画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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はる 2997
かぼちゃは偉い。種一つからかぼちゃがすでに6つ取れている。今まだ3つ大きくなっているので都合10個以上は出来るだろう。初めは自然に放っておいたのだが、かわいい雌花が付いたと思ったらニ三日すると黄色くなってしぼんでいた。家庭菜園の指南書を買って読むとなんと人工授精しろということだった。放っておいても二つに一つは実をつけるようだけれど、人工授精したほうがより確実らしい。同じツルに雄花と雌花が付くことさえ知らなかったのだから、なんと無知だったのだろうか。しかし、かぼちゃはかなり繁殖力が旺盛だな。さすがに飢饉の植物だけのことはある。切らずに置いておけばかなりの間保存することができるし、完全な無農薬野菜だし、この冬は甲州名物のほうとうを自家製のかぼちゃで食うことができる。めでたしめでたし。
「このところ考えていることの続き」
ピカソやブラックがコラージュを始めた理由はなんだろうか。古い新聞紙や雑誌を切り抜いて自分の作品の仲の一部として取り込んだ。文字や写真という当時珍しい新しい媒体を画面の中に持ち込んだということが新しかった。それに例えばコップをコップとして画面に再登場するのではなく、全く関係のない果物や花などに変えてしまうそんなところが凄く斬新で新しかったように思う。
価値の転換、見立てるというのはお茶の世界のはなしだけれど、新しい価値の発見というのが芸術の一つの大きな要素だとおもうんだな。今までは何でもなかったものを、これにはこういった価値があるんだと言ってのけること、そのことが面白い訳だ。骨董の青山二郎はこんなことを言っている。
「優れた画家が、美を描いた事はない。
優れた詩人が、美を歌った事はない。
それは描ききれるものではなく、
歌い得るものでもない。
美とは、それを観た者の発見である。
創作である」
ミクストメディアはある意味で異なる材質のコラージュだと思う。紙だけではなく布や木、土、その他親水性のあるものならあらゆるものが画材として画面の中に持ち込むことが出来る。絵の具にしても一番元のところまで下がって「絵の具は色の粉だ」というところまで還元できる。そうやって私は多くの新しい絵の具を手に入れた。
何故だろうというのが私の癖だ。そしてどんどん前に戻って行く。何か物事を考える時にそうなった一つ前の理由を足がかりに考えて行く。数学の演繹的にはそうやって考えて行くといつかは元のオリジナルなものにぶつかるだろう。
もう少し考えをすすめて行く。徒然なので結論の出るものではありません。
かぼちゃは偉い。種一つからかぼちゃがすでに6つ取れている。今まだ3つ大きくなっているので都合10個以上は出来るだろう。初めは自然に放っておいたのだが、かわいい雌花が付いたと思ったらニ三日すると黄色くなってしぼんでいた。家庭菜園の指南書を買って読むとなんと人工授精しろということだった。放っておいても二つに一つは実をつけるようだけれど、人工授精したほうがより確実らしい。同じツルに雄花と雌花が付くことさえ知らなかったのだから、なんと無知だったのだろうか。しかし、かぼちゃはかなり繁殖力が旺盛だな。さすがに飢饉の植物だけのことはある。切らずに置いておけばかなりの間保存することができるし、完全な無農薬野菜だし、この冬は甲州名物のほうとうを自家製のかぼちゃで食うことができる。めでたしめでたし。
「このところ考えていることの続き」
ピカソやブラックがコラージュを始めた理由はなんだろうか。古い新聞紙や雑誌を切り抜いて自分の作品の仲の一部として取り込んだ。文字や写真という当時珍しい新しい媒体を画面の中に持ち込んだということが新しかった。それに例えばコップをコップとして画面に再登場するのではなく、全く関係のない果物や花などに変えてしまうそんなところが凄く斬新で新しかったように思う。
価値の転換、見立てるというのはお茶の世界のはなしだけれど、新しい価値の発見というのが芸術の一つの大きな要素だとおもうんだな。今までは何でもなかったものを、これにはこういった価値があるんだと言ってのけること、そのことが面白い訳だ。骨董の青山二郎はこんなことを言っている。
「優れた画家が、美を描いた事はない。
優れた詩人が、美を歌った事はない。
それは描ききれるものではなく、
歌い得るものでもない。
美とは、それを観た者の発見である。
創作である」
ミクストメディアはある意味で異なる材質のコラージュだと思う。紙だけではなく布や木、土、その他親水性のあるものならあらゆるものが画材として画面の中に持ち込むことが出来る。絵の具にしても一番元のところまで下がって「絵の具は色の粉だ」というところまで還元できる。そうやって私は多くの新しい絵の具を手に入れた。
何故だろうというのが私の癖だ。そしてどんどん前に戻って行く。何か物事を考える時にそうなった一つ前の理由を足がかりに考えて行く。数学の演繹的にはそうやって考えて行くといつかは元のオリジナルなものにぶつかるだろう。
もう少し考えをすすめて行く。徒然なので結論の出るものではありません。
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