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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 昨年から縁があって自分の子供たちぐらいの若いアーティストと街中で遊んでいる。実際の話彼らがやっている事、やらんとしている意味が良くは分っていない。「あの有名な・・・」といわれても全く聞いた事も、見たこともないような奇妙な輩が、ガラクタを集めて即興的に何かをやっているという事しか分らん。あれで食べていけるのか?とおじさんは心配してしまう。もっとも彼らにとってはそれで食べるとかサクセスするなどという発想は元々ないのだろうな・・そこのところでもうギャップを感じてしまう。

 私は何度かこの場でお知らせしているように、街中のカフェでほぼ一ヶ月という長期にわたって作品を展示している。これは一年前から続いている企画で、昨年のまちなか芸術祭をきっかけにバールスローの石原さんの快諾を得て何人かの作家をほぼ一ヶ月間の個展という形で紹介してきた。私の紹介という形はこれで終りにしますが、引き続いて展示の計画もあるようなので、どうぞ参考作品か作品ファイルを持って石原さんにそうだんしてみて下さい。

 バールスロー ここです。 

 画廊という商売を考えれば、こんな人が行き交う事が少なくなった街中では経営はなりたたない。今甲府の町で画廊と言われるスペースが一体どれだけあるだろう。画廊は空きスペースがあるからと簡単に考えて始める人が多いけれど、見た目ほど気楽な商売ではない。

 例えば街中の画廊に絵が飾られていたとして、いったい何人の人がゆっくり絵を見てくれるだろう。絵を身近なものとして鑑賞する生活習慣がわれわれにあるのかということだな。確かに絵を描く人は比較的に多いのだけれど、それを観る、鑑賞するという姿勢はできていないように思うな。

 まぁ私自身も偉そうな事は言えないのだけれど、我々がどうして人の作品を鑑賞するのが上手くないのかを少し考えてみる。

 趣味として書く欄に「絵画鑑賞」とか「映画鑑賞」などと書くとまぁ比較的上品な趣味として可もなく不可かもなしといったところなんだが、ここで言う鑑賞は「ただ見る、眺める、娯楽」といった意味だな。「好きだ、嫌いだ、面白い、面白くない」そんな程度の事だ。普通はそれで終了、終わってしまっても誰からも非難されないし、いい趣味ですねで終わってしまう。

 でもそれで終わってしまったのでは何も観ていない、聴いていない、感じていないのと同じなのではないかな。少し前にクロッキーのところで書いたけれど、物を見るとか、感じるとか、聴くというのは「はっきり意識して聴く、観る、感じる」という姿勢が必要なのではないか。我々に抜けている、教えられてこなかったのはそういうはっきりした姿勢ではないのかな。

 そういった姿勢がどうすれば養われるかということなんだけれど、多分「言葉にする」という客観的な作業が必要なのではないだろうか。「言葉にする」事によって「今自分はこのことを意識した、聴いた、観た、感じた」ということを五体に響かすことができるのではないかな。

 ただ面白かったというだけではなしに、何故それが面白いと感じたのか、そのどこに面白さを感じたのか、それを面白いとおもった自分を知りたい。その事によって自然に自分の中にある種の「ものさし」ができるように思う。結局のところ「源泉オリジンへの旅」につながってゆくのだ。
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はる 3741
 昨日のうちに早々授業のカットが決まって、突然幸せな休日になった。といっても我々パートタイム教師は授業をやらないと給料が減るという「嬉しくてやがて悲しき」状態ではある。それでも臨時休暇は得した気持ちになるから不思議なものだ。

 午後から風や雨が激しくなってきて、午後4時ごろは甲府を通過したらしい。久しぶりの台風の直撃だが、やっぱりお山に守られているのか、神戸で経験した第二室戸台風とは比べ物にならないものだった。勢力はけっこう大きかったんだが、ここはあまり風も吹かなかった。冬の空風でもあのぐらいの事がよくある。

 それに比べて雨はけっこう凄いものだった。川が近くを流れているので、もし氾濫ということになったら、まず今あるアトリエの絵を二階に運ばなければ個展が出来ないなぁ・・などと考えていた。実際はそんな事にはならなかったので取り越し苦労に終わってよかった。

 あと情報取得のためテレビを久しぶりに観た。どうでもいいような、同じようなことをどこのチャンネルでも何度も何度も繰り返しているだけであきれるなぁ。台風ならこんなに詳しく報道するのに、本当に必要な情報はほとんど誰かに遠慮して言わない。日本のマスコミはすごく偏向しているように思う。NHKでさえそうなんだから、民放はスポンサーが手綱を握っているから、推して知るべしだ。

 少し勘違いしていたところがあるのだが、新聞やテレビやラジオなど大手のマスコミはどうやってもその今の体制側(今現在力を持っている側)が握っているわけだから、体制批判てきなことは出来ない、やりづらいわけだ。それを天の公器のような顔をして、あくまでも公平な立場で物を言っているように言うのは間違っている。

 まぁそう考える何を信じて判断すればいいのか分らなくなってしまうのだが、まぁ何にしても絶対と言うものはなくて是があれば必ず非があるわけだ。だからある意味ネットのように玉石混合で何でもあって、ごちゃ混ぜの情報のなかから自分のモノサシで選んで判断すると言うのが正しいのかもしれない。誰かの目を通したものはどうしてもその色が付いているわけで、現場に行って実際に見聞きできないのであるならば、色んな雑多な情報が雑多な状態で入る方が正しいのかもしれないな。嘘も多いけど。まず疑ってかかった方がいいのかもね。

