画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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午後から歯医者に行く。歯のメンテナンスは割りとよくしている方だと思うのだが、それでも段々にもろくなってちょっと硬いものを食べたりすると欠けたりするようになってきた。胃を取ってしまったので少しずつカルシュウムが不足するそうだ。まぁ仕方ない。
そういえば、少し前まで保険証を使うことがなくて、どこかにしまって忘れてしまったというようなことがあったのに、今じゃ自慢じゃないが、歯医者に目医者に定期健診とフル活用だ。何だかな、全体にガタガ来たということかな。
明日は山梨県立美術館で開催している、グループ展(スクエア)の当番です。午前中は確実に居ますので、都合がつけば来てください。お待ちしています。
そういえば、少し前まで保険証を使うことがなくて、どこかにしまって忘れてしまったというようなことがあったのに、今じゃ自慢じゃないが、歯医者に目医者に定期健診とフル活用だ。何だかな、全体にガタガ来たということかな。
明日は山梨県立美術館で開催している、グループ展(スクエア)の当番です。午前中は確実に居ますので、都合がつけば来てください。お待ちしています。
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はる 3281
大体これで行けるのじゃないか、と思ったのはそう昔のことじゃない。それまではあっちに行ったりこっちに来たりで何だかどこかで見たような絵を描いていた。
木村忠太を見れば忠太風に三岸節子をみれば三岸風にというわけだ。いいと思ったものをどんどん真似していた。というのか自然にそんな様になってしまう。けっこう抽象的な仕事から日本画のような硬い描写まで、一時はそれでも最前線を行っているつもりだった。
団体展に出品するようになって、最初は日展系の団体だったので、わりと穏健な描写をしていた。そういった方向を要求されていると思っていたのでね。生意気にも団体展用の作品と自分のやりたい作品とを分けていた。どんどん具体的な描写から離れてきてどうにも苦しくなってきた。その時にちょうど落選してしまったので、それを引き金にやめてしまった。まぁ今から考えると、悩むほど作品のグレードは高くなく、落ちるべくして落ちたというのが真実だと思う。やりたいようにやってだめならだめでいい。それだけのことだ。
絵を描いて暮らして行きたいという願望はあったけれど、それが要するに「売り絵」のような絵を描くことではなく、「自分の絵」を描いて果たして売れるものなのか、それを生業にして食っているというのはどういうことなのか?ほとんど誰も身近にそういった人がいなかったので分からなかった。
富士山描いたり、綺麗な花や美少女描いたり、モンマルトルの丘に行けば似顔絵かきが今でも哀愁を漂わせて観光客に媚を売っている。一世代前のボヘミアンを演じているだけでそれがアーティストだとはとても思えない。そんな風に生きたいわけでもないだろう。ドラマの主人公でもあるまいにね。一生それで生きられるならそれでもいいけどね。
何のために絵を描いているのか?生業じゃないなら何なんだ。個展を毎年始めた。やってもやっても絵など売れないし、誰からも何も言われないし、このままやってても意味ないのじゃないか、思い悩む日々。でもまぁ少しは気に入ってくれる人もいたから慰められたけれどね。兎に角毎年個展をやって一年の成果を見てもらう。大きな作品も」小さな作品も含めて、毎年の成果を報告する。まぁそれでいいかとも思っていた。だめならだめでそれも私の生き方、生き様だからね。
そうやって生き様を晒すことが、即自分の芸だと気づいたらすごく楽になった。「こたえてください」「いのりのかたち」「おおいなるもの」これで行けるかなと振り返ったら、絵を描いて生きてきた自分がいた。
誰でもわかることを分かりやすく。これかな。
大体これで行けるのじゃないか、と思ったのはそう昔のことじゃない。それまではあっちに行ったりこっちに来たりで何だかどこかで見たような絵を描いていた。
木村忠太を見れば忠太風に三岸節子をみれば三岸風にというわけだ。いいと思ったものをどんどん真似していた。というのか自然にそんな様になってしまう。けっこう抽象的な仕事から日本画のような硬い描写まで、一時はそれでも最前線を行っているつもりだった。
