忍者ブログ
画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
[12]  [13]  [14]  [15]  [16]  [17]  [18]  [19]  [20]  [21]  [22
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。




 
 明日(5日から7日)まで関西から九州まで風が吹くらしいです。要注意!小さな子供さんや若い女性、妊婦さんは外出を控えたほうがいいでしょう。杞憂に終わればそれにこしたことはない。
http://takedanet.com/2011/04/47_afa2.html


 
 「若く見える」と言うのが多くの場合褒め言葉になるらしい。それは「若い」と言われると何だか得したような気持ちにさせてくれるからかもしれない。私などは反対に早く年寄りになりたかったと言えば、ちょっと違うけれど外れてはいない。負け惜しみじゃなく、年を取ることは嫌ではないなぁ・・。どんな風な衰え方をしてゆくのだろう?ぼけてゆくのだろう?それをどんな風に表現してゆくのか、なかなか興味深い。

 私が髭を生やし始めたのはもうずいぶん前のことで、二十歳過ぎにははやしていたように思う。決して毛深い方ではなかったから、何となくぼそぼそとした貧弱な口ひげを生やしていた。あまり考えたこともなかったのだけれど、ひょっとすると髭を生やすのは若く見られたくないという願望なのかもしれないな。確かに髭を生やすと一つか二つ、へたすれば十歳もふけて見られる。

 だからかもしれないが、昔からふけて見られた。最近は髭も真っ白になって、どこから見てももう立派な爺様で、やっと実年齢と見かけが一致してきたのかもしれない。

 年を重ねることは経験を重ねることだ。それでも「老い」という経験は誰しも初めてのことなんだな。いまだかつて老いを経験した若い人などいないわけだからね。どんな老い先があるのか実に興味深いのだけれど、皆さんはどうなんだろう。

 



 
 今日はエープリルフール。いつも嘘ばかりついているので、反対に今日は一年で唯一正しいことをいうことにしましょう。

 嘘と言うのも案外その人の器が出るもので、嘘をついていると思っている限り本当のうそつきにはなれないのだろうな。一番上手いのは嘘をついているにもかかわらず、いつの間にか本人もその気なって分からなくなっている場合だ。ここまでになれば何者にも騙されない。

 テレビの情報だけの人は楽天的になり、ネットやその他色んな情報が入る人は悲観的になっている。情報量に格差がある。さてどちらがいいのでしょうかね。



 
 どうもいつも心の片隅にあって放射能のチリのように積もって、いっこうにスカッと晴れない。本当ならこの時期は桜も咲いてどこかうきうきとする季節なのに、もやもやとして鬱っぽい。私が何かしてもあまり意味がないのだけれどね。たぶん、今度のことは百年に一度の転換期なのじゃないだろうか。

 明治維新の頃、欧米が開国を迫って軍艦を港にこれ見よがしに停泊させて、開国しなきゃ武力も辞さないと脅迫してきた。今まで眠ったような300年を過ごしてきた日本社会は、そりゃ驚いただろう。武士などは泰平楽の世の中を過ごしてきて,何の役にもたたないようになってしまった。

 太平洋戦争でそれこそ日本全部が何もかもすっかり失って、ここから始めるといった時もやっぱり大いに血を流した。本気になったと言うことかな。それと比べるのはお門違いと言われるかもしれないが、やっぱりどこか血を流さなければ気がつかなかったのかもしれない。大いなる犠牲だけれど、国は半分失うかも知れないが、そこまでやらないと気がつかなかったのかもなぁ。

 国の力はこの一年半分になるやもしれん。三等国、四等国になるかもしれん。でもこれがなければ未だに消費が一番、享楽が一番、使い捨てや便利や効率が一番の品のない国で終わっていたかもしれん。多くの人が気がつき始めていた。この国はこのまま目標のない、指針のない、状態でいいのかしらとね。

