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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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小山晃「よせばよかったのに」部分
「小山晃・翠芳 絵と書二人展」
8/15~20

「青樹会展」
8/15~20

山梨県立美術館

*やっぱり年寄り(失礼)の自画像はいいなぁ・・
ちょっと上手すぎるか?
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はる 3705
 かなり仕事が進んできた。でもまだ半分か。

 この間の続き。考えながら書くので、つじつまが合わなくても御容赦願います。

 人の頭の中というのも針穴みたいなものじゃないかな。というのは始めは世界は極小さいものだった。知っている世界が小さいから当然理解する世界も小さい。多分母親と父親と兄弟、その他大勢となる。だから理解できる宇宙観(あればの話だけれど)もその程度のものだ。

 それが色々な知識をつけるにしたがって世界がどんどん広がってゆく。目で見るというだけではなくて、本を読んだり人と話したり、聞いたりすることで世界は飛躍的に広がってゆく。得た知識、外界から入ってくる情報でもって世界観が構築されてゆく。

 針穴写真が小さいピンホールから外界の光を取り込んで映像を結ぶように、我々の世界観というのも外界のあらゆる刺激を受け入れて作られるものだ。世界観はその人の身の丈以上にはならない。

 私が宇宙の果てを空想するとすると、実際には永遠に届かないはるかかなたであっても簡単にたどり着ける。一瞬のうちに私は宇宙の最果ての地にたたずんでいる。ここのところが面白い。実は宇宙は私の頭の中にあって、針穴写真機を夜空に向けたのと同じではないか。見えないけれど宇宙の最果ては確かに写っているのだ。

 こんな事を考えるのは実は絵画というのも同じではないかと思うんだな。あるものを再現するのではない。私の頭の中にある宇宙観みたいなものを、自分の目と手を使って再構築してゆく。それは多分この宇宙の成り立ちと同じ理で出来ている。私の中に宇宙があるように、今度は絵の中に宇宙を再現するということではないか。

 次はその具体的な方法を書いてみたい。まぁ今までの繰り返しになるけれどね。興味ありますか?



 
はる 3703
 一つ一つの絵もそうなんだけれど、50点いま同時進行で描き進めているとすれば全部が同じ程度に進んでゆく。50点が大きな一つの作品として進んでゆく、そんな描き方をするということかな。けっして一つ一つ仕上げては行かない。

 だから最初は何が描かれているのか、まるっきり分らない。ほぼいたずらがきに近い状態。で段々に姿かたちが現れて来る。上の絵は私の前を何回か行ったり来たりした過程で、少し形が見えてきた状態。マリアさんかな、それとひざまずいた人とそれを見守る人、の三人のひとがた。ひとまずそんなとこで置いておく。そのまま仕上がりになることはまずないだろう。でもここらあたりが一番面白いかもしれない。

 ちょっと話が飛躍する。

 針穴写真の原理を頭の中で想像する。針穴を通して世界が反転した状態で暗箱の壁に像を結ぶわけだ。そこにフィルムがあれば焼き付けられる。見えてはいなけれど、その暗箱のなかには外界の全てが凝縮された状態で詰め込まれている。もし、誰もいない真夜中に空にその針穴を向けたとすれば、遠い遠い宇宙の果てまでそこには写っているはずだ。

 我々の知っている宇宙は無限の広がりを持っているのだけれど、認知できる宇宙は多分針穴からのぞいた世界と同じようなものでないかと思えてくる。そう考えると無限だと感じていた宇宙が高々その暗箱の中に存在する宇宙と同じようなものだろう。

 人の一生というのも例えばそんな針穴からのぞいて見たのと同じようなものだとは考えられないかな。みんな自分が主人公だと思ってはいるけれど、実際の話たった一本の針穴活動写真でしかない。人類いや世界そのものが針穴写真のなかにある幻のようなものだ。

 話が分らない方向に進んできた。言いたい事は分ってはいるのだが、うまいぐあいに言葉にならない。このことはまた考えたい。今日は眠い。
長谷川きよし 死んだ男の残したものは




