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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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日々礼賛
「猫の後ろ姿」さんの「日々礼賛」考察
http://ameblo.jp/e-no4765/entry-11015362464.html

はる 3732
 例えばこの最近作である「日々礼賛」タイトルはもちろん一番最後に考えた。日々礼賛は私の造語かな、もともと日本語の四文字熟語にはない。種を明かせば谷崎潤一郎の「陰影礼讃」  から盗んだ。私なりの意味は「猫の後ろ姿」さんが書いていたように「何気ない日常が全て」という気持ちをこめたつもり。

 最初に真ん中の帽子を被った爺さんが登場した。この人は司祭のような服と帽子を被っている。杖をついて顔の表情は定かではないが、何となく過ぎてしまった過去を回顧して満足げにうなずいている。少しぼけてしまったようにもみえる。この司祭の帽子の姿は船越保武のダミアン神父の像がちらっと頭をかすめた。

 これをこういう絵にしたいと思って描き出したわけではない。描いているうちに色んな情景や今まで影響を受けた絵とか文章とか映画とかがどんどん思い出されてぐるぐると巡ってゆく。今を生きる私だから当然震災のことも頭の片隅にあっただろう、けれどその事を直接的には表現したいとは勿論考えていない。

 今年二月にお袋を見送った。それに今年で亡くなった親父の年を越える。それがどうということもないのだけれど、これからの20年をどう生きるかと言う風な事も考えるきっかけにはなった気がする。

 「平均律」が外からの影響でモチベーションで描きすすめてきたのに比べて、この「日々礼賛」は中からにじみ出て来たもので出来ている。より私自身に近づいているように思うのだな。みんな気付く気付かないはあるけれど、そういった核になるものを持っていると思うんだな。それを源泉=オリジンという。絵を描いたり文章を書いたり、する事でそんなものを探っているのではなかろうか。



 
はる 3731
 「平均律」と「ボヘミアン」の違いについて、続きを書きましょう。例によって思いついたまま書き進めるので、つじつまはあわないかもしれませんがあしからず。

 「平均律」は言ってみれば外からの色々な条件で出来上がっている。どういうことかといえば、例えば絵を描く動機自身がコンクールのためであったり、公募展でいい評価を得たいというスケベ根性が根底にあったり。例えば、和風な雰囲気を取り込みたいと言うのは自分の欲求というより、どちらかと言えば日本人であるならこうあらねばという義務感のようなもので、西洋に対抗するなら東洋的な手法を取り入れるべきだ・・とか。構図は源氏絵巻などの吹き抜け屋台風に斜め45度あたりから眺めた目線にするとか・・頭でっかちに色々考えてそうしたこうあるべきだと言うような考え方で出来ているように思う。規制する条件はほとんどがこうあるべきという幼稚だけれど理論で組み合わされている。今考えると誠に浅はかだけれど、まぁ仕方ないな。そんなところも私なんだから。

 大体において私は理屈家で、原理原則のようなものが好きだ。予定外の事に臨機応変に対応する事が苦手である。だから本当は公務員のように毎日決まりきった仕事を淡々とこなしてゆく方が性分に合っているのかもしれない。

 それに反して、「ボヘミアン」はほとんど何も規制するものがない。でたらめに絵の具やコラージュをして、その中から浮かんで来たイメージを妄想をたくましくして話を作っている。だから中から出てくるのを待つというまぁ他力本願のようなところがあるけれど、積極的には私は絵を描いていない。

 またもう少し書くかな。眠くなったので寝ます。



 
「猫の後ろ姿」さんがバールスローの記事を書いてくれました。
 http://ameblo.jp/e-no4765/entry-11013266276.html

 ちょうど二階で彼の主催する「猫町古本市」を開催しています。取り残されたようなボッコイビルですが、甲府の街中では一番文化度の高いところです。是非一度足を運んでください。
 http://ameblo.jp/e-no4765/entry-11007796167.html

 



 
はる 3729
 「平均律」と今の絵、例えば「ぼへみあん」の間にはかなりの違いがある。下手すれば同じ作者の作品ではないとさえ見える。時間的には20年ある。作家にとって40台から60までというのはすごく大事な、その人の根幹を作る時間である気がする。自分で言うのも傲慢だけれどね。まぁ客観的に考えたいので許してくださいな。

 大きく異なるのは画材が違う。平均律は油彩であり「ぼへみあん」は色々な材料をつかった混成技法で作られている。これは画材だけの問題ではなくて、作品の作り方、元々の発想そのものが違うということを意味する。

 平均律を描いていた当時、一番考えていたことはコンクールで賞を取るということだった。そのためには当時流行っていた技法やスタイルを出来るだけ吸収して自分なりに応用して作品に生かす事、そんな事ばかりを考えていた。