 まだ目が覚めていない人も多いけれど、今が絶好のチャンスだろう。



 
 パウル・クレーを観た。クレーは本国以外では日本人のファンが多い作家の一人ではないだろうか。かなり多くの作品が展示されていたけれど、初めて見る作品も多かった。クレー展覧会は何度も開催されていて、そのたびに見ているように思うけれど、今回も期待を裏切るものではなかった。クレーの作品はその質からそんなに大きな作品はなく、全てが掌握のかわいらしい小品だ。それがまた子供が書いたように作為がなくいいのだな。

 今回のカタログはこれまた素晴らしいもので、厚さ4cmぐらいあって、いままでのように作品がずらずら並んでいるものではなく、展覧会のコンセプト「どうやって描いたのか」という解説がなされていて、ちょっとした論文のようになっている。そんなことも面白いと思った理由だな。

 クレーの作品はよく観ると、今で言うミクストメディアの先駆のような仕事をしていて、画材も色々だ。描かれる素材もただの麻布だったり紙だったり、厚紙に布を貼り付けたものだったり、キャンバスに油絵というのは案外少ない。手法も一様ではなく版画のように転写したり、引っかいたり、普通に描写したものはほとんどない。

 またタイトルもただの絵の説明ではなく、一つの詩になっているところも私にとって好ましいと思うところだ。会場にアトリエの写真が数多く展示されていたけれど、ごたごたした一見無秩序な混沌に見えるところがまたいい。すごく親近感を感じるな。

 作品を間近に見ると、一つ一つは実にいい加減に作られているようにみえる。けっして計算して細かく繊細には描かれていないのだな。接着なども実にいい加減。色もけっして丁寧には塗られていない。途中で嫌になって放り出したようにさえ見える。作品を切って貼り付けるのだけど、その切り口がまた実にいい加減。まっすぐなものは一つもない。あえて不器用に切ったのだろうけれど、作為がない。ひょっとすると元々そういった綺麗にそろえて切るというセンスはなかったのかもしれない。

 物事を作り出すというのはこういうことだと思うんだな。きれいに塗ったり貼ったり描いたりすることは訓練すれば誰でもかなり上手くなる。一番大事なのはそんなことではないよ、と言っているように思える。



 
 リビアの爆撃された風景を見て何となく今回の津波で破壊された風景と重なった。一方は人為てきなものであり、こちらは天の災いなんだけれどね。人の営みというものは太古の昔からあまり変わらない。船も家もすべてなくしてしまった漁師がそれでも私はここを離れない。ここでやりなおします。何回津波にあってもへこたれません。だって海が好きだから。といていた。

 今回の災害は今までの災害とは大きく違う。地震などの天災は確かにすごい災害だけれど、その時が一番凄くてその後は今よりは良くなるという目標が見える、希望がみえる。ところが今回の災害はまだもっと悪くなるかもしれないという懸念が事態を余計に重いものにしている。

 我々は、いままでも幾多の災害を受けてきた。そのたびに人はなぜこんな目なわなきゃならないのかと天を恨んだこともあったろう。何もかも本当に失って明日食べるものさえないという事態に陥ったこともあったのだろう。長い内戦状態で田畑がすべて焼かれて着の身着のまま逃げたこともあったのだろう。

 最悪を考えれば日本人はこの国土を棄てて生きてゆかなくてはならないかもしれない。その場にいないで、素人が何も知らないで適当なことを言うなと叱られるかもしれないが、今の状態はまだまだ立ち上がれないほどのダメージを受けているわけではない。そう考えると悪くして国土の半分を失ったとしても、半分残っただけでも儲けものだ。

 震災後初めての計画停電で真っ暗になった街を煌々と輝く月をみて感じたこと、いざとなったらここまで戻ればいいやという楽観にも似た覚悟。そう悪いことばかりではない。何遍打ちのめされても、へこたれず生きてゆこう。何とか前を向いて生きてゆくのだ。だって人が好きだから。
**
ブログ内検索
忍者ブログ [PR]


(Design by 夜井)