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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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「ビーナス誕生」仮題・部分
 
 上は今日一日何回も上から描き込んだ。一時はもうだめかと諦めて上から絵の具を塗り込んだら、かえってそれが良かったのか復活した。だめで元々とエイやっとぶち壊すと良くなったりする。良くあることだ。ここが上手くいったと思って残そうと思うとつまらないものになってしまう。

 昨日の続きではないけれど、いいか悪いかの判断は微妙で言葉で説明するのは難しい。全くどうしようもない作品がどこか一箇所に点が、一本の線が入る事で見事に蘇る場合がある。これは全く奇跡のような瞬間で、絵を描いていて面白い良かったと思う瞬間だな。

 どんな駄作でもその作品にとって最高の瞬間というのがあるのじゃなかろうか、ある一点を過ぎるともう潰れてしまう。後はどうあがいてもその瞬間より絶対に良くはならない。それを見極めるのがまた難しい。大体描いている途中と言うのはあばたもえくぼ状態で、自分の絵にほれ込んでいるので五割以上良く見えている。明日になればげっそりするのは見えているのだが、それはそれ描いている時は見えない。

 その窮みを知りたいと思う。それを知るために絵を描いているのか?な。

 美が生まれる時まさに「ビーナス誕生」ではないかな。
 
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はる 3713
 DMが出来ました。これが出来ると否が応でも臨戦態勢になる。一回一回が勝負という気がしている。見に来てくれた人はその一回が全てだからね。面白くなければ次はない。

 DM用の写真も三種類ぐらい考えた。赤は発色が難しいので避けようかと思ったのだが、初めてやる会場だから、あえて赤で行く事にした。インパクトのあるDMになったと思う。何とか多くに人に観てもらいたい。

 閑話休題
 「絵は好きか嫌いだろ?」といわれる。確かにそうなんだ。どんなに他人にこれがいい、価値があると言われても好きでなければ自分の身近に持って置きたいとは思わないだろう。好きか嫌いか最も単純な基準ではある。

 では反対に作家の方から見るとどうなんだろう。もちろん好きか嫌いかといえば、自分の作品は好きなんだろうけれど、そんな基準で描いてはいない。具象的な作品ならば具体的なそのものに近づいているかどうか、人物ならその人物の雰囲気に近づいているか、臨場感があるかどうか、そんな事が判断の基準になるだろう。

 私の絵などは全くの抽象ではないが、具体的な形は残っているけれどそれに近づいているかどうか、似ているかどうかというのは判断の基準にはならない。無論好きか嫌いかということでもない。すごくあいまいである。

 昔、民芸の浜田庄司が自分のろくろで作った生地に釉薬を施していた。今で言う流しかけのようなもので、それを間近で見ていた取材者が「先生ぐらいになると3分で一丁あがりですね・・」といったら彼はこんな風に答えた「ここまでになるのに60年と3分かかった」

 「これがいい」という判断の物差しは一様ではない。どんどん変ってゆくものだろう。昔いいと思ったものが、年を経るとそうでもなくなったり、反対にどうにも好きになれなかったものが、やがて好きになったりする。

 結局どういうことかといえば、少し前の針穴写真のように、どんなに真実をう写したとしても、身の丈にあったものしか観えないのだろう。

 なんだか代わり映えのしない結論になった。あしからず。

Evacuate FUKUSHIMA - 福島の子供を守れ



 
はる 3712
 上の絵はどこかで見たでしょう?一週間ほど前にここに晒しました3703の「受胎告知のような絵」です。まだまだどうなるか分りませんね。もっと面白くなるのか、何か具体的な物語が出てくるのか、まったくつぶれてしまうのか、分りません。楽しみでもあるし、苦痛でもありますな。

 10月の西宮の個展のDMが出来てきました。関西方面で芳名帳に住所を書かれた方は10月に入りましたら郵送します。気長にお待ち下さい。それ以外で欲しいという方は
http://enami.sakura.ne.jp/mailform.htm に住所、氏名を書いて送ってください。よろしくお願いします。



 
 ある人のブログを読んでいたら、セザンヌはただ下手くそなだけだ。基本的にデッサンが出来ていなくて、男と女も描き分けられないとんでもないくいい加減な作家だとか、クレーはつまらん、アンフォルメルなどという仕事は見なくてもいい時間の無駄だ、「わざと下手に描かなければ、これだけ下手に徹底することは出来ない」というふうなことが書かれていた。

 まるで自分のことを言われているようで、意気消沈してしまった。そうかそんなふうに見える人もいるんだと正直なところ驚いた。もう既に歴史的にそれなりに評価されている人を、自分が分らないから、理解できないからといってこき下ろしていいものだろうか。まぁブログは言いたい放題、勝手気ままという面があるから、仕方ないのだけれど、まぁ自分の眼力のなさを恥じた方がいいように思うがな・・。どうだろう。



 
はる 3710
 描いていたものをほとんど全て壊してしまった、その残骸。けれど壊す事で次の展開が見えてくるわけで、けっしてゼロになったわけではない。そこのところが微妙でまったく何もない状態にしてしまってはだめなんだな。

 地球上の生物のDNAの大元はどこか宇宙のかなたからやってきた星屑だったらしい。たとえ生き物が発生するどんな好条件がそろっていても、そこに何かしらのきっかけ、信号、メッセージが入ってこなければ生物は生まれないそうだ。

 材料がどんなに素晴らしいものであっても、技術がどんなに優れていても、最後のさいごは何かしらのオマジナイをかけなければ、けっして生きた絵にはならのではないか。で、その最後のオマジナイは何かという事だな。

 こいつは難しい。これは本当に自分のこころの中に問いかけるしかない。きっと全ての人が同じように持っているものなんだろう。ありとあらゆるものにあって、尚且つ根源的なゆるぎないもの。

