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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 「猫の後ろ姿」さんに千葉の山口画廊の個展を紹介してもらいました。ありがとうございました。
 http://ameblo.jp/e-no4765/entry-10948323627.html

  審査にでていつも思う事は、まぁそれが当たり前といえばその通りなんだけれど、微妙にずれている。特に多数決で物事が決まってゆく過程で、どこかが微妙にずれてゆく。

 例えば優れた作品を一点だけ選ぶといった場合、多くの場合最高でも5票とか6票とかそんな程度で、後はそれほど差のない得票差が延々と続く。もちろんダントツに素晴らしいものがあれば別だけれど、押しなべてどんぐりの背比べだった場合、それが顕著に表れる。その年の代表作と言うものが審査員の5、6名の支持を得た程度のものであれば、それは代表作とはいえない。

 反対に連名で複数の作品を選んだ場合、特に後の方には無難などうでもいいような作品が選ぶ。そうすると結果として多くの得票を得るのが、その多くの人が最後にぎりぎりで入れたような無難な、悪くすると最悪な作品が選ばれてしまう。

 それでも、多くの人に支持された事には違いないということで、そのままそれが最高賞だったりする。なんであれが選ばれるの?と審査員の多くは不思議に思うわけだ。だれも積極的に一番に推したわけでもない作品が、結果的に選ばれてしまうというマジックが行われてしまうのだ。

 審査員制度をつくって何人かが選んだとしても、やっぱり最終的にはどこか微妙にずれる。審査員が作家だった場合、かなり偏向した眼で選ばれてしまうし、評論家などの場合、実際に作品を作るわけではないので、それもまた頭でっかちで、素直に聞けないところがある。明らかに時代の風みたいなものも影響する。

 まぁ結論めいたことになるのだけれど、結局はどう決めても決定的なものはない。人が選ぶ限り絶対というものはない。反対に言えば、そんなものは決められないといった方がいいかな。どう決めても結局は確かなものではない。一時の慰め、気の迷いにはなるけれど、全人生を賭けるほどのものじゃない。それのために方向を見失ってはならないということか。

 不特定多数の支持を得るよりも、もっと大切なのは結局は個々人の圧倒的な支持をえることで、絵を描いてなんとか暮らして行こうと考えたなら、その事の方がどれだけ大切かということだ。コンクールで受賞してもそれはその一時に過ぎない。時代の風を受けて何となく一世を風靡したように惑わされるのだけれど、案外すぐに忘れられてしまう。本当に根強いのは個人の支持をたくさん持つことだと思う。そこで得た支持というものは決して古くはならない。

 絵描きの場合、それは個展という形で、じっくりゆっくり休まず繰り返して観てもらうしかない。そういった地味な活動をしてゆく事の方が、コンクールで一発世の中に認められるという方法を取るより確かではないかと思ったんだな。で、97年以降はコンクール出品は一切やめて、年3,4回の怒涛の個展開催に切り替えた。今もそれを続けている。
 
 
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Keith Jarrett Koln Concert ~ first ten minutes

 審査というものはいつもどこか胡散臭いものを含んでいる。私自身多くの審査を受けてきたし、その結果に涙を呑んできた。何であの作品が選ばれて、私の作品じゃだめだったのか。そんな事を問うてみてもせん無い事なんだけれど、時の運、何かのちょっとしたさじ加減で大きく人生が変ってしまうこともあるわけだ。

出した以上結果を出すことを期待する。欲をかいているわけではないが、人である限り仕方ないだろう。どうでもいいなら最初っから他人の審査など受けない。

 絵で何とかしたいと切に願っていた若い頃は、世の中に受け入れられるためにはコンクールで賞を取るしかないと真剣に信じていた。だから出品できる公募には手当たり次第に出していた。今はじめて明かすのだけれど、安井賞の候補として推薦を受けた時が私にとって最後の山場だったかもしれない。結果は落選で終わってしまった。それ以降コンクールで何とかするという意欲が急速になえてしまった。

 イタリアのフィレンツェの花の大聖堂の大きなドームにしても当時の公募によって選ばれた作家が施工したというから、まぁいずれにしてもそういった選択肢しかないのかもしれない。 


