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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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大きくなったトマトの苗
 いつの間にやらトマトが大きくなった。もうすでに花も咲いて実をつけている。これからが難しいらしい。雨があたると割れる、そこから腐ると脅かされる、ということで袋をかけた、ちょっと過保護だな。どうなるんだろう?でもなかなかかわいいものだ。キュウリやナスなどはいっちょまえの姿かたちをしている。それだけで結構感動する。まぁ生涯で始めての自作農園だからな、人からみたらママゴトみたいなものだ。後はつまで続くかだな。

 今日は結構忙しかった。午前中は絵画教室での指導。どれだけ的確な助言ができるか、自分の力量が問われている気がする。どんな絵にもその人のいいところがあるわけで、それを探して見つけ出す産婆さんのような仕事だな。考えてみると絵を描く行為と似ているような気もする。共に成長できればそれにこしたことはない。メンバーの多くがこのブログを読んでいるようなので、ここまでにしておこう。

 午後はいつもの運送屋さんが明日の絵を取りに来る。自分で運べなくはないが、雨が降ると厄介なのとあまりにも重いので車の屋根に乗せるのが段々怖くなってきた。だから彼に頼むことした。明日は手ぶらで美術館に行けばいい。

 三時からは目医者さんに予約が入っている。特別悪いところはないのだけれど、若干視神経が薄くなっているところがあるらしい。遺伝的なものかそれとも後天的な何かしらの疾患なのかと言うことで、一応定期的に検診した方がいいらしい。飛蚊症もかなりあるし、目と歯と頭は弱い。

 しかし、いつも思うのは医療関係の看護婦さんはどうして子供にいうように言うのだろうか。私が年寄りに見えるのかもしれないけれど、露骨にされると馬鹿にされているような気がして腹立たしくなる。まぁ特に目医者さんは年寄りの方が多いのでそのままの感じで他の患者さんにも接してしまうのかもしれないな。「普通にしゃべらんかい!!」と叫びたくなる。

 

 
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「ながい旅」F130部分 2008

第19回スクエア展
(平面作家8名のグループ展)
2009 6/20~6/26 6/22(月)休
山梨県立美術館
(6/25 在廊予定)
 
 土曜日から県内の平面作家8人のグループ展が始まる。今年の作品は残念ながら大阪展に巡回中なので、昨年の作品を引っ張り出してきた。久しぶりに見て○と思う作品と、×と思う作品がある。自分の目が他人の目になっている、他の人が見て感じる第一印象と同じなんだと思う。その時にだめだと思った作品は×だろう。この「ながい旅」は◎だった。よかった。

 こんなものを描くつもりはなかった。敦煌の壁画とかバーミアンの壁画を眺めていたら、いつのまにかこんなものが出てきた。だから実際に何かを取材してといった話ではないので、色々な約束事は間違えているだろう。大体が知らないのだから正しいも間違いもない。気分とか雰囲気それだけだ。

 シルクロードを通って西欧からキリスト教を初めとして色んな文物が日本に流れてきた。当然中国大陸を経由してくるわけだから純粋に直に西欧から伝わってくる話も少し変化した形で入ってくる。今でも五島列島あたりの隠れキリシタンの賛美歌(オラショ)などを聞くと微妙に和風で面白い。

 バーミアンなどの壁画を見ると仏画なのかキリスト教のイコン風の壁画なのかその両方がミックスされた状態で面白い。技法的にも最古の油彩画が出てきたのもバーミアンの石窟だそうだ。それは仏さんだった。

 今の私は色々なもので出来ている。それは意識されたものから、無意識なものまで数え切れない。遠い昔の私の遺伝子の所までさかのぼって考えると、我々はどこかアフリカの奥地のどこか知らない水辺のほとりで生まれた一対の細胞だった。アダムとイブの一対の細胞はやがて旅をしてここまでやって来た。それはながいながい旅だった。

 閑話休題
 日本は昔から色々な文物が入ってきた。東の端の吹き溜まりといえばうがった見方かな。文字をみればよくそのことが分かる。日本語には文字がなかった。勿論話し言葉はあっただろう。けれどそのことを文字として記録するすべがなかった。それゆえに謡として伝承される歌が重要だったように思う。神との交歓はそのようなかたちで行われたのだろう。

 やがて大陸から漢字が伝わった。古代の人は工夫して日本の音をそれに当てて記号としてそれを使った。万葉かなは不完全ではあったけれど、今まで記録されなかった歌を我々に残した。やがて漢字の一部や変形でひらがなが考案されて日本人の心情をより正確に記録することが出来るようになった。

