの大宇宙を作っていると感じていたに違いない。
 



 
はる 2796
 絵は結局好き嫌いでしょうとはよく言われる。まぁ突き詰めればその通りなんだけれどね。どんな名画でも歴史的に価値があったとしても好きでないものには触手が動かない。

 「ラブ&ピース」は若いロック歌手でなくても皆が口にする。誰もが反対しない、できない耳に心地いいお題目だ。そのことの本当の意味が分かっているとか、理解できているとはまた別な問題だ。

 「かわいい!」というのがとにかく今の世の中受ける大きな要素ということになっている。女子高校生に受けないようなグッズはとにかく流行らない。とにかくテレビに出て顔と名前を売るというのも、世の中に受け入れられるかどうかの大きな判断にはなる。好きか嫌いかは別にしてね。

 「若い頃の苦労はかってでもしろ」とはよく言われる。どうなんだろうか、苦労しないで生きてゆけるならそれもまたいいかもしれないなぁ・・とは最近思う。苦労してもそこから何かを感受する能力がなければ意味が無い。どうなんだろうかね。

 いつも思うのは、人は自分のレベルでしかものが理解できない。どんなに素晴らしい言葉でも受け取る側にそれを感受する心が育っていなければ届かない。作品は鏡のようなものだ。今の自分が分かる範囲でしか理解できないのだな。

 



「説教する人」
画面を見ていたら出て来たイメージ
電話帳にコンテのいたずら書き
はる 2795
 蛯子善悦という作家の画集を見た。何年か前にたまたま立ち寄ったレストランの壁に飾られていたもので(多分その時の感想を書いた覚えがあるのだが、暇があれば検索してみてくれ)家に帰って調べてみたら数年前に亡くなっていて、しかも国画会の先輩であるということがわかってにわかに身近な存在になった。

 絵画というものが例えばどこかの画廊で見るとか、美術館で見るとか、パブリックなスペースで見るとか、何かのプロパガンバに利用されるとか、コマーシャルに使われるとか、色々な場所で見る場合があるだろう。

 けれど、作家としては本当は個人の生活の場で、日常的な生活のスペースで、四季折々の花や風景と同じように楽しんでもらうというのが、一番うれしいのではないかなと思う。何かのために利用するとか、まして特別な場所で襟を正して見なければならないような場というのは案外場違いなのではないかと思う。

 蛯子さんの絵との出会いがそういったまれに見る邂逅だったので、特に印象に残っている。

 彼の絵は多分今の公募展などで観ると見過ごされてしまうような、ごく普通のしごくまっとうなオーソドックスな手馴れたえに見える。けれど観ればみるほど自分などが忘れてしまった、絵を描き始めた頃の何か懐かしい、憧れのようなものを持ちつづけているように思うんだな。ほのぼのとした暖かい感覚というのかな。

 多分これはもって生まれた資質で、後から獲得した技術てきなものではない作家の本質だろうな。もしもう一度油彩画の作家としていきるなら、こういった作家もいいなと思う。
 

個展の感想・承諾を得て転載
艸そうさんの日々のこと
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なるようになるさ
つい、書きそびれていたのだけど、春さんの展示会でのこと。

お茶を頂いたテーブルの向こうに、自転車に乗った二人の絵が有った。この前の春さんのブログの散歩の写真を見てまたこの絵の事を思い出した。Que sera sera ケ・セラ・セラ なるようになる。自転車一緒にこいでいる二人、、それ、うちの事でもありだわ、、そう思ってました。言わなかったけど。

春さんの画は生で見なくちゃ。目を凝らしてじっと見つめながら、布を貼った「壁」にどんな風にその形が見えてきたのだろうと想像するのは楽しい。下地に貼られている布には、あれにもこれにも以前私が差し上げた麻の生地を使っていると教えてくださり、なんだかうれしくなる。今度「草の布」が出来たらぜひ使ってみてほしいと申し出ると、「全部塗りつぶされてしまいますよ」とおっしゃる。「それで良いのです」とわたし。

一番大きな画のそばには、左官屋さんの道具の様なコテと土(だったっけ?)が置いてあっった。左官職人のように土をこねながらコテを器用に操る姿を想像する。ご自宅のアトリエは日常生活の通路のまん中を占領していてトイレに行くにもそこを通らねばならないのだよとおっしゃっていた。今私が玄関で織をしているのと似ている。大きな作品を置くための別の広い場所が有るそうですがそこでは制作はされないのですかと尋ねると、そういう場所では書かないねえと。暮らしの中に有るからこそ書けるのだとおっしゃっていた。私も、物の置き場が無くて家から離れた場所にアトリエを構えようと右往左往していたが、いざそこに行っても何も始じめることができない自分に気がついて、無理を承知で半ば強引に玄関を占領している。此処に居ればちょいちょい人がやってくるし、珍しそうに眺めて行かれる人と、何でも無い会話を交わすことができる。何より、一番に見てほしい人がそこに居る。そんなささやかな事がきもちをふっくらとさせてもくれる。そんな暮らしに寄り添ったものを作り続けていきたい。

これから織ろうとしている布に、私、、わたしには何が見えて来るのだろう。

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 ありがとう。



ほとんど建物はなくなった。

 ほとんど建物が無くなった。こうやって何年もそこにあったものが、一気になくなってしまうとその場にあった「気」のようなものまでなくなってしまう。物事があるということは前後の関係で存在する。こんなおんぼろのアパートでも関係なく、何年かの間にその場になくてはならない「場」ができてしまっている。それが人為的にすっかり消えてなくなってしまうと、どこかでバランスが崩れているんだろうなと想像する。この場の前に立った時に感じる不自然さは慣れていないというだけではない何かがあるな。もうあと二三日かかるそうだ。