 
はる 3702
 いつの間にやら、カウントは三千七百を越えた。どこまで伸ばせるのかね、楽しみでもある。

 長谷川きよしの歌唱力もあるのだが、この時期この歌は切実に訴えかけるものがある。我々はとんでもないものを残してしまったなぁ・・。

   死んだ男の残したものは
谷川俊太郎作詞・武満徹作曲

1.
死んだ男の残したものは
ひとりの妻とひとりの子ども
他には何も残さなかった
墓石ひとつ残さなかった

2.
死んだ女の残したものは
しおれた花とひとりの子ども
他には何も残さなかった
着もの一枚残さなかった

3.
死んだ子どもの残したものは
ねじれた脚と乾いた涙
他には何も残さなかった
思い出ひとつ残さなかった

4.
死んだ兵士の残したものは
こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残せなかった
平和ひとつ残せなかった

5.
死んだかれらの残したものは
生きてるわたし生きてるあなた
他には誰も残っていない
他には誰も残っていない

6.
死んだ歴史の残したものは
輝く今日とまた来るあした
他には何も残っていない
他には何も残っていない


 


Bamboleo - Gipsy Kings




Gipsy Kings - Djobi Djoba



山梨県立美術館県民ギャラリー
グループWOW
8/9~14




8/11 今朝の朝日新聞の記事
五ヶ月もたってこんな地図を出してきて恥ずかしくないか。
 

3/12の段階で自分で風向きなどを調べて警告していた人がいた。

http://minkara.carview.co.jp/userid/709167/blog/21758633/
p2m.jpg


3/11以降のブログ
 
http://minkara.carview.co.jp/userid/709167/blog/p25/

今朝の新聞を見ていて驚いた。3/13から14に放射能がどう広がって行ったか分析して、さも重大事項を発表したかのように掲載されていた。遅い。あまりにも遅い。今頃こんな分析をしても全く意味がない。学生の夏休みの宿題でもあるまいに。台風なら事前にコースを予想して発表するでしょう。それなのに当時何も発表しなかったのは怠慢といわれてもしかたないでしょう。いや、怠慢どころの話ではなく、自らの使命が終わった事を意味する。

 それに比べて、上のブログは素人ですが、誠に臨場感あふれる警告をつねに発していた。当時このブログがあまりにも先見性があるために、不安を煽りすぎるということでどこからの警告が入ったようだ。そのために炎上してブログを止めてしまった。今から振り返ると、間違っていたところもあるけれど、大体が正しいようだ。

 素人でさえこれだけの警告が出来るのであるから、後の祭りだけれどもっと事前に準備して警告を発していれば、例えば学校の運動場や畑や田んぼに一時的にシートを被せるとか、子供たちをすぐに避難させるとかできたはずだ。

 今頃になって除せんだ、洗い流しだ、運動場の土の入れ替えだ、農作物の流通を止めるなどと騒いでいるのは、怠慢いがいないなぁ。



 
はる 3699
 朝六時半ぐらいに起きて、すこし川沿いを散歩する。朝方はうっすらと雲がかかって比較的に歩きやすかった。これが朝からピーカンだと、日中はもう地獄のように暑くなる。そうそう、草むらではもう虫が鳴いていた。季節は確実に秋に向っているようだ。

 涼しい午前中に一仕事する。午後からはとても仕事する気にはなれない。ほぼ裸に近い格好でアトリエの床にへたり込んでいる。髪は暑いので夏休み中はちょんまげにしている。でもなぁあまりきつく縛ると、前頭部があやしい・・。

 仕事の仕方は人によって色々だろう。私の仕事の仕方は少し変っている。どう変っているかを少し書いてみる。

 一度に描ける枚数は60から80枚ぐらい。そのくらいのパネルをまず用意する。それも出来るだけ色んな大きさのパネルをランダムにそろえる。

 地塗りはとても大切で、私の場合これに半分の以上の時間をかける。これも出来るだけランダムになるように工夫する。地塗りの全体の比率は赤が5で黄が3で青が2ぐらい。だから6全体が60枚だと、赤系統の地塗りは30枚前後となる。ある程度意識して地塗りしないと、全てが同じ機械的な作業になってしまう。