団体展に出品するようになって、最初は日展系の団体だったので、わりと穏健な描写をしていた。そういった方向を要求されていると思っていたのでね。生意気にも団体展用の作品と自分のやりたい作品とを分けていた。どんどん具体的な描写から離れてきてどうにも苦しくなってきた。その時にちょうど落選してしまったので、それを引き金にやめてしまった。まぁ今から考えると、悩むほど作品のグレードは高くなく、落ちるべくして落ちたというのが真実だと思う。やりたいようにやってだめならだめでいい。それだけのことだ。
絵を描いて暮らして行きたいという願望はあったけれど、それが要するに「売り絵」のような絵を描くことではなく、「自分の絵」を描いて果たして売れるものなのか、それを生業にして食っているというのはどういうことなのか?ほとんど誰も身近にそういった人がいなかったので分からなかった。
富士山描いたり、綺麗な花や美少女描いたり、モンマルトルの丘に行けば似顔絵かきが今でも哀愁を漂わせて観光客に媚を売っている。一世代前のボヘミアンを演じているだけでそれがアーティストだとはとても思えない。そんな風に生きたいわけでもないだろう。ドラマの主人公でもあるまいにね。一生それで生きられるならそれでもいいけどね。
何のために絵を描いているのか?生業じゃないなら何なんだ。個展を毎年始めた。やってもやっても絵など売れないし、誰からも何も言われないし、このままやってても意味ないのじゃないか、思い悩む日々。でもまぁ少しは気に入ってくれる人もいたから慰められたけれどね。兎に角毎年個展をやって一年の成果を見てもらう。大きな作品も」小さな作品も含めて、毎年の成果を報告する。まぁそれでいいかとも思っていた。だめならだめでそれも私の生き方、生き様だからね。
そうやって生き様を晒すことが、即自分の芸だと気づいたらすごく楽になった。「こたえてください」「いのりのかたち」「おおいなるもの」これで行けるかなと振り返ったら、絵を描いて生きてきた自分がいた。
誰でもわかることを分かりやすく。これかな。
今日は天気が悪いということだったが、朝からけっこういい天気。ということで生徒と風景スケッチにでかける。日差しはもう真夏のよう。ぐんぐんと気温は上昇をつづける。私は涼しい木陰でうつらうつら、生徒にはわからぬように。
絵を描かせるとてきめんに得意不得意が出てくる。私など絵が好きだった者にはなんでもないことが、描けない人には分からないようだ。高校生にもなって遠近法が上手く使えない。樹が地を這うように描いてもなんとも思わないのだから不思議だ。
モチベーションをあげるために御まじないをかける。これだけを知っていれば絵が描けると力説。(そんな即席の方法はないのだが・・)生徒をその気にさせる。豚もおだてりゃ樹に登る。そんな時黒板に描いた絵が↑の絵。そんな気になったかな?
絵を描かせるとてきめんに得意不得意が出てくる。私など絵が好きだった者にはなんでもないことが、描けない人には分からないようだ。高校生にもなって遠近法が上手く使えない。樹が地を這うように描いてもなんとも思わないのだから不思議だ。
モチベーションをあげるために御まじないをかける。これだけを知っていれば絵が描けると力説。(そんな即席の方法はないのだが・・)生徒をその気にさせる。豚もおだてりゃ樹に登る。そんな時黒板に描いた絵が↑の絵。そんな気になったかな?
美術館前のコンビニについて
県が肝いりで造った施設で、現在もなおうまく使われているものは多分県美ぐらいではないでしょうか。後のいわゆる箱物はすべて知事の名前を残すためだけに造られたようなところがあります。
県が肝いりで造った施設で、現在もなおうまく使われているものは多分県美ぐらいではないでしょうか。後のいわゆる箱物はすべて知事の名前を残すためだけに造られたようなところがあります。
県美の周り一体は春には新緑が、夏には濃い緑が木陰を作り、秋には銀杏並木が独特の雰囲気をかもし出し、冬は富士山を借景に築山が盆地をイメージさせてくれる美しい庭を造った。県内外からも未だに多くの来館者があるわけだから、唯一の、たった一つの成功例ではないかな。美術館の最近の企画はノーコメントですが。
しかし、多くの施設もそうですが、作ってしまえば後はどうでもいいようです。そこにあるということだけで満足してしまう、何か新しく企画するとか面白くするとか、県民のために何かをするという発想がそもそもないのです。これがお役人根性という元凶です。
ミュージアムショップとかレストランは利用者の大いなる楽しみであるはずが、だれもそんなことは考えていません。ただのファミレスです。すごくいい宝をもちながらが誰も利用しない、させないのはどうしてでしょう。
さて、美術館前の施設は随分と前から色々と変わってきました。一等地でありながら、どんな商売も上手く行きません。で最後はスラム化したお店が並んでいました。寂しい限りです。
