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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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MSK
はる 2905
 「心の拠り所3」
 今日もまた徒然に、結論はありません。あしからず。

 「幽霊の正体みたり枯れ尾花」この歌の意味はけっこう真相をついている。幽霊に限らず、お化け、霊、怨念など、こういった類のものは人の作り出した幻にすぎない。「怖い、こわい」と想う心がそういった幻影を生み出すわけだ。

 自分の鬱気質や強迫観念症がどこから来たのか、たぶんに遺伝的なものがあるのだろうけれど、だから仕方ないと考えるのではなく、表面的なものではない深層のところまで降りて意識下に持ってくればコントロールが可能になるように思う。というのかそういったことに興味がある。

 「医者が必要な者が医者になる」という伝でいけば、私には絵が必要だったのか?どうも「絵」ということになるとそうでもないきがするんだな。どちらかと言えばこうやってノートやパソコンに向かって心の中を探りながら文章を書いている方が向いているような気もする。こういうのを何というのかなぁ。私の絵のタイトルで言えば「思索家」だけれど、だからといってこれが文学として鑑賞にたえるものかといえば、全くの×だ。くだらないぼやきみたいなものだ。

 ただ何かしら具体的な「心の拠り所」がほしかった。それは「ことば」でもよかったし、「もの」でもよかった。音楽や文学や絵画でもよかった。何かしら変わらない真実とか真理とか理のようなものが欲しかったんだな。無我夢中で手探りでやって来たけれど、それが今の絵の形になってきたわけで、そういった意味では「絵が必要なものが絵描きになる」というのは意外にあたっているかなと思う。

 恐怖というのは想像のなせるわざだ。想像力のあるものだけがそれにおびえるのだ。具体的に脅かされたり襲われたりしたわけではない。多分その恐怖の種は自分の作り出した幻影なんだ。

 ではその幻影の正体は何かということだな。で話は元に戻ってくる。古今東西、人は安住の地というのをいつも求めている。実際にはこの地上にはエデンの園のような安住の地は存在しない。母親の胎内から滑り落ちた段階から、イバラの道が待っているのだ。けれど少しでも自分にとって居心地がいい環境に居たいと思うのは本能に近いものだろう。

 いつしかその居心地のいい環境が破られて着の身着のまま放り出されるのではないか、楽園を追放されるのではないかというのが潜在的な恐怖の源だ。実際はそんな楽園も安住の地も幻に過ぎないのだな。 

 またまた迷路に入ってしまいました。ではでは。

 
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 「そのひとが最も関心があることを
その人はやろうとする。

医者が必要な人が医者になり
教育が必要な人が教育者をめざす」

 ということが書かれていた。なるほどなぁ・・そういうことか。自転車にまだよくなれていなくてよたよたと走っていた頃にこんなことは無かったか?向こうに障害物が見える。そちらに行ってはいけないと思えばおもうほど吸い寄せられるようにそれに向かってしまう。やってはいけない、なってはいけない、と意識すればするほどやってしまう。これって何なんだろうか。不安や心配事は結局自分の中にある観念に縛られているに過ぎないのだな。

 私のこの憂鬱な気質がどこから来ているのかと考えると、親や兄弟との関係に行き着く。五人兄弟の末っ子というのは非常に無責任な立場にいる。ほとんど何にも期待されないし、何か責任あることを任されることもない。反対にある一定のルールさえ守っていればそこそこに保護される立場である。それゆえに立場を守るというのか、分をわきまえるというのか、でしゃばった事はしないという非常に保守的な態度を自然に身に付ける。

 それゆえに、私の不安や心配事の原点はそういった保護された、安住の場を失うのではないか?という不安ではないかと思う。どっちつかずのあやふやな立場を快く思うのもそんな日和見的な保身から出てきているように思う。

 長じてこんなでたらめな生活になってしまったのだけれど、多分子供頃からなってはいけない、やってはいけない生活をいつのまにかしてしまっているのだな。その不安から逃れたいために絵を描いているのかもしれないな。
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 地塗りが終わって、布や土や絵の具を何度か重ねた状態。まだ何を描くのか決まっていない。しかしそうは言いながら、ぼんやりと敦煌の莫高窟やバーミヤンの壁画などの仏や菩薩、もう少し西に出かけてキリスト教のイコンやフレスコ画などがいいなぁと想っている。人が動物から「にんげん」になって、空いてしまった心の内側を埋めるには、どうしても「おおいなるもの」の存在が欠かせない。それがアラーの神なのかイスラムの神なのか古代ギリシャの神々なのか、仏陀や八百万の神なのか知らない。何かそんなものが出てこないか待ち構えている。
 


「ひみつのことば」F30
 で、ゆっくりと現れたのが、こんな人だった。雷が鳴り出したのでここで一先ず終了。

 再開。まぁ途中で泊り込みの仕事があったりしたけれど、ほぼ一ヶ月作品を観ていたことになる。色んなシーンが出てきたり引っ込んだり。人物も10人は出てきた。どれも今の私にはピンと来るものでは無かった。それでも諦めないでからかっていると、突然というのか、偶然と言うのか、形が具体的に見えてくるときが有る。往々にしてあまりに強いイメージは説明画になってすぐに飽きが来る。そんなことを描きたかったのかと自問する。