 台風で原発はどうなったのか、どこのテレビも報道していないぞ。



 
はる 3739
 こんばんは。反原発のデモはどうだったのでしょう。行けなかったので、ブログで反対のメッセージをおくります。
 「原発は緩やかに廃止、太陽光発電やその他自然エネルギーの研究や普及にその予算をつぎ込むこと」

 「小さな国、少ない国民、不便な道具でも大きな国に負けない、素晴らしい文化を持って、ゆっくり丁寧に誇りを持って生きてゆけるんだということを世界にアピールすること」

 
 

思案暮れる
SM
 今年はこれを甲府のDMに使おうかと考えている。まだ決定ではないけれど、何となく気に入っている。たくさんの小品のなかで、なぜ?これを選んだのか。明確な理由があるわけではない。タイトルも気に入っている。ちょうど今の私たちの気分を言いえていないかね。「しあんくれーる」

 「こえをきく」「遠い記憶」と続いてきて、次のテーマは何がいいかな?と考えていた。まぁテーマと言ってもそれに沿って作品を描いているわけではないので、凄くあいまいなものなんだけれど、一応その時の自分なりのメッセージを含んでいるように思うんだな。一年かけて各地を回るわけだし、あまり場違いであってもいけないしな。

 昨日も書いたけれど今回は「日々礼賛」にしようかと思っている。この言葉にはいろんな意味が含まれているように思う。勿論「こえをきく」「遠い記憶」の作家としての姿勢は変らないのだけれど、何かが少し違うように思う。もう元には戻れないのだな、それは震災と原発のことがあるからだ。直接的には震災の事は描かないし、説明もしないけれど、この日々が大切だと感じたのは「何気ない日々が奪われた」という事実があるからだ。

 声高に○○賛成、××反対とプロパガンダすることが絵画として効果的だとは思わない。私がやりたい方法はそういうことではなく、普通に淡々と生活している私たちが気がつかないうちに影響されている、そんな事を気付かせること。見えないことや聞こえなかったものを見せたり、聞かせたりすることではないかなと思っている。

 まぁそれは特に今に限った話ではなく、づっと続いてきたテーマの一つの切り方でしかないのだけれどね。 




小林宏 個展
2011 9/18~25
21日休み
ギャラリーイノセント
甲府市丸の内2-12-3
TEL 055-222-4402 




深沢弘昭個展
2011 9/17~9/25
11:00~18;00
三彩洞
甲府市貢川1-1-12
055-226-8393
はる 3737
 「日々礼賛」 下書き

 私事ですが、今年二月にお袋を見送りました。それに来年四月で亡くなった親父の年を越えます。それがどうしたと言われればこまるのですが、これからの20年をどう生きるのかと考える節目にはなりました。

 三月には信じられないようなことが起きてしまいました。ごく普通に暮らしてきた何気ない日常が、突如断ち切られて明日からはもうないという、そんな日が来ることがなかなか信じられませんでした。深い悲しみと不安と怒りが今も消えません。

 何気ない日常がいかに大切でいとおしい事か、そんなことを痛切に感じた一年でした。

「日々礼賛」は私の造語です。種を明かせば谷崎潤一郎の「陰影礼讃」からとりました。今を生きる私だから当然震災のことも頭の片隅にありました。けれどその事を直接的には表現したいとは勿論考えていません。私なりの意味は「何気ない日々がすべて」という気持ちをこめたつもりです。

 祈りと懺悔と感謝、それらが表現出来たかどうかわかりませんが、今年もまたそんな作品を並べます。御来廊こころよりお待ちしております。



 
 カマキリの共食いを見た。食われていたのはオスだったのかな。自然は無駄がない、けれど苛酷だな。



 
くだらない時代小説が好きで、いつも懐に文庫本をしのばせている。テレビや映画と違っていつでもどこでもホンの少しの時間でも読むことができるので、時間つぶしにはもってこいである。普段の生活の中にはけっこう細切れの捨て時間というものがあって、何かをやるには足りないけれど、ただ漫然と過ごすにはもったいないという時間が多い。例えばちょっと買い物に付き合って車で待っている時間とか、ご飯を食べて満腹になって少しごろんと寝転んだ時とか、夜寝る前のまどろみ前の数分とかね。

 こんな楽しみを発見したのは最近の事だな。もっと昔子供の頃から読書の楽しみを知っていたら、もっと違った人生だったかもしれないな。すこし損した気分。

 そんな馬鹿小説でもところどころいい言葉がある。まぁあまり書き留めることもないのだけれど、下の「善人は不善人の師、不善人は善人の資」という言葉に何かを感じた。前半の「善人は不善人の師」これは分る、でも後半の「不善人は善人の資」って何だと思った。まぁ元々は老子のはなしだそうだから、どこか人を食ったようなたとえ話なんだろうけれどね。

 その「天秤」をもった女性のタイトルを考えていた。昔からこの天秤というのは「善悪のはかり」と言う意味で象徴的に用いられることが多い。最後の審判ではないけれど、人生の最後に今までやってきたいいこと悪いことを推し量られて天国に行く人と地獄に落ちる人がジャッジされる、そんな意味かな。

 んでまぁ、完全に善だけの人なんているのかな、反対に悪だけの人というのもいないのじゃないか。いいと思った行為も違う面から見れば悪だったということもあるわけで、反対に最悪だとおもったことも、取り方にによれば良かったということもある。

 善と悪は表裏一体のもので、必ず両面あるんだな。だから簡単にこれは善、あれは悪とは決め付けられないということだな。「不善人は善人の資」というのはそのことを言っているんだと思ったわけだ。
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