 漢字混じりのひらがなで音と意味を両方取り込んだのは凄い発明だ。これはその後の我々の物事を柔軟に取り込む思考方法の大きな示唆であるように思うのだな。例えば明治以後凄い勢いで欧化政策が取られた。それは肌の感覚として我々は優れたものを取り込む触覚が自然に備わっているように思う。 最近は英語交じりの日本語になっているからな。まぁ反対に言えば節操なく何でも取り込む猿真似という面もあるけれど、太古以来我々はそうやって生き延びて来たのではないだろうかね。

 

 



 
 畑から収穫できるようになってきた。ほんの少しの耕地だけれど、けっこう色々なものができる。自分たちで食べる分には充分とはいかないけれど、充分楽しめる。また自分で作った作物は少々虫が食っていても平気平気、虫が食うほど上手いみたいな話だ。昨年までのコンテナ栽培とは大きく違うのはルッコラ(イタリアのサラダ菜)などもめちゃくちゃに元気がいい。どんどん大きくなって花盛りだ。小さい方がうまいんだけれど、でもやっぱり元気な方が身体にはいい気がする。

 学校に行かない時は(週の五日)、隠居した年寄り夫婦のような生活だ。それでも最近は結構忙しい。朝起きて出来るだけ、ゆっくり川沿いを散歩する。帰りに畑に寄って、ルッコラを取ってトマトに塩とオリーブオイルで簡単にサラダにする。もうすぐ自家製のトマトも収穫できるだろう。大体朝飯はほとんどバンと紅茶でミルクティーにすることが多い。私はヨーグルトは食べないけれど、あの有名なカスピ海ヨーグルトが何年も続いている。

 朝方の生活パターンになってから、朝飯は私の分担になった。にんじんジュースもほとんど毎日飲む。後は蒸し野菜。これが結構はまっている。茹でるより野菜のうまみが飛ばない。

 アリとキリギリスの話を身にしみて聞いている。けれどどうやっても永遠には生きられない。大きな病気をしてさらにその観を強くした。蓄えは何もないけれど、こうやってほとんど毎日ゆっくり朝飯を食うのは最高の贅沢であろう。今を充分楽しんで生きられたらそれはそれでいいと思っている。後のことはまたあとで考えることにしよう。そういう生き方を選んだ。



 
はる 2916
 村上春樹の「1Q84」を読んだ。彼の作品は大体読んでいるけれど、本当の意味で文学趣味のない私には難しすぎて理解できなかった。けれど、この作品は面白かった。というのか、今の私のフィットする作品だったなぁ。テーマが信仰とか宗教、宇宙とか遺伝子の話、おおいなるもの、そんなことだったので、今の私には身近なテーマだった。

 普通日常で読んでいるのが馬鹿な剣豪小説か、歴史ものが多いので、こういったフィクションというのか全く違う世界を見せられると最初は戸惑ってしまう。現実にはありえない彼の頭の中の世界が実にリアルに描かれているわけだ。嘘も八百並べれば本当らしく見える。

 いつもいっている「あちらの世界」と「こちらの世界」、現実の世界と虚構の世界、常識と非常識、そういったパラレルワールドが不思議なリアリティをもって描かれている。天国へ行って見てきたような嘘を言いとはいいえて妙だ。

 閑話休題
 「方舟6」
 生物は実によく出来ている。それだけではなく、その遺伝情報の伝達の方法もこれ以上は考えられないほど完璧なものだ。

 遠い将来地球上にどんな生物もいなくなる時が必ずやってくる。それはまぁ人間の認識の範囲を越えた宇宙的な時間の中での話だが。多くの他の天体と同じようにこの星の最後がやがてはやってくる。大きく膨張した太陽に吸収合併されるのか、はたまた自ら超新星爆発を起こすのか、それは空想の世界でしかない。

 けれどもそうやっても物理的にこの世から全てがなくなってしまうのではなく、その何かしらのかけらがこの宇宙空間を漂うことになる。そのかけらは私の体の一部だった元素だったかもしれないし、DNAの塩基を形作っていたものだったかもしれない。確実に言えることは、けっして全てはなくなりはしないということだ。何かしらの形で次の新しいものの要素になっている。

 いいたかったことはそんなことではない。我々生物の遺伝の方法は独自のものではないだろう。反対にいえば、こんなに完璧なものが独自に作られるわけがない。どこかの、何かを真似している。多分それは宇宙の成り立ち、生成流転の方法を真似したものだ。

 神は自らの形に似せて人類を作ったという風な話をどこかで聞いた。そう考えると神は自らの中にいるのだと思う。 

 まだ続くかな?