 まぁそんなところかな。次にタイトルを考える。出来るだけ絵の説明から離れる。離れるのだけれど、それしかないというタイトルが必ず一つは世の中に存在すると信じる。それを見つけるのが作家の仕事でもあるのだ。「私の絵は護符とかイコンのようなもの」ということをどこかで書いた。その言葉が頭に残っていた。それを言葉で言えば何と言うのだろうと考えた。「おまじない」これさえ唱えれば「安心」するというような「秘密の言葉」があればいいなぁ、、などと想ったのだな。そんなところからこのタイトルととなった。



 
 昨日かな何気に新聞を読んでいたら気になる記事が目についた。こういったものも普段自分が気にしていなければ素通りしてしまうのだが、たまたまというのか今気になっていることと関係があったりすると文字が飛び込んでくるわけだ。普段は見ていても観えず、聞いても聴こえずということだな。

 かの国の除草剤の話。もともと除草剤はベトナム戦争の悪魔の忘れ形見なんだけれど、当時のベトコンのジャングルでのゲリラ戦に往生していた某軍がなんとかジャングルを裸にしたい、それにはジャングルを枯らしてしまえと世に言う「枯葉剤」を飛行機からジャングルに散布した。その後の話は色々あるな。それが元で人間に限らず、奇形の動植物が天から降って沸いたように発生した。それにも関わらずかの国は謝りもしなかった。鬼畜とはだれのことだろう。

 今日の本題はそれではない。その後、枯葉剤は除草剤と名前を変えてどこのホームセンターでも売られている。もちろん何倍も薄められて毒性は枯葉剤の比ではないだろうけれど、それでも何度も何度も繰り返して使えばどうなんだろうか。だれがそのことを知っているのか責任はとれるのか?疑問に思う。またまた横道にそれた。

 で、新聞の話にもどる。遺伝仕組み替えで除草剤に強い植物を作って、実際に今アメリカの農業はそういった植物を農業生産物として作っているそうだ。そういったことならかたちは違うけれど、遺伝子組み替えで芽が出ないようにした馬鈴薯とか虫のつかない大豆とかは聞いたことが有る。

 除草剤に強い遺伝し組替え植物が何故必要かといえば、そういった畑に除草剤を撒けば雑草だけが枯れて必要な植物だけが残るということになる。なるほど、そうかと思うだろう。頭いい。

 ところがどっこい、敵もさるものひっかくもの、除草剤に耐性をもった植物が出てくるそうだ。そりゃそうだろう。ダーウィンを持ち出すまでも無く、進化とは強いものが生き残るわけではない、弱くていつも変化していそういったものが生き残るのだ。

 今回のインフルエンザ騒ぎでも感じたことなんだけれど、ウィルスなどというものは何か他の細胞を媒体として常に変化して、形を変えて生き残って我々を攻撃してくる。そりゃそうだ。彼らにとっては生死をかけた生き残り戦略なのだから、半端なものではない。人類はそうやっていままでも生き残って来たわけで、ウィルスとの戦いは今に始まったことではない。まぁもっと冷静にといいたい。



 
 唯一登録しているメルマガがある。村松恒平さんの「秘伝」というやつ。これはほぼ気まぐれに一ヶ月に一度くらいしか配信されてこないけれど、毎回内容の濃いことがかかれている。何度か銀座の個展でお会いしたことも有るのだが、この人とのめぐり合いもネットを通じてであったなぁ。

 彼の文章は簡単な言葉で書かれているけれど、ずばずばと心のどこかに入り込んでくる。編集者であったことから主に小説や文学一般について書かれていることがおおいのだけれど、そっくり絵画とか芸術と置き換えてもすんなり腑に落ちる言葉もある。

 最近きた文章の中に「今の日本は今はやっている事象に全員が集中する」という個所がある。これは小説のジャンルについての質問に答えたものなんだけれど、今回のインフルエンザ騒ぎでも同じことが言えないかね。全員がマスクして通勤通学している写真などを見ると、この国のまじめさというのか均一性というのか、何でも皆と同じでない時と気がすまない、そんな国民性が良くも悪くも感じられて情けないなと思う。まだまだ一人の人間として独立した人格というのか哲学、信仰みたいなものが無いんだな。

 だからたぶんまた、上手く世論をまとめられて戦争になったり、誰かをつるし上げたり、いじめたりするのだろう。どこかの国のように「私はわたし、あなたはあなた」というふうにはなかなかならないのだ。人のうわさとか動向そんなものばかりを気にしている。もっと自尊独立しなければ、芸術を楽しむという気風も生まれにくいだろうな。

 眠いのでおかしな文章だけど、そのままアップします。いつもか?