 風呂に入ってきます。後書けたらまた。
 



 
 どの街にもある公募展の審査や陳列のお手伝いをする。全国公募の中央の団体展からこういった地方の公募展まで、規模の大小はあるけれど、大体が同じようなシステムで成り立っている。日本の絵画人口を支えているのはこういった団体の構成員とその予備軍だろう。まぁそういった意味ではここが最前線ではある。今年は全体的に出品者が減少した。震災の影響かもしれないな。

 私の学生の頃は、絵を描くということはこういった公募展に出品するということでもあった。目標でもあったんだな。だからまわりまわって、今は多少なりともお手伝いできればと考えている。

 疲れたので、寝ます。



 
はる 3663
 何とか復興大臣が暴言で10日ほどで辞めた。何とも情けない話だ。ちょっとだけテレビのニュースでみたけれど、確かにあの傲慢な偉そうな態度はどこで見た、どこにでもいる、嫌な野郎そのものだった。あんたはそんなに偉いのか?何様のつもりと言いたくなる。

 しかし、考えてみるとあれほど露骨ではないけれど、多かれ少なかれ上に立つ人の典型的なタイプではないだろうか。ある意味でいえばリーダーシップというものはそういったものだという風に捕らえられてはいないかな。

 まぁそれは百年前の日本がまだ開国して間もない頃で貧しく、これから西欧に負けないくらいの豊かで強い国を目指して、一致団結している時なら、それも分るしそんなリーダーが必要だったかもしれない。

 けれど今は違う。意識が違う。だれも飢えてはいないし、恵んで欲しいとも思っていない。「やってもらいたい」「してもらいたい」という意識は彼らには今ないのだな。どちらかと言えば、総意として「やらせる」という意識のほうが強いきがする。

 お上に「してもらう」ことを期待していたばかりに、今回の事故はおきた。お上は信用できない。少なくとも3.11以前より少しばかり賢くなった、自ら考えなければと思うようになってきたのではないかな。

 そうでなければ、日本は変らない。新しい人になります。
 


 
はる 3661

 千葉の山口画廊より帰宅。楽しい二日間でした。暑い中御来廊ありがとうございました。また来年おあいしましょう。

http://resonance-1111.tumblr.com/day/2011/07/04
より勝手引用
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都築 響一 Kyoichi Tsuzuki

人は、君の日常生活なんかに興味はないのだ。君の自分探しの旅や、かわいい彼女や、バアさんの臨終や、まして君の結婚式なんて誰も見たくないのだ。そういう人たちをムリヤリにでも自分の写真世界へと引きずり込むには、なにが必要なのか。それをもう少し考えてほしい。たとえば、それは卓越した技術であったり、飛びぬけた対象物であったり、思いの純度の深さであったりする。プロであるとは、そういうことだ。今日はたくさんの写真を見たが、正直言ってなんだか椅子に縛り付けられたまま、耳元でミツル(326)の詩を延々聞かされているような、イヤな気分になる時間が多かった。とにかく突き詰めていくこと。これ以上ないという地点まで。説得力はそこからしか生まれない。

キヤノン:写真新世紀|写真新世紀展2001 開催報告
(Reblogged from bryan2new

 




Arvo Part - Magnificat



大脳生理学者・ノーベル医学賞受賞
 
 このポートレイトの写真が好きでアトリエの壁にもう何年も貼ってある。この人がどんな研究をしてどんな業績を残したのかは全く知らないし、全く理解もできないだろうし、ほとんど興味もない。

 顔は作られるものだと言う気がする。長年一つの事をやり通した人間にはどこから見てもゆるぎない自信と信念のようなものがにじみ出てきて、多くの人を納得させるような顔になるようだ。

  明日、明後日と千葉の山口画廊に在廊しています。もしお時間があればお立ち寄りくださいな。


 これは現代音楽の作曲家アルボ・ペルトArvo Part の作品。深い祈りを感じる。

 
 こちらは彼の作品ではありませんが、言葉はどうやらラテン語に似せた造語らしい。グレゴリア聖歌のようでもあり、どこか不安を掻き立てるようにも感じるな。



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