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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 上から下に見てください。一番上は色んな絵の具のしみが重なってただ単に汚くよごれているだけに見えます。段々に近づいて見ているうちにギターを弾いて唄っている帽子を被ったおっさんが現れて来ました。それにあわせて、後ろの方には笛を吹いてあわせている道化が出てきます。まぁこれからどうなるか分かりませんが、今日のところはそんな感じかな。

 二三日前の話。パソコンのソフトが壊れましたという表示が出た。このブログをよく訪ねてくれている方はご存知かとおもうのですが、私のパソコンは中古のパソでバージョンは少し前のXPを使っている。なぜXPかといえば、今まで持っていたソフトが使えるからで、はっきり言えばマイクロソフトのオフィス2000がそのまま使えるからだ。

 中古パソコンの場合、このマイクロソフト社のオフィス2000を付けるとそれだけで4,5万してしまうので、ほとんどの場合よく似たキングソフト社のオフィスが入っている。調べてみるとこの会社は中国の会社でキングソフトオフィス2010は五千円程度で購入できる。しかもほとんどまがいものかと思うほどマイクロソフト社のオフィスに似ているのだな。これでよくマイクロソフト社は文句を言わないのかな?と不思議に思う。まぁそれは置いといて、話を前に進める。

 で、私はキングソフトなど使っていないので別に壊れても痛くもないわいと高をくくっていたのだが、しばらくして今までストックしてあったマイクロソフト社のワードの文章やエクセルの表があたらに書き込めなくなっていることに気がついた。よく見るとアイコンが全てキングソフト社のものにすりかわっている。これには驚いた。何でこうなるの?

 あせって、キングソフト社の誘導に乗ってクリックすると、お試し期間が終わったので、あたらにシリアルナンバーを購入しないとマイクロ社の文章は読めないし書き込めないよなどと脅し文句が書かれている。これって要するにウィルスということ?まぁ五千円だし仕方ないかなと一瞬諦めかけたのだけれど、ちょっと待て。ひょっとすると、同じような手口で引っかかっている仲間がいるのじゃないかと思って「キングソフト マイクロソフト オフィスソフト」でグッグってみた。

 やっぱり解決の方法はありました。ありがたい。以下の方法で解決します。

1.「スタート」メニューから「すべてのプログラム」を選択します。
2.「Kingsoft Office ****(バージョン名)」を選択し、「Kingsoft Office ツール」の「詳細設定」を選択します。
3.「Kingsoft Office 詳細設定」ウィンドウが表示されるので「詳細」ボタンをクリックします。
4.「関連ファイル」タブを選択し、上の 3 つのチェックマークを外します。(チェックマークは全部で 6 つあります)
5.「OK」ボタンをクリックします。
6.Microsoft Office の形式で保存されているデータ(Word ファイル、Excel ファイル、Powerpoint ファイル)のアイコンが Microsoft Office のアイコンに変更されていることを確認します。
 



 
 今日は定時制のお勉強。一学期最後の授業でちょっと怒鳴ってしまった。いつもは何となくかわせてしまえるのだが、突然何かが切れてしまった。この先生怒るんだ!と言う風な顔で見ていた。どうにも底を見られた感じでしっくりしない。ヤダナァ・・。怒るならもっとあらいざらいぶちまけるほど怒ってしまえばいい。中途半端だったから、後に残る。まぁ生身の人間だから仕方ない。

 世の中に出る方法は、百人いれば百通りの方法があるのだろう。例えば同じ才能ならうんと若いとか、ずば抜けて技術が高いとか、もっと下世話で言えば親が有名人だとか、強力なパトロンがいるとか、芸能人だったとか、強力な地盤、看板、かばんを持っているとか・・。

 自分の持っている売りが何なのか、そのことに気付くこと、そのことが世の中に出る一番の近道かもしれない。切実にそう思うならね・・。

 しかし、よく見れば全ては危ういところに立っている。若いはいずれ老いてゆくだろうし、技術はいつしかお衰える。後の付属品に至っては、夢まぼろしのごとしだ。

 自分自身をみつめることだ。そこには何の嘘も隠し事もない。正真正銘の無垢な自分がいる。それを描かなくて表現に何の意味があるのだろうか。

 大事なことは自分のスタンスを変えないことだ。相手の都合に合わせないことだ。だめならだめでいいと覚悟を決めることだ。たった一人でも「いい」と言ってくれる人がいればそれで充分だ。その人のために作品を作ろう。

 そうやって考える世の中に出るとか出ないとかは大して意味がないことに気付くはずだ。
 



 
 
 今日は暑かった。起きてすぐに久しぶりに散歩に出かける。もうすでに真夏の太陽がギラギラ、午前中涼しいうちに気になっていた畑の草取りをする。ここで汗びっしょり、シャワーを浴びて朝飯を食う。朝はパン食が多い。自家制の春菊やバジルの入ったトマトのサラダ、きゅうりの酢の物に紅茶。昨日いただいた桃が初物でおいしかった。いつも朝飯は夫婦そろってゆっくり食べる。自由業の一番うれしいところ。あぁサラリーマンでなくて良かったと思う。

