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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3535
 今日は午前中はクロッキーの会に出席、一ヶ月ぶりにクロッキーをするが、最初はなかなか手が動かない。

 午後からは絵の搬出があるので、美術館に出掛ける。小さなグループ展であるが集客力は大きな団体展に引けを取らない。今回は隣が大きな団体の支部展だったので、そういったことも関係するのか六日間で千人をこえた。大きな会場が人で一杯ということも多かった。自分たちの展覧会という意識を持つために、出品者は出来るだけ会場に詰めるという姿勢がよかったのかもしれない。ありがたい話だ。

 当たり障りのない褒め言葉ばかりではない、少々耳が痛い批判もあった。昨日のこととも関係するかもしれないが、この展覧会は教室の発表展であるため責任はすべて私(指導者)にある。真摯に受け止めてこれからのことに生かしたい。

 そんなことも含めて大成功だったのではないだろうか。
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はる 3534
 TAO展明日でお終いです。四時までですのでお早めに来てください。

 どこに行ってもアドバイスを頼まれることが多い。断るのも失礼だし、よほどのことがない限り気軽に応じるけれど、アドバイスは結構難しい。自分の生徒ならある程度その人を理解しているし、信頼関係ができているので、かなり厳しいアドバイスでも受け入れてもらえると思うのだが、見ず知らずの人の場合は当たり障りのない言葉でお茶を濁すしかないように思う。

 いつもの話だけれど、人はその人のレベルに応じた話しか理解できない。どんなに素晴らしい話でも、受け取る側にその準備が出来ていなければ徒労に終わる。生半可な指導者がよく思うのは、これだけ立派な話をしてやったのだから、生徒はさぞかし満足だろうと勘違いすることだ。それは単に自己満足でしかない。自分がどれだけ崇高なきわみに達していたとしても、相手のレベルに応じた話をしなければ何にも伝わってはいない。指導者も一つの表現者だと思うのだ。そのことをよく理解しなければならない。

 もう一つ指導者が陥ってはならない禁じ手は、自分を高く見せようとして相手を傷つけてしまうことだ。結局は自分が如何に素晴らしい芸術家であるか、指導者であるか、そんなことを言いたいがために相手を批判するのであれば意味のないことだ。アドバイスはあくまでもその人の立場、立ち位置、レベルを理解してより高みに導くようにしなければ全く意味がない。



第五回道(TAO)展

2011 2/22~2/27
山梨県立美術館 C室
 
はる 3532
 本屋さんによって美術雑誌を立ち読みする。多くの場合ほとんど購入することはない。自分に関係した記事が掲載されれば黙っていても送られてくる。昔は定期購読していた雑誌もほとんどやめてしまった。すぐに溜まってしまうということもあるけれど、必要な情報は黙っていてもどこからか流れてくるものだ。

 絵画には流行が大いにあって、一昔前はリアルな美人画のような絵は不人気であった。それでもデパートなどで売れるのは当時でもやっぱり具体的な絵柄だったな。ところが今は多くは絵に描かれたような美人画が絵画の主流になってきた。どの美術雑誌をのぞいて見てもほとんどが美人画の特集をしている。新人作家はほとんどがマネキンのような決まりきったような美人画の作者だ。

 まだまだこの勢いは止まらないようだ。私は当分それが続いてくれと願っている。負け惜しみではなくてね、なぜなら時代はいつもぐるぐると回っている。今、徹底的に具象にふれた志向は、やがては抽象に必ずふれてくる。それが10年後なのか20年後なのか、私が生きている間に巡ってこないかもしれない。けれど、いつかは必ず戻ってくる。

 作家のアトリエが取材されて掲載されていたけれど、何と言うのかな・・作家と言うのは生き方の問題で、リアルに生身の人物に近づけば近づくほど作家魂からは離れてゆく気がするのは私だけかな・・。私が甘いのかもしれないがね。わかりません。

 閑話休題
 前から考えていたことだけれど、少し書きながらまとめてみよう。

 最近、隣国が経済的に台頭してきて、銀座などを歩いていても集団で肩を切って歩いているのはほとんどがかの国の人だ。ブランドのお店でも結構大人買いをするので、いいお客さんということになっている。