 当時流行っていた主流の考え方は、「日本人である我々が何故洋画をかいているのか」という根本的な疑問だな。今もってその事を考えることなくヨーロッパの街角をそれ風に描いている作家も多いけれど、考えてみると不思議な話で、我々の先祖からのDNAで素晴らしいものは海を渡ってやってくるという舶来崇拝意識がなせる業かもしれない。

 そんな反省に立って材料を徹底して研究し始めた。各美大の材料研究はこの時代から始まったのではないかな。油彩画はもちろん、その前のフレスコからテンペラ、画溶液からキャンバスに至るまで徹底して解体して組みなおし始めた。

 作品のテーマも西欧からの借り物でない日本の古典から取るというのが新しいような気がしていた。今見ると多くの人が昔からそんなことをやっていたんだけれど、当時はうんと新しい気でいた。

 今から考えるとうわべの形やスタイルばかりが目立って、肝心な表現がお留守になっているきらいはあるけれど、まぁ当時はそこまでしか行けなかったのだ。

 つづく、かな?



 
 はる 3728
 今日は庭木の剪定に来てもらった。今までは自分でやっていたのだけれど、大きくなりすぎた枝がニ階の屋根を越えて覆いはじめた。それと隣の境もあやふやになって迷惑を掛けている。普通なら届く梯子でもそろそろ私では無理になってきた。手入れしない雑木林風が好きなんだけれど、ここまで大きくなると手に負えない。隣家に植木屋さんが来たので、ついでに頼んだ。

 和風に刈り込んだ庭木は好きではない。盆栽風に去勢されたような松など哀れなものだ。植木屋さんに頼むとどうにもそんな風に刈り込んでしまうので、困ったものだ。だからお任せにはしないでずっと付き合って見ていた。というわけで疲れました。



 
「犬. 馬. 難. 鬼. 魅. 易.」だれの言葉か知りませんが、画家・松田正平が好んで書いた言葉です。想像上の鬼は描くのは容易いが、誰でも見たことがある犬は難しいという意味らしいのですが、ワザとらしいテクニックを使ったあざといものは眼を惹きますが、本当は何気ない日常にこそ真実が隠れているように思います。

 
 
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はる 3725
 「平均律」はもう20年も前の絵になる。今見るとなけなしのワザを精一杯使って、一生懸命がんばって描いているということが見て取れる。まだまだ若いから一発狙いの魂胆が丸見えだ。でもまぁそういった時期も必要なんだと思う。時代はバブルの真っ最中で、皆がみな浮かれているような世相だった。

 油絵でありながらどうにか日本の古典的な雰囲気を取り込みたいというふうに考えていた。日本画的な描き方で下絵をしっかり作って拡大コピーを使って顔などはトレースした覚えがある。この女性の顔は全くのオリジナルでどこかにモデルがいるわけではない。体もたくさんの写真などの資料を用意して色んなモデルさんの寄せ集めで出来ている。そうだ、ピアノは楽器屋さんのカタログから盗んだ記憶がある。そっくりそのままではなく、解体してアレンジしているから盗用ではないだろう。

 全体の雰囲気、構図は源氏絵巻から盗んでいる。勢いのある線は源氏絵巻の十二単の輪郭そのものを真似した。今回探してみたけれど、どれを真似したのか見つけることが出来なかったけれど、上の絵に近いところもあるな。

 和洋折衷で画材そのものは西洋のものを使いながら、表現は日本の個展から盗んで、テーマはまた西欧の古典音楽から取っている。まぁ平均律は現代音楽にも通用するから古典ともいえないけれど、当時はバッハの平均律を意識していた。こういった作り絵はやってみて面白かった。

 前にも書いたけれど、ただ絵を描いて何をどうしたいのか、皆目分らなくなっていた。みんなが通る道だと思うのだけれど、少しは絵が描けるようになって、さてこれからどうするんだと考えた時にはたと困ってしまった。表現すべきものが見つからないのだ。リンゴならリンゴを描けと言われれば描く事は出来るだろう。でいったいリンゴで何を言うのか、そこのところは誰も教えてくれない。

 絵画史はアンフォルメルから抽象になってそこからは色々ありすぎて難しくて理解不能。その時に思ったのは、絵の中に小さいけれど物語があれば絵を描く動機にはなるのじゃないか。こう何か物語の挿絵ではないけれど、美術史は絵画に文学を持ち込むことを否定したけれど、本当は多くの人は絵に物語を期待しているのではないかと思ったんだな。まぁ当時は明確には分っていなかったと思うけれどね。

 まぁそこから油彩の材料も捨ててしまうことになるのだから、面白い。
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