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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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第五回道(TAO)展

2011 2/22~2/27
山梨県立美術館 C室
055-228-3322
 
はる 3526
 来週の火曜日2/22から県美で私の生徒たちのグループ・道(TAO)展が始まります。展覧会そのものは毎年開催しますが、大きな作品を中心に美術館で発表するのは隔年です。ほとんど始めて油絵を描いた人から県の美術展では常連の人まで、100号を中心に30点近く並ぶ展観はなかなか見ごたえがあると思います。ぜひともご高覧のほどをよろしくお願いします。

 明日からしばらく留守にします。更新はシャメだけになるかも知れません。あしからず。



 
布のコレクション
 
「吉川春水、昨日今日明日」より勝手引用
http://kikkawaharumi.blog68.fc2.com/blog-entry-959.html
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略・・
仕事をすることに大反対した父を押し切って、仕事を続け40余年、今私は、「好きなことをやるからこそ、生活できる」と自信を持って言うことができます。もちろん好きなことは趣味にして、生活のために「仕事」を続ける人も多い、もしくはそれが大多数。ではあるけれど、「本当に好きなこと」を諦めずに続ければ、それはそれなりに「生活」できると信じています。

「できる」と私が言いきる最大の理由は、「好きなことをする=生活できない、もしくは清貧に甘んじなければならない」という呪縛にとらわれるあまり、大多数の人が好きなことで生活できるまで頑張らない。途中で諦める。

結果として、「好きなこと」を続ける人がだんだん少数になり、わき目も振らず「好き」を続けるうちに競争相手が自然といなくなり、やがて本人の技術、経験が加わり、それなりにその世界で生きていけるようになる。

略・・
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「蔵出し」はる 3438
オリジナルについて
resonanceより勝手引用
http://resonance-1111.tumblr.com/post/1638140458#note
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「ついに一人のフォロワーも得ることのなかったユニークさ」には何の価値もない。「多くのフォロワーを獲得したためにいつのまにか少しもユニークなものでなくなってしまったユニークさ」だけに価値があると私は思っている。だから、「オリジナリティ」に値札をつける習慣にどうしてもなじむことができないのである。

詩について言えば、詩人がほんとうに求めていたのは読者たちの彼の詩境に対する全面的な共感だろうと私は思う。理解されず共感されず、それゆえ模倣することもできぬような詩想を有したことでオリジナリティを確立することなど詩人は望んではいない(と思う。詩人じゃないからわからないけれど)。

詩想がひろく共感されるということは、人類の「感受性の財産目録」にそれまでになかった新しい感受性を一つ付け加えるということだと私は考えている」

詩人のコピーライトについて (内田樹の研究室)
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はる 3525
 日ごろ暇な時は本ばかり読んでいる。と書くと非常にカッコよく聞こえる。何のことはないここにタイトルを書くことさえはばかれるような暇つぶし本ばかりである。小難しい読むのに苦労するような本は一切読まない。だから世に言う「読書家」とはいえないねぇ。

 けれど本を読むことは好きだ。どこかに出掛けるときは必ず、文庫本を持って出掛ける。なければ近くの本屋に立ち寄って何か本を買うことになる。読んだ本はまとめてすぐに古本屋に持て行く。溜まって困るからだ。

 自分の人生に読書という習慣はなかった。だから読むのも非常に遅い。読書を教養として「読まなければ」という強迫観念から開放して「暇つぶし、楽しみとして読む」と考えるようになって俄然面白くなった。なくてはならない趣味になった。

 最近読んだ本の中にこんなことが書かれていた。

 まぁ犯罪者の話なんだけれど、その主人公とは幼馴染で小さい頃からつるんで遊んでいた。大きくなって主人公は犯罪と取り締まる役人になり、その幼馴染は反対に犯罪者になる。子供の頃はそう大きな違いはない。どちらにも同じような場面があるわけだ。それでも実際に犯罪者になってしまう者とそうでない者には、どこか決定的な違いがあるというのだな。

 人というのはある時を境に決定的に悪になるわけではない。善と悪はいつも同じ分量あって、悪に染まるものはいつでも少し悪が勝っているというのだな。それを覆すのには本人の自覚が不可欠で、多大な努力を必要とする。そんなことが書かれていて気になった。