 
はる 2915
 「方舟5」
 どうも、これで書き切ったというきにならないので、うだうだと続いて書いてしまうこの話、どう決着をつけるのかわかりません。またまた今日も考えながら書いて行きますので、とばしてもらってもかまいません。

 まぁこの前の「永遠の故郷」の話とダブルところがあるようにもおもうのだけれど、基本的に「人は何故存在するのか」といった問いから始まっている。

 存在するには存在するための理由が必ずあるはずで、物事には必ず原因と結果がある。何の理由も無く人が偶然にこの世界にあらわれて来たとは思えないのだ。

 もし生命の遺伝子を次に伝えるというだけであるならば、人のこの意思とか思考とかは全く無駄というのか、反対に邪魔であるような気がするのだな。

 少し話題を変えて、生物のこの遺伝子のシステムというのは実によく出来ている。もっといえば生命そのものが実に絶妙なシステムで出来ている。人は最も単純な単細胞アメーバでさえ作り出すことができない。でどんな生物も過去からの情報が無ければ決してこの世に生まれることは出来なかった。虫一匹でさえ連綿と続いたその先端にいる。

 ではこの遺伝子のシステムというのは全くの独創なんだろうか。前に「永遠の故郷」のところで書いた「フラクタルの理論」を思い出してほしい。これは自己相似性という話で、雪の結晶みたいなもので、どんどん拡大していってもまた縮小していっても同じ法則で成り立っているという話だ。

 そこから発想して、実は人というのか生命のこの遺伝子のシステムというのは宇宙の生成流転の成り立ちを真似ているのではないかということなんだな。けっして生命だけがこんな絶妙なシステムを作っているのはおかしい。その大元は多分この宇宙の星たちの一生の真似をしているだけなのではないか。だから反対にこの生命の不思議を解明することは宇宙を知ることでもあるわけだ。まぁそれが超新星爆発の話と上手くリンクして益々その根拠を確かにした。

 で、もう一つは、こうやって意思をもった人類を発生せしめた本当の理由は、実はこういったことを考えて欲しかった。誰がといえば「おおいなるもの」がだ。このおおいなる宇宙の話を実は密かに考えて誰かに発表して欲しかったのじゃないだろうか。出なければ人が発生した理由が上手く説明できない。で、たぶんその考えは失敗だったんだな。

 これで終わりか?まだわからん。

 



 
はる 2914
 星の最後は超新星爆発してその成分を宇宙に撒き散らす、今地球上にある一部の元素もそうやって他の天体からやってきたものもあるらしい。

 人の人生に意味があるのか?ということを考えていて、さて我々ひとり一人は単にDNAの運び屋に過ぎないのではないか、もっといえばあらゆる生物は一つの「源」のバリエーションにすぎないのではないかと思い至った。でその「源」あらゆる手段を使って少しでも自らの分身を遠くに運ぼうとしているのだが、我々人類を作ったのにはそれなりの理由があるはずだと考えた。

 普通もし、単にDNAを遠くまで運ぶだけと考えたなら、こうやって意思ある生物を作ったのは間違いだ。我々人類はそういった意味では遠いところに運ぶ邪魔をしている。作為、意思、思考そのものが「源」の考えとは反対のことで、より遠くへ運ぶというだけならば人類を誕生させたのは間違いだった。

 それでも尚且つ、人類を誕生させたのには「おおいなる源」の意思だったとするなら、その意味は何だろう。少し前に考えたようにDNAを電脳に移し変えて宇宙に発信するというものなかなか面白いはっそうだけれど、たぶんそれは違うだろうな。そんなことをしなくともちゃんと情報は伝わるようにはなっているのだろう。もしそのためだとしたら、それはあまりにも危険すぎるだろう。

 最初に戻るのだけれど、この地球の物質には他の天体からやって来た元素も含まれているといったことを考えると、一つの星の滅亡は次の星の誕生に関わっている。この話は何だか我々生物の運命と似ている。

 眠くなった。続きは又。

 
 ラフマニノフ・ボカリーズ
キャサリン・バトル
 
 日曜の夜遅くこれがラジオから流れてくると何故か泣けてくる。そんなラジオ番組があったような気がするな。明治チョコレートが提供していた。学生の頃は深夜放送をよく聴いていた。ところが日曜の夜は深夜放送がなかったから余計に寂しさが身にしみた。そんなことを思い出す。

 ラフマニノフはロシアのクラッシック界の巨人だけれど、こんな美しいセンチメンタルな小品も描いている。
  
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