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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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猫町古本市
時  2011年9月10日(土)、11日(日)、12日(月)

 

  所  cocochi(ココチ)  
〒400-0031  甲府市丸の内1-19-21  2F
      電話 055-287-8619

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こうふのまちの芸術祭

榎並和春個展
「遠い記憶」番外
9/4~10/2
バールスロー
〒400-0031 
山梨県甲府市丸の内1‐19‐21
TEL/FAX 055-226-8625

営業時間  
火~金   12:00~22:00(L.O.21:00)
土、日、祝日 12:00~18:00(L.O.17:30)
定休日 月曜日
 
 まぁ今更何を言っても遅すぎなんだけれど、我々の何がこんな結果を招いたのか、そのことを充分に考える必要はあると思う。まぁ特に我々日本人だけが特別安全について考えてこなかったわけではないだろう。原発をもつほとんどの国はおおかた「原発は安全だ」という建前で勧めてきたのだろうと思われる。まさかこんなことになるとはやっぱり想像できなかった、したくなかった、のではないかな。非常に無責任だけど、多くの関係者は出来たら何事もなく、その任期を終える事だけをしっかり考えていたのだと思う。

 事故が起きてからの役人とかその電力会社のトップの対応の仕方は絵に描いたような官僚的な、エリート集団の無責任ぶりと自己保身ぶりと無能ぶりをさらけ出したようにみえる。まぁこれもあちらが悪い、こちらが悪いと言っても立場が変れば多分自分たちも同じ事をしていたのではないかな。その事で個人を糾弾してもあまり意味はないだろう。

 私たちの大きな思考の一部に「阿吽の呼吸」というのがある。いい面で使えば以心伝心、何も言わないでも分かり合える仲間、そんな感じで使われるのだけれど、例えば今回のマスコミの対応などを見ていても、どこにも独自の視点と言うのが感じられない。大きな事件や事故が起きた場合、意見が大同団結を何となく求めてしまうようなところがあるのではないかな。だから大本営発表ばかりが通ってしまう。だれも反対の意見をいえなくなってしまう、そんな「空気を読む」雰囲気が出来てしまっているのではないかな。

 独自の自分の意見をいうという学習がなされていないのだ。国会の中継などを聞いても、揚げ足取りみたいなことばかで、絶対に他人の意見は行かないぞという雰囲気だ。最初から人の意見を聞くつもりなどなく、反対に相手を威嚇して馬鹿にして見下す、意見などどうでもよくて、兎に角自分の人格を相手に認めさせてねじ伏せれば弁論がたつなどと思い込んでいる。これじゃいつまでたってもまとまる話もまとまらなくなってしまう。会議など無駄だ。人の意見を聞かないのなら最初から話し合いなどしなきゃいい。

 今の日本のシステムなら何も決まらないし、何も実行できない。時間ばかりがかかって意味のない意見交換ばかりだ。本当は話し合いというのは両方のいいところを取り合ってお互いに少しずつ譲歩するってことじゃないかな。そうでなきゃ絶対にまとまらない。意味もない。

 これを契機に少し変らなきゃ、また同じ事の繰り返しだ。


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その1

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その2
 よけいなお世話をしてみましょう。昨日のクロッキーで実際に眼はどう見たのか、そんな事を考えて説明しようと試みた。正しいかどうかは分りません。

 まず、その1を見てください。人物を見て画面の中にどう配置するか、体の流れはどうなのかを実際に何本か線を入れています。それそのまま体の骨組みとなります。

 頭の頂上0から描いてゆきます。次に大事なのは左肩①の位置ですね。ここが顔からどのくらい離れているのか、頭半分ぐらいと眼ではかります。①-②の傾きも大事ですね。次に乳首の位置③これがどのくらい前に出ているのか、①の位置からどのくらい下にあるのかを計ります。③を描いている時に④の位置を気にすることが大事です。

 ②-⑩の傾きは最も重要なポイントですね。これで右に少しひねった状態を下から見上げているんだと言う事を暗示します。①-②ー⑩が描けるかどうかが、このポーズを自分のものにしたかどうかの境目ですな。いずれにしろ、どんなポーズにも肝になるポイントがあって、それを上手く報告するという気持ちが大事です。自分だけ分っても絵にはならない。

 次はおへその位置⑤です。ここからは見えませんが、おへそが縦に伸びているか、横にのびているかで、お腹の状態を報告できます。今回は多分縦に少し伸びているでしょう。⑦-⑧の傾き、⑤-⑫-⑥に至る骨盤の丸みも意識します。⑧-⑨の太ももの丸み、何気ないですが、②-⑫の背骨のラインが体をぐっとそった感じを暗示します。これも大事なポイントですな。

 ⑪の位置が①からどのくらい右にずれるか、これも目分量で測ります。手の指や足の指などは省略する人もいますが,私は暗示する程度には描きます。その方が表情がでるからです。顔より手の指の方が表情があるきがしますね。