 言葉でいうのは簡単なんだけれど、結局、描いてゆく、書いてゆく、作ってゆく、ことでしか得られないものじゃないかな。そんなふうに思う。



 
はる 3709
 この間たまたまついでがあったので、○○モールというショッピングセンターに行ってみた。もう長くここに住んでいるけれど、こういったショッピングセンターなるものに出かけたのは初めてのことだ。自慢じゃないが・・。

 馬鹿でかい体育館の何倍もあるような建物が現れて来て、これにも最初に驚いた。その周りはこれまたそれ以上の広さの駐車場で占められている。お盆休みということもあるのか、駐車場は満杯だ。で、一歩会場の中に入ってこれまた驚いた。

 一つの町が作られている、ショッピングモールというのはそういった意味だったのね。食料品はもちろんのこと、色んな雑貨、ブティック、本屋さん、酒屋、映画館もあって片隅にはベンチがさりげなく置かれていて、子供づれの若い家族が休んでいた。いやはや駅前なんかより全然人が多くて、ちゃんと雑踏になっているだな。

 素晴らしいことに、このくそ暑いなかでもモール街のなかは適当な温度に保たれている。もちろん日焼けする心配もないし、雨がふることもない。ハウステンボスとかディズニーランドのようなテーマパークを想像した。

 快適、便利、綺麗・・そうなんだけれど、なんだか少しおかしい。街中に人がいなくなる理由が分る。人は群れを作る動物だ。放って置いても自然に群れる。けれどある法則がある。何々すべきだといった原理原則では人は動かない。面白いから楽しいから、人は集まる。面白くないところは自然に寂れてゆく。これは止めようがない。

 だからといってこんな人工的な町で、人が用意してくれたおあつらい向きの、行動が読まれてそっくりそのままお任せした施設でいいのかな。予定調和というのか、どこにも破綻のない、良く計画された人生など、大げさに言えば生きてゆく価値はない。もっとも生きる事に意味など元々ないのだけれど、それでもあっちこっちで頭をぶつけて、暗中模索で生きてゆくのが、時には大怪我するかもしれないが、病気になって途中で死んでしまうかもしれないが、そうやってうだうだ言いながら生きてゆくのが人ってもんだ。

 ぼうふらもわかないような生簀で、どう間違っても溺れ死ぬような事のない水溜りで遊んで、面白いかい。血わき肉おどる興奮が味わえるかい。

 パソコンのバーチャルな世界とどっこいどっこいだな。と思った。 



 
はる 3708
 今日は一日降ったりやんだり。おかげで涼しくなって、過ごしやすい。まぁこのまま秋になるとも思えないけれどね。

 本屋さんに寄って立ち読み。まだ新しい美術雑誌は発売されていないので、ぶらぶらと画集のコーナーへ行く。たまたま手に取った画集が諏訪敦の「どうせなにもみえない」という最新の画集。これがなかなか凄い画集だった。本物を見ていないので、なんとも言えないのだけれど、彼の作品は今はやりのスーパーリアルな美人画の若手作家だけれど、○日会系のただやたら綺麗だけではない凄さを感じさせるものだ。流行のアントニオ・ロペス・ガルシアスペインリアリズムとも違う、松井冬子などにも感じるある種日本的でちょっと危険で猟奇的な部分も感じさせる。まぁ徹底した写実というのはどうしても生きた人間よりも標本を感じさせるものだ。それが悪いという意味ではない。

 日曜美術館で特集されたという、諏訪さんのTVを見たいと思って探すとここにありました。便利ですねぇ。感動しました。
http://www.twitvid.com/MB4AH

 
 



 
はる 3707
 まぁ一応こんなものになってきた。サインなんかも入れてみたけれど、多分また上から描き込んで無くなってしまうだろう。サインも絵の一部だと考える。絵に合わせて自然に変ればいい。

 私の考える方法は「全てが全体で一つ」という考え方だ。ここでいつも書いているように、一つ一つの作品もそんな描き方をする。決して部分的に仕上げてゆくという事はしない。それは意識してそうする訳で、無意識にかきすすめてゆくと、どうしても部分的にすすめてしまう。

 少し視点をひくと、少し前に書いたように例えば50点一緒に描くなら、50点で一つというような描きかたをする。ここでも一つ一つ仕上げるということは極力しない。理想的に言うなら一日の仕事は50点全てに手が入っているというのがいいのじゃないかな。まぁ多分そんなふうには描けないとは思うけれど、スタンス的にはそんな感じではないだろうか。

 個展会場の展示も同じだと思う。必ず全体を見て色や大きさをそろえるのではなく、ある種の「ランダムな統一」ということを考える。例えば色味を考えると、地塗りの時に主調色、中間色、反対色と5;3:2ぐらいの割合でほどこした訳だから、個展会場もそんな感じで配分するようにする。これはあまり気にする人は少ないのだけれど、大事な事ではないだろうか。

 次に自分の一生を考える。自分の人生全体でどれほどの作品を作る事ができるのか、あまり深刻には考えてはいないのだけれど、長くても多分あと2、30年ぐらいのものだ。ここでも全体で一つという考え方でゆくと、私の絵は半ば過ぎを描いているところだろうか。まだまだ仕上げてはならない。まだまだたどり着く先は見えない。そんな状態だろうか。

 やっぱり「フラクタクルの理論」だな。小さく小さく考えても、大きく大きく考えても結局全てが自分で出来ている。だから一日のうちにその人の一生がみえる。




小山晃「よせばよかったのに」部分
「小山晃・翠芳 絵と書二人展」
8/15~20

「青樹会展」
8/15~20

山梨県立美術館

*やっぱり年寄り(失礼)の自画像はいいなぁ・・
ちょっと上手すぎるか?
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