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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 新じゃがの収穫です。初めてにしては上出来ではないですか。なにせ、芽が出てしまった捨てるしかなかったジャガイモを適当に切って植えただけでこれだけの収穫ができたのです。いいかげんなものです。肥料もやらなかったし、土よせなどもやらなかった、というのか知らなかった。こんなもんで元の十倍以上になって戻ってくるわけだから、植物の力というのか生命力というのは凄いものだ。

 ルッコラなどのハーブ系の野菜などは種から育てるのだけれど、当たり前かもしれないけれどあんな1mmにも満たないような種からあっという間に1m近くの茎が生えてくるわけだ。単純に考えても1000倍以上になっている。何を今更と思うかもしれないけれど、じっくり考えると驚異的だな。でまた種をものすごい数でつける、これは1万倍ぐらいではなかろうか。植物の生命力の凄さにまったあきれる。

 それがあの小さな種の中に情報として仕組まれているわけだ。最初に水にふれると発芽する。そこからやがて花が咲いて実をつけてやがては枯れてゆく。そういったシナリオがそっくりどの種の中にも間違いなく仕組まれているということに感動する。もし今人が同じようなシステムを構築したとしたら大きなビル一つ以上のプログラムが必要なんじゃないだろうか。それでもまだ一粒の種さえ人は作り出すことはできないのだ。

 一粒の種は遺伝子の方舟だ。生命の発生から今現在の状態、そしてこれからも多分暗示されているのだろう。今現在の我々の知恵ではこれからのことは情報として取り出すことはできないかもしれないけれど、やがて何らかの形で知ることができるようになるかもしれない。

 フラクタルの理論で言えば、それは一つの宇宙の形なんだな。生命の発生から滅亡までのシナリオはそっくり宇宙の発生から終わりまでと似ている。反対に言えば我々の方が宇宙を真似たのだな。

 又段々おかしなところに入ってきた。ではまた。
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 今回東京に行ってきたのは一つはカタログの委員会の最終的な打ち上げがあったのと、もう一つは今までお世話になった銀座の画廊が閉じてしまったので新しい画廊と話をするためだ。我々みたいな無名の作家だと一度つながりが切れてしまうと次の画廊はまた一から始めなくてはならない。貸しスペースでいいなら何処でもお金さえ払えばできるのだが、若い時ならそれでもいいのだが貸し画廊で何年やっても画家にはなれない。

 自分ひとりの関係で絵を売っていてもたかが知れたものだ。まぁ一番効率のよい方法ではあるのだが、出来るだけ多くの人の手を煩わせたほうが絵のためにはいい。多くの人を「本気」にさせることが出来れば絵描きになったということだ。どれだけの人を本気にさせるかだな。まず最初は画商さんを本気にさせなければお客さんなどつかない。

 というわけで、今回幸運なことに一つの画廊から話があった。多分長く付き合ってゆくことになるとだろう。とりあえず最初の個展
 光画廊
2011年1/6~1/15
東京都中央区銀座7-6-6
丸源ビル24(1階)

 



 
覚書
 光画廊個展
 2011年1/6~1/15 (9sun・10mon)休廊

 HP
 http://homepage2.nifty.com/hikarigarou/
 



 
はる 2942
 千葉の山口画廊のオーナーが自ら車を運転して絵を取りに来る。いままで大体梱包して送るか、軽トラックをチャーターして運んでもらうか、一番簡単なのが自らが運転して運ぶという方法だけれど、若い時は別にしてここ最近は長距離の車の運転はしていない。まぁ梱包しなくてもいいというだけでも、ありがたい話だ。

 画商と画家というのは持ちつ持たれつ、割れなべにとじ蓋、運命共同体みたいなものだろうか、ともに単体では成立しにくい仕事ではある。

 東京で個展を始めた頃、なんとかそういった画廊が見つからないだろうかと一生懸命探したものだ。しかしまぁ、自らの根性がまだ定まってもいないのに、そう簡単に胸襟を開いてくれるわけがない。相手もやっぱり様子を見るわけだ。「こいつはどこまで本気なんだろうか?」とね。最低10年はゆっくり観察される。それでやがてちょっとはいい条件を提示されるわけだな。画廊もボランティアじゃないからね。