 まぁこんなところですか。余計なお世話でした。



 
はる 3718
 長年クロッキーをやってきて、ある時に一つのポイントをつかんだと思った。昨日話したことと同じ事だけれど書いてみる。つまらなければ飛ばしてくださいな。

 多くの人(絵を趣味にしている人)は絵を描く場合、上手に描こう、うまく描きたいという願望がある。で、その上手いというのはどういった絵かと言えば、兎に角写真のようにそっくり見えたまま、実物と見間違うほどに描ければそれが一番いいわけで、それ以外は二番手、三番手だと思っている。

 だから描き方として写真を撮ってそれを何等分にして拡大する、人間コピー機のように描くことが一番手っ取り早い訓練の方法だと考える。そっくりそのまま、見えたまま、何も考えずに、目をさらのようにして、コピーする。まぁそれも一つの訓練の方法ではあるでしょう。元々が写真のように描きたいというのであれば、それが一番近い方法かもしれないな。

 けれど私が考える作画の方法というのは、対象に似るとか似ないとか、上手いとか下手であるというのを一番には考えていないということだな。かといってでたらめに描けといっているわけではないのだよ。今からいうように描いて行けば、ごく自然に当然の成り行きとして似てはくるんだ。似ては来るけど対象に似ると言う事を目的にはしていないということだな。

 じゃ何を目標にしているか?ということだな。ここのところが最も重要なポイントになる。例えば普段何気なく暮らしていると、ほとんどの場合風景など見過ごしている。特に何かこころに引っかかりでもない限り、日常的には風景は特記すべき事柄ではないわけで、記憶に留まることはない。見てはいるけれど見てはいない。意識して見てはいないと言える。

 めがねをかけている人は普段はめがねの存在を忘れている。忘れるくらいでなければ邪魔になるわけで、特に意識しない限りめがねはないものとして暮らしている。ところが意識してめがねを見るとはっきり抵抗物として見えるわけで、そこのところが見ているようで見ていないということだな。ちょっと寄り道をしたかな。

 絵を描くという行為はこの「意識してみる」という事なんだということだ。で、意識しただけではだめでそれを報告しなければ、意識してみた事にはならない。その報告の結果が描かれた絵ということになる。

 例えばモデルさんは左のほうを見ている、右肩は左肩より少し下がっている、体は少し右に傾いている、体重は右に掛かっている、鼻先と足先のラインがほぼ一直線だ、・・・という風に自分で一つ一つ確認して行く行為なんだな。それが絵を描くということなんだ。結果として自然と似ては来る。けれどそれは目的ではない。

 このことを知るために実は人体クロッキーなどをしているといてもいいのじゃないかな。クロッキーも絵を描くという行為であるから絵の本道とつながっていて、結局は表現というのは自分の考えていることを如何にすれば人様にメッセージとして報告できるかということである訳だから、見えたものをどうやって「自分はこう見えました」と報告する訓練はとても大事なことのように思う。

 これが私がクロッキーで得た大事なポイントだな。お分かりいただけたでしょうかね。
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 今日は月一度のクロッキーの日。有志のメンバーは大分変ったけれど、変らずにずっと続けている人もいる。他人ことはあまり言えないけれど、長く続けたら上手くなるかといえばそうでもなくて、、基本的にはほとんど変らないように見える。こういったものには凄く最初っから上手い人というのがいて、特に訓練する事もなく上手いのだ。これは珍説だけれど、字と似ているな。字の上手い人は訓練すれば絵も上手くなると思う。

 私の字を知っている人はよく分かると思うのだが、はっきり言って滅茶苦茶下手くそだ。下手にも限度があるけれど、私の字は学校に行く前の児童の字にも負ける。しっかりまじめに真剣に書いてもグネグネと曲がってしまうし、何か全体のバランスが微妙に変である。自分で言うのだから間違いない。決して謙遜でも卑下しているわけではない。その事に劣等感もないのだから、卑下しているはずもない。

 これは訓練して上手くなるというものでもないのではないかと思うのだ。小学校の頃私の夏休みの宿題は毎日ゆっくり丁寧に百字書くという課題だった。見本を見ればそれなりに上手くはかける。でもすぐに元に戻ってしまう。

 パソコンで一番いいと思ったのは生字がそのままでない事だな。だからこうやって恥じらいもなく日記などを晒す事ができるのだ。これが生字ならとても人様に見せられたものではない。人格を疑われてしまうだろう。

 で、なぜこんな話をするかと言えば、いってみれば私の指先は持って生まれた癖を持っている。言い方を変えればハンディを元々持っているようなものだ。ところが絵に限った事でないのかもしれないが、人は何かハンディを持っているほうがより遠くへ行ける気がするんだな。もし私が神のような手を持っていたら、絵を描くのに何の苦労もしなかったら、今の手法は考え付かなかっただろうし、多分そこそこで飽きて止めてしまっただろう。これだけ飽き性なんだから・・。全ては裏表なんだな。けっしていいだけではないし、悪いことだけということもない。

