画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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はる 2996
今日から三彩堂で「裸婦クロッキー展」をやっている。機会があれば覗いていってやってください。私も3点ほど出品しています。以下はその宣伝
「裸婦クロッキー展」
2009 9/2~9/9 9/7休み
甲府市貢川1-1-12
055-226-8393
世の中の全てのものは動いている。動いているという言い方は正確ではない。同じ状態であることは出来ないといった方がより正確か。水が高いところから低いところに流れるように、この世のすべてのものは常にある方向に向かって進んでいる。この宇宙の星達もこの宇宙そのものも例外ではない。そしてある一定の限界、臨界点に達すると膨張したり爆発したり、融合したりして他の物質を取り込んだり、吸収したり、その一部を自分のものにしたりして新しい星に生まれ変わる。これは星だけではない宇宙そのものがそんことを繰り返しているのだろう。したがって今ある宇宙はすでに何世代か生まれ変わった後の形ではないかと思っている。
幾度となく書き散らかしていることなのだが、生命の発生のプログラムは多分この宇宙の誕生から衰退して消えてゆくまでを模倣しているのではないかと思う。でなければこんなに都合よく何の見本もなく生命が生まれるわけがない。と考えると我々は宇宙そのものだということになる。少なくとも宇宙の遺伝子をもっていることになる。
神というのが本当に存在するのかどうかそのことの直接的な答えではないけれど、その大きな理はたぶん神がつくったというのか、大いなるものを真似たものであるきがする。だからどうしたといわれれば困るのだけれど。
話が変わって
ミクストメディアの面白いところは、いやそんなものは百も承知だといわないで少し聞いて欲しい。
人のスタイルというのは意外に変化しないものだ。特に長年その道で生きてきたものにとって自分のスタイルというのは変え難いものだ。こうやればこうなってどういった効果が生まれるか、知り尽くすことになる。まぁそれが熟練するということだな。ところでどうなんだろうか、自分が絵を描く理由を考えると、そういった分かりきったものを作り出すことが目標、目的なんだろうかね。確かに確実に熟練はするのだけれど、職人のようにきっちり形あるものを作り出すということが目的なんだろうか。結果的に絵が出来てくるのだけれど目的ではない。
自分のスタイルだけでやっていると煮詰まってくるんだな。軽い自家中毒に近い状態になる。まぁ反面そこまで突っ込んで自家中毒にならなければ本物にはなれんという話もわかるけれどね。私の知り合いの日本画のブログを読むと、現場に行って泊り込んで具合が悪くなって救急車のお世話になったというふうなことが臨場感たっぷりに報告されていたけれど、それはそれで一つのスタイルで尊敬はできるのだけれどね。徹底して見つめることで見えてくるものだあるだろう。愚直に、私はそこまでというのかまるっきりそこまで自家中毒にはなれないなぁ。
新しいものが生まれる瞬間というのは、考えて出来るものではないきがする。どこか偶然というのか人智を超えたある種の啓示によって気がつくというのか、知らされるのではないかな。その方法は人によってさまざまだとはおもうのだけれどね。
自分では考えつかないような色や形、肌触りなどコラージュすることによって画面に持ち込むことが出来る。
続きは又だな、眠くなった。
今日から三彩堂で「裸婦クロッキー展」をやっている。機会があれば覗いていってやってください。私も3点ほど出品しています。以下はその宣伝
「裸婦クロッキー展」
2009 9/2~9/9 9/7休み
甲府市貢川1-1-12
055-226-8393
世の中の全てのものは動いている。動いているという言い方は正確ではない。同じ状態であることは出来ないといった方がより正確か。水が高いところから低いところに流れるように、この世のすべてのものは常にある方向に向かって進んでいる。この宇宙の星達もこの宇宙そのものも例外ではない。そしてある一定の限界、臨界点に達すると膨張したり爆発したり、融合したりして他の物質を取り込んだり、吸収したり、その一部を自分のものにしたりして新しい星に生まれ変わる。これは星だけではない宇宙そのものがそんことを繰り返しているのだろう。したがって今ある宇宙はすでに何世代か生まれ変わった後の形ではないかと思っている。
幾度となく書き散らかしていることなのだが、生命の発生のプログラムは多分この宇宙の誕生から衰退して消えてゆくまでを模倣しているのではないかと思う。でなければこんなに都合よく何の見本もなく生命が生まれるわけがない。と考えると我々は宇宙そのものだということになる。少なくとも宇宙の遺伝子をもっていることになる。
神というのが本当に存在するのかどうかそのことの直接的な答えではないけれど、その大きな理はたぶん神がつくったというのか、大いなるものを真似たものであるきがする。だからどうしたといわれれば困るのだけれど。
話が変わって
ミクストメディアの面白いところは、いやそんなものは百も承知だといわないで少し聞いて欲しい。
人のスタイルというのは意外に変化しないものだ。特に長年その道で生きてきたものにとって自分のスタイルというのは変え難いものだ。こうやればこうなってどういった効果が生まれるか、知り尽くすことになる。まぁそれが熟練するということだな。ところでどうなんだろうか、自分が絵を描く理由を考えると、そういった分かりきったものを作り出すことが目標、目的なんだろうかね。確かに確実に熟練はするのだけれど、職人のようにきっちり形あるものを作り出すということが目的なんだろうか。結果的に絵が出来てくるのだけれど目的ではない。
自分のスタイルだけでやっていると煮詰まってくるんだな。軽い自家中毒に近い状態になる。まぁ反面そこまで突っ込んで自家中毒にならなければ本物にはなれんという話もわかるけれどね。私の知り合いの日本画のブログを読むと、現場に行って泊り込んで具合が悪くなって救急車のお世話になったというふうなことが臨場感たっぷりに報告されていたけれど、それはそれで一つのスタイルで尊敬はできるのだけれどね。徹底して見つめることで見えてくるものだあるだろう。愚直に、私はそこまでというのかまるっきりそこまで自家中毒にはなれないなぁ。
新しいものが生まれる瞬間というのは、考えて出来るものではないきがする。どこか偶然というのか人智を超えたある種の啓示によって気がつくというのか、知らされるのではないかな。その方法は人によってさまざまだとはおもうのだけれどね。
自分では考えつかないような色や形、肌触りなどコラージュすることによって画面に持ち込むことが出来る。
続きは又だな、眠くなった。
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