 古い舗装されていない路地裏の様子が好きだったんだけれど、人にはただの不便な日当たりの悪い苔むした路地にしか見えなかったのだろうな。夏場は雑草が繁茂してやぶ蚊の温床になり、雨が降ればぐずぐずの泥道になる。少し大雨になれば水はけが悪いので水溜りになる。けっして負け惜しみではなく、そんな風情がすきだったからそのままにしておいたのだ。もとあった「気」はもどらないだろう。

 はる 2792
 明日は久しぶりにハードな出稼ぎ仕事になる。ここのところ個展やらグループ展やら忙しくまともに仕事をしていなかったので何だか憂鬱だな。今年で私も57になる。ジー様になってしまったものだ。それにもかかわらず心の中は進歩が無い。
 



山梨美術協会会員展2/7~2/14
山梨県立美術館



私の絵に似ているなぁ・・。


 
はる 2788
 個展の後片付けがやっと一段落した。ここからは春先まで団体展のお祭りモードになります。個展だけを発表の場にしている人には信じられないかもしれませんが、この活動が一年の三分の一を占めているのです。押し詰まってくると一週間以上泊まりこみになります。しかもすべて手弁当のボランティアです。

 話題を変えて
 「奇跡のリンゴ」というリンゴ農家の話を読んだ。NHKの「プロフェッショナル」でやったそうだから観た人も多いかもしれない。私はまったく知らなかった。

 まぁ今はやりの無農薬ものだろうとあまり関心もなかったのだが、家人が薦めるので暇つぶしに読み始めた。無農薬の自然農法といえばわれわれの世代では先駆的な福岡さんが有名だけれど、まぁ理想的ではあるけれど現実的ではないという印象だな。

 読み進むうちに夢中になって一気によんでしまったんだけれど、まぁすこしテレビ的な演出が入っているのかなとも思うのだけど、結構、感動的だった。

 最近の食の安全という点から無農薬の野菜だとか食材の話はよく聞く。自給自足でもない限り必ず食料はどこかから手に入れなければならないわけで、ごく最近までどこで作ったものかなどということは問われることはなかった。ダイエーが全国的に台頭してきたのもとにかく安いということが売りだったわけだから、産地はどこでもよかったわけだ。

 ところがまぁ最近の流れを見ていると安いということより誰が作ったかとか、どこでつくったかといった、生産者の存在が注目されるようになってきた。それというのも環境ホルモンや農薬汚染のこともそうだけれど、食というものが工業と同じように生産品として作られたり売られたりすることの不安からきているように思う。

 昨年の殺虫剤入りの餃子などというのは例外的なことで、そんなことだけに注目すると本質を見失う。

 基本的に食は人間というのか生物のもっとも根幹にあることで、そのことをいいかげんにして人は存在できないということだ。食というのは農業のことなんだな。けっしてあそこがうまいここがおいしいというグルメのはなしではない。

 無農薬農業といえば理想のように聞こえる。自然農法ができるならだれでもそれに従うだろう。けれどそんなに生易しいものではない。考えてみればわかることだが、農業そのものが自然なものではない。同じ作物だけが単一に生育するという環境は自然にはないわけだ。そこにすでに無理があるわけで、そもそもそうやって不自然な環境を作ったがために、それを制御する農薬が必要になってくる。

 無農薬農法というのはそもそも根本からありえないことなんだな。自然じゃない人工的な環境(畑や田んぼ)を作っておいて、何もしないでは敵に裸で戦いを挑むようなものだ。結果は最初からわかっている。

 例えば虫が来たら網をかけるとか手で払うとか手で取るというのは、一見正しい無農薬農法のように見える。じっさいほとんど場合そういった対処を期待する。でもそれは根本的に間違えている。それは農薬の代わりを手や網でやっているに過ぎない。それでは永久に働き続けなくてはならないし、それでも多分病気にやられてしまうだろう。防ぎきれないのだ。なぜならそれは不自然な環境だからだ。

 地産地消の話ととてもよく似ている。日本家屋が高床式で紙と木と土でできているのにはわけがある。その環境で取れたものでつくったものが一番自然なわけだ。格好がいいからという理由で密閉型の小さい窓のカナディアンハウスを作ってもそれは自然じゃない、本物ではない。

 因果応報という必ず原因があってその結果が今の状態をつくっているわけだ。反対にいえば今の中に過去も未来もある。病気になれば薬を使う。虫がくれば殺虫剤を使う。一見正しい選択だけれど、そこだけ見ると見まちがう。病気になったのは、どこかに無理があると教えてくれたものだ。虫が大量に発生したのはそこのところに無理があったからだ。自然のバランス感覚が教えてくれているのだ。

 詳しい内容は読んでもらえばいいのだけれど、結局何かいつも言っていることにつながるんだな。吉田秀和の「永遠の故郷」ではないけれど本当に、こう宇宙の成り立ちみたいなことにもつながるんだけれど、ひとつのもの中に永遠が隠れている。「セザンヌの塗り残し」ともつながる。

 一本の線は、点は、色は必ず全体の中で絶対に必要な場所に必要なだけ存在する。それを感じるのがわれわれの仕事だし、この本を読んでますます確信をもった。
 
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