閑話休題
 この間の売れないアーチストの話。売れないことことが、理解されないことが芸術の前提であってはならない。「好きなことで食べられない」ことが人々の理解をこえた高尚なことと勘違いしてはならない。

 いつの時も同じくらいの賛同者と非賛同者がいる。売れるものは突然火がついたように売れるのではない。もちろんそんな人も時にはいるけれど、ブームは来た時と同じように過ぎてゆく。そんなものを相手にしてはいけない。本物はいつの時代も数は少ないかもしれないが圧倒的な支持者がいるものだ。そういった圧倒的な支持者を少しずつ増やしてゆく。それしか真っ当な方法はない。



「阿弥陀二十五菩薩来迎図 13世紀後半 知恩院
 
はる 3524
 先日の香月さんの話、Iさんへのコメント

「真似ることは悪いことではないと思います。いいものはどんどんまねて吸収すればいいと思います。 反対に真似られて独自性がなくなるようなオリジナリティならもともと何もないのと同じだということです。

  真似られるというのはそれほど魅力があるということで、偽物がでるほど、物真似がでるほど、人が放って置かないという証拠でしょう。

 香月さんにとって材料は秘密のものではなかった。自身の体験は誰も真似できないという自信があったのだと思います」
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 今年度の授業もあと一回あまりになった。このくらいになると、大体私のやり方が飲み込めて、何も言わなくてもスムースに仕事が進んでゆく。仕上がらなければ何時間でも放課後に残してやらせる。無論私も付き合う。時間講師であるからそこまでやる必要はないのだが、そうしなければどうにもシメシがつかない。

 どうでもいいという態度を私が見せると、彼らは絶対にいい物をつくろうとはしない。自分の作った作品に愛着がもてないような仕事をやらせても時間の無駄だ。せっかくやらせるならば、徹底していいもの、自分なりに納得のいく作品を作らせてやりたい。たった一年という短い間だったけれど、何か満足感、充実感、達成感を味合わせてやりたいと思うのだ。

 無論、向き不向きがあるので一律には言えないのだけれど、今まで多くの生徒と接して思ったことは、ほぼ全ての生徒が少し指導すれば自分の作品に愛着を持つようになるということだ。上手はじょうずなりに下手はへたなりにね。

 そのことは多分私の仕事にも反映しているのだと思う。何か人の度肝を抜くような大層なことは多分出来ないだろう。でも人の心の奥底にある、小さな感動する心とか、物を作る喜びとか、愛でることの歓びとか、表現することの面白さとか、考えることの大切さとか、そんなことが極々じんわりと伝わって行けばいいと思う。それが私の仕事の流儀なのではないかな。

 



 
はる 3523
 ブログを読んでいたらなるほどと思うことが書かれていた。以下は要約して書いてみる。

 作家の種類
「画壇作家」・・絵描きの中ではエリートである。ただしその構成員になるには多大な努力をようする。学閥、門閥、地域閥、師弟閥が大手をふるう。学校の先生や大学の先生、カルチャーの講師など肩書きで仕事をするタイプには都合がよい。購入者はその教え子や、その非構成員がほとんどである。

「芸能人作家」・・実力はほどほどでよく、一世を風靡した芸人がその峠を越えたころからにわかに趣味的に描き出したもの。誰が見ても分かる写真のような絵が多い。購入者は昔のファンであり、現在のファンでもある。

「現代美術作家」・・何だかよく分からないけれど、世界的にブームを自ら作ってそれに乗ってマネーゲームのように売る、売れる作家。一時のジャパンマネーが西欧の名画を軒並み買い占めたように、今はチャイニーズマネーが若い作家を青田買いする。

「画廊付作家」・・画廊のオーナーの独断と偏見で選んだ作家のみを企画している画廊に巣食う作家。購入者は作家のコアなファンではあるが基本的にオーナーのファンでもある。相乗効果でいい時にはいい夢を見られる。

「デパート作家」・・大体が毒でも薬ないインテリア絵画である。「細かく、綺麗、分かりやすい」購入者は不特定多数




かわいい弟子たち
はる 3522
大石正巳のアトリエ日記より勝手引用
http://laseine38.exblog.jp/15919051/
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略・・
香月さんといえばご存知シベリアシリーズ。独特のマチエールのである。
学生さんが質問したと・・・・・

