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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 2766  
 また明日から旅に出ます。今回は結構長い二週間ぐらいの予定です。前半は家族の色々。親父の33回忌の法事。その後兄貴の還暦のお祝い。ごたごたとあって、真打は私の個展というわけだ。実は反対で、私が個展で帰省するに合わせて、兄弟が行事を組んだだけなんだけれどね。それでもまぁ楽しみなことには変わりはない。  

 会場には毎日出かけます。時間がありましたら観に来てください。シャメだけになるかもしれませんが、また出来るだけリアルタイムで報告したいと思います。では行ってきます。



 
 色んな準備に奔走する。一週間留守にすると言う事は面倒なことが多い。郵便をとめたり、新聞をとめたり、その他色々・・。学校の仕事もキャンセルしなければならないし、大変申し訳ない。個展は出来るだけ長期の休み中に入れるようにはしているのだが、デパートの場合選べる立場にはない。



荷物を大阪に送った。がらんとした廊下。
はる 2764
 小津安二郎監督の映画などを観ていると、典型的な戦後の平凡なサラリーマンの生活みたいなものが描かれている。丸い食卓があって奥さんは着物のうえに白い割烹着などを着て、親父は浴衣や冬は丹前などを着て、「うん」とか「あぁ」しか言わずに威張っている。

 家は戦後の安普請だけれど、小さな庭があって庭には物干しの棒が二本立っている。夕方には豆腐やが自転車に乗って「トーフィ~」とラッパを鳴らしながら去って行く。西岸良平の「三丁目の夕陽」の世界だな。まぁ色々問題はあったにせよ、それが一つの「幸せのかたち」だった。

 日本の企業の雇用の形態は昔の殿様と家来の封建制に似ている。一度職につくとそこに骨をうづめるつもりで「滅私奉公」するように強要する。藩をでて浪人になってしまえば再び仕官する事は物凄く難しく、大方は家族ともども藩から拝領している家屋敷からでなければならなかった。後は悲惨な末路が待っている。

 まぁその代わり、一度家人になれば、あらゆる面で優遇されているし、よほどの不始末をおかさない限り、親方様は家来を守ってくれた。そこにある種の契約というのか、絶対服従を強制するかわりに死ぬまでの家族の生活全ての安堵を約束するといった、暗黙の了解があったように思う。だから兎に角「我慢する」「堪忍する」というのが滞りなく人生を過ごす家訓であったわけだ。

 戦後アメリカ型の雇用形態が入ってきて、週払いや実力主義で働いただけ支払われる給料システムがやたらカッコよくみえた。フレキシブルで自分の与えられた仕事だけきっちりやれば、「お付き合い」だの「根回し」だの訳のわからない「残業」だのやらなくてもいい、すっきりした雇用形態が日本型のドロドロした泥沼型仕事よりどれだけ魅力に富んで見えたことか。その裏に隠されている厳しい現実を知るまではね。

 派遣型労働形態が出来た頃は、一般にはもろ手を上げて賛成の雰囲気だった。今さら日本型の終身雇用なんて古臭い。これからはスッキリはっきりのアメリカ型の雇用形態に全てが移行して行くだろう、といった雰囲気だったな。企業側でも使い捨ての安い労働力を確保できるわけだから、大いに賛成だった。でなければ人材派遣会社があれだけもてはやされて急成長するわけがない。

 少し前にも書いたけれど、能力主義(速い、安い、便利)というのは一見自由で平等で民主的にみえる。当然当たり前のこんこんちきに思える。しかし、出来る人はいい、でも能力のない人間はどうするのか、能率の悪いひとはどうするんだ。不便な場所のお店は寂れても仕方ないのか。安ければ自国の農業を衰退させても外国から食料を調達するのか。etc・・

 もう一つは、若いということは何も経験がないということで、出来上がった社会に入る事には誰でもやなものだ。だから一見人当たりのいい、楽で便利で簡単そうな雇用形態を選ぶ。

 社会にはどうしても必要な誰でもが嫌がるような仕事がある。いわゆる3Kの仕事であったり、単純な肉体労働など、何の経験も必要とされず、その代わり何年やっても何のキャリアにもならない、そんな日替わりで充分で、取り替えのきく無味無臭の仕事がある。

 若い時はそれでも充分だと思っていた。それ以上望む事もないきがしていたけれど、年を経るにしたがって段々に辛くなる。どれだけキャリアを積んでもだれからも評価されないような仕事は、芯から嫌になってくる。そこにいてもいなくてもいいような、存在が消えてしまった、まさに透明人間になる。仕事が人を作る。そのことを充分に考えるチャンスを与えるべきだ。

 新しい雇用形態を考えなければならない時に来ている。もう滅私奉公の昔には戻れない。かといって今のままではやがて社会は内から腐ってくる。出来る人はほどほどに、出来ない人は一生懸命にといった、「遅くて、高くて、不便」がカッコいいスローな社会を考えなければならないのかもしれない