 クロッキーに限らないのだけれど、絵というのは見方なんだな。私にはこう見えました、こう解釈しましたという自己報告みたいなものだ。だから見えない人には絶対に描けないのだ。多くの人はそっくりそのまま、見えたままを描くのが絵だと思っているようだけれど、見えたままそっくりに描いても、絵のようには見えるけれどそれは絵ではない。ただ機械的に写しただけなんだ。それは写真でやる事を人間の手がやっているにすぎない。だから積極的にこう見えました。こう解釈しましたという報告書を載せないと絵にはならない。

 クロッキーが面白い、曲がりなりにもここまで続いてきたのは、決して上手くはならないからだろう。無論最初に比べると格段に上手くはなっているけれど、そういう問題ではない。どんなにがんばっても私はラファエロやダビンチにはなれない。もって生まれた天性が違う。彼らは元々並々ならないほど上手だったんだ。その上に努力している。そういうのを天才というのだ。

 だらだら取りとめもないことを書いてしまった。消すのも勿体ないのでアップします。あしかえあず。



 
 はる 3716
 家の前の路地が草ぼうぼうになってきたので、朝一番の仕事で草刈をする。しかし、全部抜いてしまってはせっかくの秋の風情が無くなってしまうので、一部分ワザと残した。他人が見れば手抜きしたように見えるだろうか。

 本来雑草という草は無い。その場所に適したものだけが生き残ったわけだ。あえて種を買ってきて花壇にする必要など無いのではないかと思っている。その場に会った、自然が選んだ草花が一番美しい。この猫じゃらしも見方によればなかなかかわいらしいと思う。

話題を変えて
 それにしても今更ながらこの国の指導者層は何をしているのだろうか。この国をどこに持ってゆきたいのか、まさか潰してしまいたいわけではないだろうに。私のような市井の一人が言う事ではないのかもしれないが、全く持って不可解だ。

 マスコミも全く当てにならないと言う事が良く分った。普段ジャーナリストは報道の自由などと偉そうな事をいって、芸能人のつまらないゴシップなどをさも天下国家の一大事のように報道するけれど、一番肝心な、どうしても伝えなきゃならない、命に代えても伝えるべきことが起こった時に、報道の自由を掲げるのではなく、大本営発表しか報道しなかった。この責任は本当に重い。

 新聞もテレビもラジオもみんな政府の公の発表しか報道しなかった。それがためにどれだけ多くの国民が被曝したことか。計画停電などというとんでもない暴挙を許して、牛や馬やその他の多くの動物や命を危険に晒してしまった。昔からそうなんだろうな、今更始まったわけではないだろう。多分もしまた戦争がおきる様なことになったとしても我々は止められないと思う。

 無論彼らだけの責任ではないが、一番ものを考えて独自の判断で物を言っていい職業についている彼らの責任は大いにあると思う。世論はマスコミが作るんだよな。

 それに何だかんだ言っても、電力事業主の言いなりになってきたことが大元だ。それが国と一体になって国民に目隠しして甘い汁を吸ってきた。国策=御国のためという言葉には日本人は一番弱いからな。それにお金が絡むともういちころ。何でもやりたい放題だ。国策に反対するものは国賊だみたいな雰囲気に持ってゆく。戦前の赤狩りみたいなものだ。

 我々は戦後60年でまたしても自ら負け戦にのめり込んでゆく。

 原発の再稼動だって、もうたくさんだ。



 
はる 3715
 どうにも下手くそな龍だ。想像上の動物というのは結構多い。鳳凰とか麒麟とか有名なところでは白虎とか青龍、玄武に朱雀か。西欧では一角獣がいる。面白いのは前に書いたが、鳳凰も西欧に行けばフェニックス不死鳥になる。どちらがオリジナルなものか知らない。

 毎年兄貴に頼まれて干支を描いている。もう十年にもなるからそろそろ一回りする。最初は羊からだっけな。始めの頃はなかなか形にならなかった。自分のスタイルともう決まった絵柄というのがどうにもミスマッチで、今見たら多分直してしまうだろう。門外不出にしてほしい。

 他の作品と同じように何も見ないで描くということがなかなか難しい。そこで色んな資料を集めて形をなぞるという風なことをやるのだが、どうにも上手くない。面白くない。いつものようには行かない。いらいらする。引き受けなければよかったと後悔するというパターンだった。

 それでも、十回もこなしてくればそれなりに自分のスタイルで何とか形になるようにはなってきたようだ。ここに三年の事だ。もう一回りすればもう少しましな作品が出来るかもしれないが、兄貴は許してくれないだろうな。それならば新しいのと交換しろと言うに決まっている。そうなると厄介なので黙っていることにしよう。
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