県が何も要望しないから、指導しないから、方針がないから、場当たり的にしか仕事をしないから、結局無難なだれがやっても変わりないような、コンビ二しか誘致できないのです。
最低でも何かしら「芸術の森」の雰囲気に似合ったような意匠にする。そのことを「意識した」ということが大事なような気がしますね。そこから何かが変わるかもしれませんね。
二十歳前後のことはあまりくわしく書いていない。まぁその頃は一番荒れていた頃かもしれないなぁ。高校を卒業して、何とはなしに大学には入ったのだけれど、どうにも面白くなくて学校に行くよりアルバイトに出かける方が楽しかった。まだ絵を描いているわけでもなく、何をやればいいのか、将来の仕事のこと、色んなことが何も見えなくて悶々としていた。まぁ誰でもが、たぶんそうだと思うのだけれど、二十歳前後というのは危ない季節でもある。
高校時代にでも美大にゆくとか、何かしらそういった方向に行くといった指針が立っていればまた違ったのだろうけれど、その頃はまったくそんなことは考えてもいなかった。
少し前に書いたけれど、その頃はジャズ喫茶が出来ればなぁ・・と漠然と考えていた。何の特技もないなら実際に自分では演奏などできないのだから、少しでも好きな音楽のことを勉強して、そこそこの知識をもって喫茶店でも出来ればいいかなぁ浅はかにも考えていた。夢と言えばちっぽけな夢だけれど、まぁそのくらいしか考えられなかったな。
で、なぜやめたたかといえば、バイト、バイトで時間の切り売りをしているうちに段々とむなしくなってきた。仕事が単に時間をお金に変えているだけじゃつまらんだろう。今はいい、だけど今のうちに一生かけられる仕事を探さなきゃ。人生そんなもので終わってしまう。何よりも、今はもっと誰にもまねの出来ない技術なり芸なりを習得すべきなんじゃないか、勉強するべきじゃないかと強く思った。誰かに言われたのかもしれない。
で考えたのは、小さい時から何か物を作るのが好きだったので、何かしらの職人しごとがいいかなと思ったんだな。たまたま求人広告を見ていたら、京都で焼き物の絵付けの職人を募集していたので、とりあえず学生のままアルバイトで働くことにした。おかしな話だが、大阪の学校に通いながら、住まいは京都と大阪の境で今の八幡市のもっと田舎の方に農家の離れを借りて住んでいた。駅までバスで30分くらいかかる辺鄙なところだ。
学校を卒業してそのまま就職して、ここには二年ほどいた。住み込みでやれと店の人に言われたけれど、かたくなに通いで通した。焼き物の修行をやるならここじゃ物足りないし、まぁここで一生やるつもりはなかったのかもしれない。まだ根性が定まらなかった。ここをやめたきっかけは親父が死んだからだ。どうにもこうにも続ける気力がなくなった。こんな御みやげやのような品物を作って一生終わりたくない。漠然と自分の芸を売りたい、作家になりたいという夢が出てきた。まだ言葉にはならなかったけれどね。
そこからがけっこうきつかった。もう一度受験勉強を始めたからだ。一年だけやってみようと思った。それでだめなら他を考える。午前中は八百屋の倉庫の下働き。朝市場から仕入れた野菜や果物がやってくる。それを倉庫に仕分ける仕事が主なしごと。大きな八百屋さんだったのでバイト学生など常備10人前後はいた。最後の頃はそういったバイトのまとめ役みたいなことをしていた。年も上だったけれど、時給も少しは高かった。社長にかわいがってもらった。受験するなどと言うことは言わなかったけれど、薄々気がついていたようだ。最後に受かってやめると報告に行ったときは、ご祝儀をくれて本当に喜んでくれた。
午後からは京都の関西美術院という岡崎公園の近くにある美術研究所にデッサンの勉強に通った。後で知ったのだが、ここはかなり由緒ある研究所で、明治の頃、黒田清輝と張り合って負けた浅井忠が起こした聖護院美術研究所が前身だった。受験の予備校ではなかったのね。だから不思議とほとんど誰もいない教室でゆっくりとデッサンできた。まぁ反対に指導された覚えもないけれどね。
疲れたので続きはまた。
高校時代にでも美大にゆくとか、何かしらそういった方向に行くといった指針が立っていればまた違ったのだろうけれど、その頃はまったくそんなことは考えてもいなかった。
少し前に書いたけれど、その頃はジャズ喫茶が出来ればなぁ・・と漠然と考えていた。何の特技もないなら実際に自分では演奏などできないのだから、少しでも好きな音楽のことを勉強して、そこそこの知識をもって喫茶店でも出来ればいいかなぁ浅はかにも考えていた。夢と言えばちっぽけな夢だけれど、まぁそのくらいしか考えられなかったな。