 日本は経済的にかの国に負けて意気消沈している。そのうちに隣国に攻められて属国に成り果ててしまうのではないかという妄想に国全体がおかされているようだ。やれ、それではいかんということで、若者にはっぱをかけて尻をたたくのだけれど、彼らの志向はそんなところにはなく、第一志望の人気職種は銀行だったり、保険会社だったりして、結局戦うことなく今ある財産を守るという明らかに保守的な姿勢になっている。多分これからもっともっと保守的な人種が増えてゆくだろう。

 価値として「便利、安い、新しい」というのが、今までの選択のモノサシだったわけだ。アメリカを真似して、それを徹底して推し進めてきた結果、わが国は世界で第二位の経済大国になった。動機は「ハングリー」だったからだ。モチベーションとしてハングリーというのは一番分かりやすい。食えないものを食いたいというのが一番の動機だ。がむしゃらというのが一番強い。わき目もふらずがむしゃらに働いてきた。

 けれど、その結果振り返ってみると捨ててしまったことも多いことに気がついた。「安い、便利、新しい」だけがモノサシではないと今頃気がついて来た。今更ハングリーを持ち出してもだれも乗っては来ない。当然だカッコよくないもの。

 より成熟した社会のモノサシを持たねばならない。たとえば「安い」から選ぶのではなく、高くても安全なものを選ぶとか、「便利」だから選ぶのではなく、不便でも楽しいものを選ぶとか、「新しい」から選ぶのではなく古くてもいいものを選ぶとか、そこにある基準はお仕着せの一律のものではなく、より自由に個人が考えて選んだものだ。個人の品格とかが現れるようなものではないだろうかね。

 そういったある種の「成熟した文化を持つ国」というのが目指すべき指針ではないだろうか。


第五回道(TAO)展

2011 2/22~2/27
山梨県立美術館 C室
055-228-3322
 
HIROA-RさんがTAO展の紹介をしてくれました。どうもありがとうございました。
http://hiroar.exblog.jp/14298752/


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はる 3531
 私事で少し留守にしていました。その間、グループTAO展が始まっています。

 同好の志のグループ展のようですが、内容は教室の発表展のようなものだと考えています。初心者は初々しく、上級者はより上をめざす、それぞれがその過程を楽しめればいいように思います。ご観覧、ご批評はお手柔らかによろしくお願いします。

 上のHIROA-Rさんのところで書かれていた中央の団体展の種類ですが、簡単に言えば官展系(日展)と在野系の二種類ですね。

 団体展の成立の課程から説明しなければなりませんが、元々日本にはこういった公募団体展なるものがなかった。明治になって西欧の文物がなだれのように押し寄せてきた、その中の一つがフランスのサロン(1725~)を真似た発表の場としての公募展(文部省展覧会ー文展1907年)でその後紆余曲折があって戦後今の日展(日本美術展覧会)となった。

 で問題はいつもそうなんだけれど、誰が良し悪しを決めるんだということなんだな。芸事というのは絶対の基準と言うものがない。ということでどうしても多数決という方法をとらざるを得ないことになる。そこでどうしても、学閥とか門閥、地域閥のようなものが出てくるのだな。人の集団である限りそういったことはある意味仕方ないかもしれない。で、長く続くと分裂、分裂を繰り返してやがては消滅することになる。

 上の文展も始まってすぐに分裂、洋画でいえば最初に二科展(最初の在野団体1913年)ができる。そこからどんどん枝分かれして、今では弱小ものまで含めると約100団体ぐらいあるのではないだろうか。

 今の日展は一番大きな団体展なんだけれど、分かりやすく言えば連立政権のようなもので日展に参加する団体(光風会、太平洋展、創元展、白日会など)の集合体になっている。参加しない団体(二科会、春陽会、国画会、ほか)になる。
 



 
はる 3530
 少し春めいてきた。寒さが厳しい冬だったから余計に春が待遠しい。ブログ再開します。
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