 
はる 2893
 「想えば通ず」ということが時々ある。それがいつもあれば私は天才になれたかもしれないのだが、たまにそこそこだからそこそこでしかない。いや、ひょっとすると私の想いはこんなものだったのかもしれないな。

 人はみな「こうなればいい」「こうありたい」と想うかたちがあるだろう。そう想うだけでだれでもできるのだが、それにむかって努力しつづけることは難しい。色んな障害や困難が待ち構えてはいるのだけれど、それでも尚やりつづけていると少なくとも一歩ずつそれに近づいてゆく。諦めさえしなければね。

 この七月に個展をやらせてもらう山口画廊との縁も不思議なものだ。もともとどうやってつながったのかよくは憶えていないのだけれど、とにかく私が面白いと想う作家を扱っている画廊というので気にはなっていた。でそういったことをブログか掲示板で紹介したのがきっかけだったように思う。で、直接オーナーが訪ねて来てくれてとんとん拍子に個展が決まった。こんなことってあるんだな。きっかけは何でもいい、あぁこんなところで個展が出来たらいいなと想うそんなことが大事じゃないかな。

 千葉の方には知り合いがいませんが、機会があれば観てやって下さい。

2009 7/15(水)~8/3(月)
 第48回・榎並和春個展・千葉
タイトル「いつかみたところ3」
山口画廊
千葉市中央区春日 2-6-7
春日マンション 102
Tel.&Fax. 043-248-1560


 



 
 学校がある日は一日学校にいることになるので、楽器を持っていくことにしている。昼間の授業と夜の授業の間はけっこう時間があるために、昼寝して過ごすことが多いのだが、時々楽器に触れる。大してというのか、ほとんど進歩が無いのでチェロをやっていますと言うのが恥ずかしいくらいのものだが、まぁこれも一生続けていこうかなとは思っている。キャリアだけは長いのだよ。しかし、弦楽器は難しいなぁ、上手な人が弾けばただの音階、スケールだけでも美しい音色がする。私が弾けば普通のの音階だ。



 
はる 2889
 クリント・イーストウッドのグラントリノを観た。あまり先入観もなく観たために意外に楽しめた。まぁ傑作だというほどの映画ではなかったけれど、DVD化されれたら家で観ればいいだろう。

 しかし、彼の作品は他はローハイドとかマカロニウエスタンなど初期の頃の作品しか観ていないけれど、息の長い俳優だな。若い頃はニヒルな二枚目の役で「夕陽のガンマン」の頃などちょっと流れ者の武士のようで日本人にも受けていたな。

 人は歳を食う。誰もが避けられないことなんだけれど、出来うるなら年取っても恥ずかしくない生き様をしたいものだ。俳優など特に自分をさらす職業だから、その人がどういった人生を歩んできたか如実に出てくる。まぁ面白いといえばおもしろい。

 「最悪でも死ぬだけ」というのはどうだろう。死ぬってことはいずれやってくる現実だからね、縁起でもないと言わないで考えてみようか。考え方によればそう悪いことじゃないように思うんだな。別にそれを礼賛するつもりはないのだけれど、極悪人も守銭奴も善人もまた全てのことが許されてニュートラルな立場になれるというのは救いでもある。何もかもが平等にきれいさっぱり無くなってしまうのだからね。それもまたいいかと思うわけだ。

 この時期にいうのは凄く不謹慎かもしれないけれど、例えばインフルエンザが流行り始めている。みんながこぞってマスクを買い求める。ワクチンを人数分用意しないと不安にかられている。パニックになって潔癖症になっている。それは用心に越したことはないのだけれど、自分が、私だけはというのは凄く醜いなぁ。個体の維持と種族保存いうのは生命の本能だけれど「うろたえない」という哲学というのか生き方、ダンディズムも必要じゃないかと思うんだ。「最悪でも死ぬだけ」だろう。借金を背負う訳でもないし、人様に後ろ指を指されるわけでもない。多少ご迷惑をかけるかもしれないけれどね。

 ちょっとそんなふうに思った。まぁじたばたするとおもうけれど。

 



 
 無為、無作為になろうとしても、まぁ凡人には無理な話だ。人がものを考えるひとになった時点で無為ということはありえない。例えば農業にしても単一の作物だけが繁茂するということは自然界にはありえないことで、そこには何かしらの作為がはたらいているわけだ。

 天然とか自然というけれど、人が修行して近づけるのは有為自然が限界で、全くの天然、無為自然な状態というのは人間といえるのかどうか、そんな人間がそばにいれば周りにとっても迷惑なだけじゃないだろうかね。芸術家というのは多少天然のボケでも許されるところがあるけれど、それでも限界はあるだろうな。あちらの世界に行きっぱなしの人は芸術家とは言えない気がする。普通の人がそこそこの努力をしてあちらとこちらに自由に行き来できるようになるから尊いのじゃないかね。

 絵を描くという行為そのものはめちゃくちゃに作為的な行為だ。無意識に夢遊病のように自動筆記できるといいのかもしれないが、それもまた表現とはいえない気がするな。あくまでも作者は「意識」する。意識はするのだけれど、もう一方でそれを打ち消しているわけだ。

 現れてくるのを待ち構えている。また明日だな。
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