 それにまず小さい作品が描けけない。一枚や二枚はなんとかごまかせても年間少なくとも50枚は描けなきゃ話にならない。大事なことは「売り絵」じゃない「本物の絵」がかけるかどうかだ。これがなかなか難しい。

 「本物の絵」は生きた時間を削らないと描けない。とても片手間に大作の合間にちょこちょことは描けない。小品は小さいから楽だと思うかもしれないけれど、小さくても大きくても一点は一点なんだな。そこのところがなかなか理解してもらえない。大きい絵の縮小版のような密度の薄い絵を描いて平気でいるけれど、見る人が見れば分かる。あなたのアイディアは一つしかないのがばればれだ。

 さて眠くなったので又明日。そうそう明日は東京だ。多分午前様です。更新はシャメだけかもしれません。あしからず。
 




 
 ダイヤル電話って最近の若い人は知らないのじゃないかな。つい最近まで現役で使われていた気がするけれど、もう過去のものになってしまったか。この電話機はもう一つ古くて本体はエボナイトというプラスチックが出てくるまでよく電気製品に使われていた科学製品で出来ている。プラスチックと何処となく似ているけれど、光沢が鈍くて割とずしりと重いところが違う。最近は見かけることが少なくなった。私のうちの家電はまだこれで現役で使っている。ゆえにアナログ回線のためにファックスなど時間がかかるように思うのだがどうだろうか。

 電話こそ最近10年で驚くほど進化したものはないのじゃないかな。この調子で行けばやがて家電は淘汰されるように思う。必要ないものな。ファックスぐらいだろう、今使っているのは。昼間かかってくる電話はろくでもない勧誘の電話ばかりだ。

 携帯は電話というより昔考えていたテレパシーに近いな。今私が考えていることを個人レベルで相手に伝えることができるのだからね。しかしまぁそのために失ったものも多いな。

 さて、明日は千葉の山口画廊のオーナーが絵を取りに来る。いよいよはじめての地で個展が始まる。どんな出会いがあるのか、凄く楽しみにしている。もう一度宣伝しておこう。

2009 7/15(水)~8/3(月)
 第48回・榎並和春個展・千葉
タイトル「いつかみたところ3」
山口画廊
千葉市中央区春日 2-6-7
春日マンション 102
Tel.&Fax. 043-248-1560

 私は7/18、19、20お昼過ぎまで在廊しています。お待ちしています。



 
★さんへのメール転載

こんにちは。著作権のことは全くわかりません。基本的には全て表現された物には本人の著作権が存在すると考えた方がいいように思います。ですから、書かれた物は勿論、写真や出版物にも当然網がかかってくると思います。真っ当に対応するなら当然本人の承諾を得るべきでしょうな。
 
 で、ここからは全くの私見なんですが、ネットの面白いところはゲリラ的な今までの価値を無視したところにあるように思うんですね。コピーやペーストが実に簡単に出来る。まぁ言ってみれば模造改造海賊版の天下ですよ。これをイチいちチェックすることはもはや不可能ですね。
 
 無論あえて人をおとしめるとか、それで商売して利益を得るとは自己の良心にてらしてやってはいけないことだとは思うのですが、私はネット上に晒されているものは無断で使用してもいいものと解釈して使っています。反対に私の著作物も上の条件に反しない限り自由に使っていいとうたっています。著作権を放棄しているわけではありません。
 
 著作権に詳しい作家・寮美智子さんが自らの作品についての扱いにホームページで書かれています。以下転載しておきます。私は記事を引用する場合、彼女の方法を取っています。
 