 
はる 2762
 就職するかしないか、と考えたのは二十歳前後の頃からだ。反対に言えば、なぜ皆何の疑いもなく就職活動をやって、やりたくもない仕事をして行くのか、仕事というものは何なのかもっとよく考えてからでもいいのじゃないかなどと思った。

 まぁ青臭いといえばそうだし、社会的にそういったモラトリアムが認められる余裕があったからだろうけれど、そのかわり仕事については良く考えた。企業というのが利潤を追求するというのが大命題であるならば、その社員もそれに従わなくてはならないわけで、そういったバリバリの企業戦士のようにもなれそうにもなかったしな。

 公務員になって理想をいうなら「全体の奉仕者」になるというほうがまだましな気もしていた。けれど仕事としてどうも今ひとつ魅力に欠けるなぁというのが本音だ。突き詰めると職人か百姓しかないんだな。後まぁなれるなら芸能の人というわけだけど、これは職業といえるのかどうか??。

 就職したくないというよりしたい仕事が見つからなかったと言う方が当たっているかな。かたちは今の子供達と同じように、ニートには違いないけれど、仕事について考え続けていたことは間違いない。

 でもまぁ、ほとんどの人がそれ以前に働かなきゃ食って行けないわけで、四の五の言ってないで与えられたことをやれ!というのもよく大人たちに言われたものだ。その仕事が合っているのかどうかなど、10年20年やってみて言えることだ、とね。

 これは、そっくり今の絵のテーマ「自分とは何者か」につながっている訳で、未だにその答えは出ていない。今は居直ってそれを考え続けることが仕事だなどと言っているが、宿題を先延ばしにしている小学生と変わりはない。

 絵を描くことが好きか?合っているのか?と聞かれるとこれもまた分からないなぁ。ここまで来てしまったからとりあえずはやっているけれど、本当はこうやってもの思いにふけって思索している時が一番好きなのかもしれない。

 まぁ何のためにもならん独り言みたいなものだ。

 


 
上から「口」の元の形で「サイ」と読む。この「サイ」の発見というのか解釈が白川静の白川たるところ。ここからあらゆることが解き明かされる。これはいわゆる「くち」ではない。「口」と解釈するとごく普通の解釈しか生まれない。これは神との交信手段としての入れ物なのだ。何を入れたのかといえば、まぁ色々な願いごとなど神聖な文書だった。

 「言」というのはその「サイ」の上に「辛」を乗せた形。「辛」というのは大きな針で刺青の道具。で「言」というのは自己弁明、神かけて誓うというようなことだったらしい。嘘偽りがない証しに間違っていれば自らの身体に罰として墨をいれる覚悟だというようなことか。

 「吾」というのは「まもる」とも読むらしい。で「五」の象形「Ⅹ」は木の枝でしっかりふたをしている形。ということから「サイ」に入った神書をしっかり守るということだ。



 
はる 2761
 松岡正剛の「白川静」を読んだ。帯には白川静の初の入門書と書かれている。今さらながら白川静はおもしろい人だ。氏の漢字の話の中には絵のテーマになる事やヒントが山のように隠れている。何年か前の「かぜのおとづれ」のテーマも実は氏の「風」からヒントを得ている。

 「訪れる」とは実は「音を連れてくる」から来た言葉だというのが、なんとも衝撃的な示唆だった。目に見えないものは音で感ずるしかない。風は見えないけれど、風が連れてくる音でその存在を知るというのだ。

 漢字の中には古代の人の心の有り様が隠されている。漢字は単にアルファベットなどのような記号ではない。その中に古代の人が何を感じ、何を欲していたのかというのが見える。で、それは古代の人だけのことなのかといえば、実は今の私たちのも共通する普遍的な人の心の有り様が見えるのだ。ここのところが実に興味深い。

 言葉というものは単にものを説明するだけのためにあるのではない。こうであったらいいなとか、このことは避けたいとか、嫌だなというふうに、人の思う形が言葉となって生まれてくる。「言霊」というけれど、「ことば」にはそういった人の想いが必ずついてくるものだ。

 人が動物でなくなった時に一番感じたのは「恐い」という感覚だと思う。暗い森には何かがいて、すきあらば我々に襲い掛かろうとしている。知らない事、見たこともないこと、予測のつかないことは、恐怖だったのだ。その恐怖や不安の感情を如何にして克服するかというのが、言葉の始まりのような気がする。まず人智を超えた大いなるものがいた。そしてそれらに祈ったり、占ったり、呪ったりすることで、とりあえずの安穏を得たのではないかな。