 地塗りに合わせてというのか、感覚的にだけれど布をコラージュする。ここでは出来るだけ色々な厚みの布を用意する。麻袋などは面白い効果が後で出て来るので出来るだけ最初の頃に貼り付けておく。ある程度マチエールが出来てくるとコラージュするのが難しくなる。

 何回か全体というのか、これはとても大切なことなんだけれど、一つ一つ仕上げるのではなく60枚全体を一つの作品のように考えてすすめて行く。これが面白いというのか、私の独特な描き方ではないだろうか。だから一つの作品は何回も私の前を通り過ぎてゆく。そのたびに少しずつ手が入ってゆく。面白くない作品はどんどん上から絵の具が塗りこまれたり、たらし込まれたりする。そのうちにまた布が貼りこまれたりする。何かが見えるまで、面白いと思うまで、続く。

 ここが「セザンヌの塗り残し技法」だと思う。「フラクタクルの理論」かな。一つ一つの作品もそんなにこだわらないで描いて行く。一つは全体の中の一部分でしかない。ちょっと理屈っぽいかもしれないが、結局は同じ一つの理屈で成り立たせるということなんだけれど、ちょっと上手く書けない。

 簡単に言ってしまえば「部分は全体の中の一部分である」ということかな。また書きます。



 
 宮崎駿と吾郎のテレビを観る。テレビはめったに見ないが、こういったドキュメントはテレビの真骨頂だな。「時代の気分」というものを感じた。

 親父さんの言葉「時代が平和で夢見ているような時に、終末を描くことはロマンがあった。けれど今、みんなが傷ついた時にどんなロマンが語れるか、それが問われている」

 それにしても親子で同じ土俵で競うのは難しいというのか、ほとんど無理だな。どうしても比べてしまう。少しくらい良くてもだれも評価してくれない。圧倒的に良くなければ、消えてしまうだろう。

 閑話休題
 昔はそれなりにアートフェアなど多少興味があった。知らない人には全く興味がないだろうけれど、アートフェアというのは、例えば東京ならこんなのがあった。
http://www.artfairtokyo.com/
 簡単にいえば画廊の見本市みたいなもので、世界中の画廊がある期間、ある場所で集まって自分のお抱え画家などを披露するお祭りかな。まぁここで扱われるようになれば一応世界のマーケットに参加したというわけで、それぞれの画廊が一押しの作家を紹介するわけだ。

 良く知らない頃は、なんとかチャンスを作ってこういった一流?の画廊に扱われる作家になりたいものだと考えていた。作家になって食べてゆくというのはそういうことなんだと、かってに解釈していた。

 まぁ、間違えてはいないかもしれないが、それを望むのであれば他の仕事をした方がいいようにも思う。はっきり言ってこういったフェアはビジネスの世界のはなしで、全てとは言わないけれどどことなく胡散臭いものを感じるのは私だけかな。

 一枚の現存する作家の絵が大きさにもよるのだろうけれど、何千万、何億などという金額はどう考えてもおかしい。絵そのものの価値というより投機的な意味合いでしかない。昔バブル華々しい頃銀座では良く一枚何億などという話が飛び交っていたいたけれど、それはもうまともな感覚ではない。いずれ誰かがババをひくことになる。

 大衆というのはいつもスターを望んでいるものだ。今誰が人気があって、流行っていて、良くテレビで見かけるとか・・いったい絵とは何ですかね?絵の本質からどんどん離れてゆく。

 「美は発見である」=自分自身を投影したもの、出来るもの。それが自分にとっていい絵なんでしょう。他の人がどう評価しようが関係ない。自分のモノサシをしっかりもって、いい絵を見つけて下さい。それが今の貴方の姿なんですな。
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