寮美智子HP
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▼全文の無断使用は著作権法違反になります

全文を無断でコピー&ペーストして使用することは、著作権法違反になりますのでご注意下さい。引用は、必ず部分にしていただき「全文はこちらをごらんください」とリンクを張ってくださるようお願いします。引用の際は、必ず出典【*******】を明記してください。
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 それでは絵描きとして大成しないというのであれば、それもまた仕方ないのかなと思う。それは時間がなかったからではないだろう、雑多な雑用をこなしていたからではないだろう。それだけの器量しかなかったというだけだ。そのことを言い訳にしたくない。
 



 
 隣に借りている畑の草むしりなどをしていると、ずっと昔に同じような光景に接した感じがすることがある。私の実家は農家ではないので実際には本格的なお百姓をした憶えはないのだ。そういうことを考えると実は自分の遺伝子の中にそういった因子があるのかもしれないなぁ・・と思ったりする。

 それからもう一つは土の匂いだ。この畑にした場所は隣の爺さんが長年ほったらかしに近い花壇を作っていたところで、時々生ゴミなどを適当にばら撒いていた。そういったことで長年の枯草などが自然の堆肥になって少し掘ると土のいい匂いがする。この土の匂いは随分と懐かしい。深い山の中で落ち葉が何層にも重なった土を掘ったようなこころをやさしくくすぐるような匂いだ。

 最近の住宅は無駄がない。高気密で便利で遊びがない。それはそっくりそのまま今の日本人の生活そのものじゃないかと思うのだ。家は衣服と同じだと思う。今日何を着ていくのかどうでもいい人は、住む家もどうでもいいのだな。壁に何をかけてもどうでもいい。音楽も何がかっかっていてもどうでもいいのだ。全てがつながっている。

 庭も同じじゃないかな。小奇麗なしゃれた庭でなくてもいいと思う。どうも最近の住宅の洋風化に合わせて庭も洋風化することが多い。ガーデニングなどとこしゃれていうのだが、イングリッシュガーデンやフランス風の庭が自分の生活のスタイルにあっているのかな。もっといえば日本の風土にあっているのかな。まぁ好きに遊べばいいのだけれど、よくよく考えればおかしなものだ。

 雑草が生えないように家の周りをコンクリートで固めている家も多い。狭い上に車が出入りするからだろうけれど、そうすると庭は死んでしまっている。確かにそうすれば湿気も上がらないし、雑草を始末する手間がはぶけるのだけれどね。どうもあまり好きではない。雑草が生えていいと思うんだ。そのほうが自然だな。


 眠くなったのでまた。



 
 昨日授業があって来週は期末テストで授業はなし。無給休暇なので何も嬉しくはないのだが、やっぱり休みはうれしいものだ。その後約一ヶ月半のこれまた無給の夏休みがある。これまた嬉しいような寂しいような話だな。

 写真は美術館の中庭から文学館を見たところ。ここらあたり一体は昔はポンコツヤが並んでいた荒涼とした風景だった。それが美術館がやってきてあたり一体を買い足して大きな森にした。県がやったプロジェクトで唯一成功したものじゃないだろうか。四季折々の木々が美しい陰を落として鬱蒼とした森が市民の憩いの場になっている。まぁ美術館の内容はあまり感心しないけれど、この森を生んだ見識は誉められていいように思う。

 お役人のやることはいつも腹の立つことばかり。今まで管理は県がやっていたのだけれど、お役人というのはトラブルが一番恐ろしいのだな。何もないのが一番いいわけで、そうなると美術館でも厄介な企画は全くやらなくなってしまった。おとなしいやってもやらなくてもあまり変わらないような企画か、お客の入るアニメみたいな作家が目玉だ。この国の文化行政などこんなものだ。そんなんでどにすんねん?というはなし。お金がないからなんだけれど、もともとこういった施設は儲ける為にあるものではないはず。今更急に独立採算にしてこれまた何考えてるんやという感じ。

 面白い企画がないのでこのところほとんど二階の企画室には行っていない。つい最近久しぶりに見せてもらったけれどボナールが二点、それだけだったな、私にとって収穫だったのは。これからどうなるのか、難しいところに来ていると思うな。
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