 色々衝撃的な言葉が語られているけれど、例えば私のペンネームであるところの「あそぶ」(遊)という字がどうやって生まれたかというのもなかなか示唆に富んでいる。

 元々の「あそぶ」とはまぁ夢中になってわれを忘れることをいうのだが、そういった忘我の状態を「神がかっている」「神が降りてきている」と考えた。

 漢字の「遊」という字と多少なりとも意味がずれてはいるのだが、「遊」のもとの意味は「方」(旗)を持った「子」(人)が歩いている形からきている。何故旗を持っているかと言えば、昔の人にとって自分の住んでいる場所から離れることは魔物が住んでいる異界に行く事であって、恐かった。故に自分たちの民族の守り神が降りて来易いと考えた旗をもって歩いた。

 事ほど左様にすべからくに「かみがいた」ということなんだな。まぁそれほど不安で恐ろしかったという裏返しではあるのだけれどね。まぁ「罰があたる」とか「お天道様が観ている」とかそういった「おおいなるもの」の存在を身近に感じられない現代の人は案外不幸なような気がする。

 



 
はる 2760
 特にどこにも不調はないのだが、二ヶ月に一度は病院の定期検診を受ける。これは検診というよりビタミンB12の補充に行ってるといったほうが当たっている。鉄分とかある種のビタミンは胃がないと吸収されにくいとかで、直接注射で体の中に入れる。まぁ他に特別薬を飲んでる訳でもないので、大きな病気をしたわりには予後がいいようだ。ありがたいことに。今日は午前中その定期検診だった。
 



 
はる 2759
 100号を含めて梱包をする。額装をして梱包するのはけっこう面倒な作業だ。特に100号クラスになるとダンボールもかなり大きなもので、普通のホームセンターでは売られていない。随分昔、コンクールに出品した時に業者さんに頼んで返却されてきたのも取っておいた。もう何度も行ったり来たりしているのでボロボロになってしまったけれどね。

 小さな額は画材店にオーダーした時にダンボールに入れて、そのまま運搬できる状態で送ってもらう事にしている。そうすれば一つ一つの箱も傷まなくてすむ。細かい事だけれど、こういった箱は化粧箱としてオーダーしたものでけっこう値のはるものだ。

 工芸品なんかは特にそうだけれど、箱がけっこう大切な要素になる。作家直筆のサインがあるかどうか、などなど・・。作品そのものとは関係のないことだけれど、ある種の見せ方、様式、価値の変換の仕方ではないかと思う。

 額も選ぶのが面倒になるほど色々ある。額によって作品の見え方はうんと変わってくる。ぴったりと合った額はその作品の価値を何倍にも見せてくれる。ただ私の今の作風の場合、額まで一緒に描いているようなものなので、出来るだけシンプルなボックス型がいいと思っている。色々考えなくていい分楽だな。

 本当は少し手を加えた方がいいのだけれどね。 

閑話休題
 臨時雇用と言えば私なんかももう30年近くそんな感じで、毎年3月に管理職から来年もやりますか?などと聞かれる。ここでやりませんと言えばそれで契約はおしまいという、実にあさりしたものだ。毎年履歴書と免許書の写しを提出するたびに、あぁ俺は臨時採用なんだと気付かされる。

 非常勤講師という仕事は、外から見れば普通の教員と大して違いはないようにみえるけれど、実は全く違う仕事だと思う。職業とはいえない、身分的には学校の先生だけれど、これほど不安定で何の保障もない、使い捨ての仕事はないだろう。保険も勿論失業保険も年金も健康保険さえない。二ヶ月に及ぶ長い夏休みや、春休みは当然賃金は支払われない。

 試験になれば当然授業はない、そういった学校行事で授業がつぶれた場合も休業補償などされない。生徒のために残って補習しても当然時給はつかない。

 だけど、そのことで文句を言った事もない。なぜならそれを承知で請け負っているからだ。非常勤講師というのはそういった仕事なんだ。だから病気をした時の多少の準備も必要だし、働けなくなったらどうするのか、ある程度の覚悟が必要だ。そういった心づもりもなく、ただ単にその日暮らししているのは、羨ましいけれど無謀だな。責任は自分にある。政府が何とかしてくれるとか、周りの温情にすがっているのはお門違いだ。

 何とかしろと圧力団体のように抗議している姿は同じ風来坊として恥ずかしい。もっと根性くくらんかい、とそう思うのだ。

 


Iさんへ
「聖書を読んだわけではないのですが、こういった話になるとあることを思い出します。一片のパンしかなくてそれを今皆で分けてしまった。明日のパンはどうするのか弟子がキリストに尋ねた。「明日の事は思い煩うな、今日一日の事はそれだけで充分だ」

 どうしても明日のパンの事ばかり考えて今日一日を充分に楽しめない自分いる。命を預けてしまう。それは美の神へのささげものなのかもしれないけれど、そうしないと本物にはなれないのかもしれませんね」
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