「聞きたいんか」と。
日本画の材料と絵の具の白と黄土色。それに木炭をすった粉を入れて
いっきに描き上げたと。見ていてもわからんからやってみろ、ということ
でやってみたらみんなが香月さんと同じものが出来たと・・・・・

そして・・・・
「安い材料で、早い時間で、高い絵を描けよ」と、いったらしい。

これは、野見山暁治が語る 「眼の人」 北里晋著 弦書房出版からの引
用である。
略・・
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約500年前のイコン
はる 3521
 今年の個展でよく聞かれた感想は、DMの写真と実物では全く印象が違うということだ。写真はあくまでも参考程度のもので、実物とは違うものだと考えた方がいいように思う。広く世の中に宣伝したり流布する場合、写真にしろネットにしろ、とにかく複製を大量に配らなければならないわけで、最近はぼちぼちネット上に案内を載せるというのが有効になってきた。

 二年ほどまえに自分の小さな画集を作ったのだが、昔のように一枚一枚アナログのフィルムで撮るのではなくデジタル情報としてパソコン上で処理してそのままメールに添付した形で印刷にまわす。まぁ最近のDMもほとんどがデジタルで情報交換が昔と比べて格段にスムースになった。

 ネットが便利だと思うのはグーグルなどの検索機能で、何か調べ物をする場合これほど有効なものは今までなかった。ネットにつながることで世界中の百科事典を手に入れたようなものだ。これによって多分多くの商売の仕方が変ってきたのではないだろうか。倉庫とネットさえあれば店舗を持つ必要がないので、どんな田舎でも新しい商売が出来る。私もご多分に漏れず何回か利用させてもらった。お店にオーダーするよりも何倍も早くスムースに物品を手にすることができた。

 話は戻るのだが、便利と言う尺度で判断すると、仮想物→印刷物→実物という順番だが、反対に存在感という尺度で考えると反対になる。

 古今東西、未だに残っている絵画とか彫刻、建物などはほとんどが名もない民衆の「いのりのかたち」で、反対に言えばそれ以外のものは跡形もなく消えてしまってほとんど存在しない。

 人が動物と違うのは「自らは死ぬ存在である」ということを知っていることで、どんな民族、人種であってもそれを知って「おおいなるもの」の存在を意識する。

 絵画に限らないだろうけれど、そこのところを踏まえていれば、たぶん電脳社会と我々のようなアナログの絵画表現とも両立できるように思うのだが、どうだろうか。


 
はる 3520
 昨晩は朝から雪が降った。甲府は北国のイメージがあるのか雪はどうですか?とたまに聞かれる。寒いのは毎日全国でも一二を争う極寒の地ですが、雪は年に二三度降っては10cmぐらい積もる程度だ。今回の雪も重い雪で日中はほとんど解けてしまった。

 樋がつぶれて雪解けの水がポタリポタリとたれていた。壁が濡れるのを嫌って少し流れをよくすればいいと考えて、脚立にサンダル履きで乗った。そこまでは覚えているが、すーと身体が斜めになって気がついたら側溝にはまっていた。したたか胸を打った。脚立に登る時に妙な予感がした。退職した先生が庭木の剪定をしていてそのまま倒れて下半身不随になったことなどが、ちらりと頭によぎった。それでやめとけばよかったんだけれどね。

 夜になって少し痛む。心配になって、救急病院でレントゲンを撮って診察してもらうことにした。何事もなければそれでいいし、悶々と心配するよりいいだろう。幸い右手は使える。

 シップと痛み止めをもらう。とりあえず骨には異常がないということで、このまま時間と共に痛みも取れるでしょうということだった。ということの顛末でした。みなさん脚立には気をつけましょう。




「丸山真未展」

甲府・画廊三彩洞
 
 小さな展覧会を二つほど観た。上のはその一つ。簡単な線描のイラスト。目から描いてそれが人物になるか鳥になるか魚になるかは、描いてゆく過程で決まるそうだ。これからどう展開してゆくのか楽しみだ。
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