画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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梅田恭子 銅版画集「ツブノヒトツヒトツ」全12章展
2009 1/26~2/6 2/1(日)休み
15:00~19:00
天音堂ギャラリー
06-6543-0125
大阪市西区南堀江1-18-27-611
個展楽日
無事終了しました。最後に誰かから聞いて来たという駆け込みのお客さんが結構多かった。ということでありがとうございました。明日帰ります。
はる 2779
個展楽日
そうだあなぁ、個展が終わるといつも少し寂しい。デパートの売り場はその期間だけ、一つの共同体となっている。誰が展覧会をするのか、現場のスタッフはほとんど関知しない、というのか関知できる立場にはない。まぁいってみれば誰がやっても自分の給料には関係のないことなんだな。
けれどたった一週間だけれど、その期間だけ共同戦線をはる。私ひとりの力では何もできないし、やっていても面白くない。たった一週間でも面白く楽しくやりたいものだ。
学生時代から実に多くのバイトをしてきた。そのことで学んだことは多いけれど、何だろう、人からの命令で動くのではなく、自分の考えで動くといったことかな。やらされて動くのは面白くない。
個展は自分の仕事だけど、売るとか見せるとかそんなことばかり考えてやっていると、一週間の仕事は面白くない。苦痛になる。できたら展覧会を楽しみたい。スタッフと一緒になって一つの見世物を作るんだといったことだろうか。
まぁそうやって動いて、一応それなりにかかわって来たことが今日で終ってしまう。そこら辺りがさみしさを感じるゆえんだろうか。
無事終了しました。最後に誰かから聞いて来たという駆け込みのお客さんが結構多かった。ということでありがとうございました。明日帰ります。
はる 2779
個展楽日
そうだあなぁ、個展が終わるといつも少し寂しい。デパートの売り場はその期間だけ、一つの共同体となっている。誰が展覧会をするのか、現場のスタッフはほとんど関知しない、というのか関知できる立場にはない。まぁいってみれば誰がやっても自分の給料には関係のないことなんだな。
けれどたった一週間だけれど、その期間だけ共同戦線をはる。私ひとりの力では何もできないし、やっていても面白くない。たった一週間でも面白く楽しくやりたいものだ。
学生時代から実に多くのバイトをしてきた。そのことで学んだことは多いけれど、何だろう、人からの命令で動くのではなく、自分の考えで動くといったことかな。やらされて動くのは面白くない。
個展は自分の仕事だけど、売るとか見せるとかそんなことばかり考えてやっていると、一週間の仕事は面白くない。苦痛になる。できたら展覧会を楽しみたい。スタッフと一緒になって一つの見世物を作るんだといったことだろうか。
まぁそうやって動いて、一応それなりにかかわって来たことが今日で終ってしまう。そこら辺りがさみしさを感じるゆえんだろうか。
個展4日目
「まれびと」さんの感想・承諾をとって転載
「 寝袋持参・泊り込みで現場指導へ行った明けの帰り、大阪に立ち寄って、阪急梅田の百貨店で個展を開いているはるさんの絵に会いに行った。古代の地層のような洞窟の暗がりの濡れた岩盤のようなキャンバスに、鉱物の来歴を物語るために湧き出て来たかのようなさまざまな人物たちがいた。縄文のビーナスのような太った女もいれば、一輪車の上の危ういバランスを保っている道化師もいる。楽器を奏でる孤独な漂泊者もあれば、眠っているようなインカの少女たちのミイラもある。いちばん大きなキャンバスの中央には、染みのような放射能で焼きついたヒトガタのような妙に背の高い人物が浮き出ている。画家はさいしょ、ここにはマリア様を描いたのだと教えてくれた。けれど明確なマリア像がしっくりとこなかったので削り落としていった。するとこんなふうになった。ある老人の客は仏様だと言った。画家は天を見上げる男性だと言う。わたしにはどう眺めてもうつむいた優しげな女性にしか見えない。つまり、ひとはきっと、作品の中にじぶんの心のかたちを見つけるのだ。はるさんの絵の描き方は一風変わっている。キャンバスの上に粗布や絵の具や木片や襤褸切れなどを塗りこめて、それらを削り、また塗りこみ、また削り、その果てしない繰り返し(格闘)のうちにキャンバスの中からやがて何かの形らしいものがぼんやりと見えてくる。まるでハレの日にいずこより訪れるまろうど(客人)のようだ。