で、なぜやめたたかといえば、バイト、バイトで時間の切り売りをしているうちに段々とむなしくなってきた。仕事が単に時間をお金に変えているだけじゃつまらんだろう。今はいい、だけど今のうちに一生かけられる仕事を探さなきゃ。人生そんなもので終わってしまう。何よりも、今はもっと誰にもまねの出来ない技術なり芸なりを習得すべきなんじゃないか、勉強するべきじゃないかと強く思った。誰かに言われたのかもしれない。
で考えたのは、小さい時から何か物を作るのが好きだったので、何かしらの職人しごとがいいかなと思ったんだな。たまたま求人広告を見ていたら、京都で焼き物の絵付けの職人を募集していたので、とりあえず学生のままアルバイトで働くことにした。おかしな話だが、大阪の学校に通いながら、住まいは京都と大阪の境で今の八幡市のもっと田舎の方に農家の離れを借りて住んでいた。駅までバスで30分くらいかかる辺鄙なところだ。
学校を卒業してそのまま就職して、ここには二年ほどいた。住み込みでやれと店の人に言われたけれど、かたくなに通いで通した。焼き物の修行をやるならここじゃ物足りないし、まぁここで一生やるつもりはなかったのかもしれない。まだ根性が定まらなかった。ここをやめたきっかけは親父が死んだからだ。どうにもこうにも続ける気力がなくなった。こんな御みやげやのような品物を作って一生終わりたくない。漠然と自分の芸を売りたい、作家になりたいという夢が出てきた。まだ言葉にはならなかったけれどね。
そこからがけっこうきつかった。もう一度受験勉強を始めたからだ。一年だけやってみようと思った。それでだめなら他を考える。午前中は八百屋の倉庫の下働き。朝市場から仕入れた野菜や果物がやってくる。それを倉庫に仕分ける仕事が主なしごと。大きな八百屋さんだったのでバイト学生など常備10人前後はいた。最後の頃はそういったバイトのまとめ役みたいなことをしていた。年も上だったけれど、時給も少しは高かった。社長にかわいがってもらった。受験するなどと言うことは言わなかったけれど、薄々気がついていたようだ。最後に受かってやめると報告に行ったときは、ご祝儀をくれて本当に喜んでくれた。
午後からは京都の関西美術院という岡崎公園の近くにある美術研究所にデッサンの勉強に通った。後で知ったのだが、ここはかなり由緒ある研究所で、明治の頃、黒田清輝と張り合って負けた浅井忠が起こした聖護院美術研究所が前身だった。受験の予備校ではなかったのね。だから不思議とほとんど誰もいない教室でゆっくりとデッサンできた。まぁ反対に指導された覚えもないけれどね。
疲れたので続きはまた。
「あるものでなんとかする」というのをブリコラージュというらしい。そんなしゃれた言葉があったなんてね。
「猫の後姿」より
http://ameblo.jp/e-no4765/
*****************
http://ameblo.jp/e-no4765/entry-10558067481.html
最近驚いたことが一つ。少し前にコメントいただいた人が、私が最初に絵の手ほどきを受けた教室の同じ生徒だったということ。もう40年近く前の話になるのですが、私がそのことをブログに書いたことがきっかけで、訪ねてこられたそうです。
私のことを知らなければ誰も来ない閑古鳥サイトでありながら、実はコアな関係でつながっているんだなと感心したしだい。どんな言葉で検索されるか、引っかかるかということが、これからはとても大事な要素になりますね。まぁだからといってカウンターの数字が上がるからいいサイト、ためになるサイトとは思いませんがね。
「猫の後姿」より
http://ameblo.jp/e-no4765/
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http://ameblo.jp/e-no4765/entry-10558067481.html
最近驚いたことが一つ。少し前にコメントいただいた人が、私が最初に絵の手ほどきを受けた教室の同じ生徒だったということ。もう40年近く前の話になるのですが、私がそのことをブログに書いたことがきっかけで、訪ねてこられたそうです。
私のことを知らなければ誰も来ない閑古鳥サイトでありながら、実はコアな関係でつながっているんだなと感心したしだい。どんな言葉で検索されるか、引っかかるかということが、これからはとても大事な要素になりますね。まぁだからといってカウンターの数字が上がるからいいサイト、ためになるサイトとは思いませんがね。
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