世界にはそのようにしか得ることのできないものがある。じぶんを削り落としていきながら、最後には、受け取るための手を差し出すだけでいい。気がつけば、それは手のひらに、乗っている。はるさんの絵は、自転車を颯爽と乗り回す人物も、楽器を抱いた楽師も、互いに寄り添う人物も、樹や白壁や窓、緑や真紅や金色の顔料さえも、すべては祈りのかたちなのだと思う。祈る、その始原の場所をさがしているもとめている絵だ。「こたえてください」のタイトルも画題も、それを端的に顕している。ひとは画家の絵を見つめながら、知らぬうちにじぶんの祈りのかたちを探し始めて、ときにもがく。その日、わたしはついに祈りのかたちを見つけられなかった。夜、家に帰ってからネットで見つけたガザの空爆で死んだ子どもたちのむごたらしい写真を子に見せた。子は思わず顔をそむけた。彼女には大きな負担だったかも知れない。それでもわたしは堰を切ったダムの水のように、風呂の中で、布団の中で、子に、ユダヤ人の歴史からアウシュビッツの惨劇、そしてイスラエルの建国、パレスチナの長くいまだ終わることのない絶望の風景を深夜の11時まで喋りつづけ、日頃就寝が遅いことを気に病んでいる彼女の母親にひどく叱られた。どうしたらいいの? と訊いてくる子にわたしは、どうしたらいいか分らない、としか答えられなかった。「こたえてください」とは、天に唾するようなものだ。それでもひとは祈る。所詮、祈りつづける」
ありがとう。
「まれびと」さんの感想・承諾をとって転載
「 寝袋持参・泊り込みで現場指導へ行った明けの帰り、大阪に立ち寄って、阪急梅田の百貨店で個展を開いているはるさんの絵に会いに行った。古代の地層のような洞窟の暗がりの濡れた岩盤のようなキャンバスに、鉱物の来歴を物語るために湧き出て来たかのようなさまざまな人物たちがいた。縄文のビーナスのような太った女もいれば、一輪車の上の危ういバランスを保っている道化師もいる。楽器を奏でる孤独な漂泊者もあれば、眠っているようなインカの少女たちのミイラもある。いちばん大きなキャンバスの中央には、染みのような放射能で焼きついたヒトガタのような妙に背の高い人物が浮き出ている。画家はさいしょ、ここにはマリア様を描いたのだと教えてくれた。けれど明確なマリア像がしっくりとこなかったので削り落としていった。するとこんなふうになった。ある老人の客は仏様だと言った。画家は天を見上げる男性だと言う。わたしにはどう眺めてもうつむいた優しげな女性にしか見えない。つまり、ひとはきっと、作品の中にじぶんの心のかたちを見つけるのだ。はるさんの絵の描き方は一風変わっている。キャンバスの上に粗布や絵の具や木片や襤褸切れなどを塗りこめて、それらを削り、また塗りこみ、また削り、その果てしない繰り返し(格闘)のうちにキャンバスの中からやがて何かの形らしいものがぼんやりと見えてくる。まるでハレの日にいずこより訪れるまろうど(客人)のようだ。世界にはそのようにしか得ることのできないものがある。じぶんを削り落としていきながら、最後には、受け取るための手を差し出すだけでいい。気がつけば、それは手のひらに、乗っている。はるさんの絵は、自転車を颯爽と乗り回す人物も、楽器を抱いた楽師も、互いに寄り添う人物も、樹や白壁や窓、緑や真紅や金色の顔料さえも、すべては祈りのかたちなのだと思う。祈る、その始原の場所をさがしているもとめている絵だ。「こたえてください」のタイトルも画題も、それを端的に顕している。ひとは画家の絵を見つめながら、知らぬうちにじぶんの祈りのかたちを探し始めて、ときにもがく。その日、わたしはついに祈りのかたちを見つけられなかった。夜、家に帰ってからネットで見つけたガザの空爆で死んだ子どもたちのむごたらしい写真を子に見せた。子は思わず顔をそむけた。彼女には大きな負担だったかも知れない。それでもわたしは堰を切ったダムの水のように、風呂の中で、布団の中で、子に、ユダヤ人の歴史からアウシュビッツの惨劇、そしてイスラエルの建国、パレスチナの長くいまだ終わることのない絶望の風景を深夜の11時まで喋りつづけ、日頃就寝が遅いことを気に病んでいる彼女の母親にひどく叱られた。どうしたらいいの? と訊いてくる子にわたしは、どうしたらいいか分らない、としか答えられなかった。「こたえてください」とは、天に唾するようなものだ。それでもひとは祈る。所詮、祈りつづける」
ありがとう。
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