 アトリエに入ってお昼まで少しばかり仕事をする。このところ忙しくて絵の前に座っていなかった。やりだすと眠くなる。何をやっているのか、馬鹿馬鹿と自分をののしる。それでも何枚か新しいイメージを画布にデッサンする。これから約5,60枚作品を作る予定。出来るのかしら?と多少不安もある。まぁいつものことだから何とかなるでしょう。

 午後からは先日来、阪急や、千葉の山口画廊から返ってきた作品の整理をする。すぐにいらないものを倉庫に神戸に持ってゆくものを選んで梱包の準備。これでまた汗びっしょりだ。アトリエにクーラーが必要かな。倉庫はこれがまたビルの三階にあるので一苦労。いつまでこんなことが出来るのだろうか。



 
 今日の朝日新聞の日曜版に現代美術のコレクターの話が出ていた。佐藤辰美さんという。興味があったらグッグってみればいい。何かでるだろう。その筋では有名な人かもしれないのでね。

 最初に青山二郎の話がでていたので興味を持った。「美は発見である、創作である」このことの意味は大きい。彼が現代美術に興味を持ったのは「分からない」からだそうだ。分かるものは今の自分のレベルで理解できるものでしかない、分からないものは自分の今の基準を超えたものであるかもしれないのだ。まぁただのガラクタである可能性もあるわけだけれど、自分はそれに賭ける。そのリスクを背負うことが現代美術を理解する動機にもなるという。

 まぁ基本になっている考え方は骨董品を見る見方と同じだな。評価の定まらない新しい美を見つけたということに価値がある。利休が朝鮮の日常雑器に美を見出したようにね。彼が注目したのがたまたま現代美術だったので、こんなところで話題になっているけれど、コレクターの世界では極当たり前のことかもしれないな。

 その彼が最後に現代の美術界に苦言を呈している。

「日本のギャラリーは委託販売制なので,売れなくても責任がないので危機感がない。買取制にしてリスクを背負ってやってほしい。美術館も海外から借りた作品の展示ばかりで勉強が足りない。本来は研究機関なのだから研究の成果の発表の場にするべきだ・・などなど」

 極普通の当たり前のことを言っているのに、これが新鮮に聞こえるのは世の中の方がおかしいからだ。
 



 
 格安の神戸行きのチケットをネットで注文した。私は用心深い性格なのでほとんどカードで決済することはなくて、いつも大体ダイビキでお願いする。少し高くはなるけれど、どうもカードというのが信用できないというのか、何かどこかで情報が漏れるのではないかと安心できないのだな。田舎者ということだ。

 で、今回も銀行振り込みにしてチケットそのものは郵便書き留めで送ってもらうことにした。ところがこの郵便書き留めというのがなんとも要領が悪い。今朝は歯医者に出かけて留守にしていた。宅急便なら不在票が入っていて、すぐに直接ドライバーに電話してその日のうちに時間指定で再配達してもらえる。これほどスムースに要領よくやれるのに、郵便はどうしたものか?まず電話したけれど全くつながらない。込み合っていてつながりませんというメッセージが流れるばかり。腹が立つので、何度も繰り返して電話すると、何十回目かにやっとつながった。で、ありきたりな対応で誠意が感じられない。お客さんの気持ちを全く考えていない。電話二本で対応していますので・・。って携帯の世の中で二台の電話で対応するなよ。何時代を生きているのだ。

 で、今日の23時以降にいつでも取りに来て下さいっていわれてもな。急いでいるものならどうするんだ。お役所的だよな。親方日の丸だよな。腹が立ったので、こんな対応していると、どんどん民間に取って代わられますよ。郵便は好きなので是非がんばって体質を変えて下さいとおばさんに意見してしまった。多分郵便はもうだめかもしれないな。



○○美術協会展
7/3~7/14
山梨県立美術館
 
 こういった地方の団体展はどこにでもある。ごたぶんにもれず高齢化が進んで、どこの団体も若い人の確保に四苦八苦している。中央の大きな団体も同じようなものだ。

 地方にはその地方独特の風土が育てた文化がある。何も中央だけが優れているわけではない。地方の文化が廃れてしまば回りまわって国の文化も廃れてしまうのだ。結局はその国の文化は地方が担っているといっても過言ではない。

 確かに都会は刺激的で変化に富んでエキサイティングではある、しかし反対に言えばガチャガチャと余計な誘惑がありすぎて惑わされることも多い。一度は都会に出てもじっくりいい仕事をするには、本当は田舎に住むほうがいいのではないかと最近は思う。

 井戸の中の蛙にならないように、田舎に住みながら世界を相手に発信してゆくそんなスタンスで暮らせれば最高だな。

 それにしても、これだけ地方が疲弊してしまえばもうじたばたしても遅いかもしれないな。なるようになる。必要なら残ってゆく。いらないなら消える。そんなものだ。



 
 今日は一日美術館で受付。明日は審査です。



 
 あるブログを読んでいたらこんなことが書かれていた。「作家は人の最後の職業だ」上手いことを言う。その通りだ。
   ここ resonance

 例えば人生色々あって最後に死刑囚になってしまった、でも最後に本を執筆すれば立派な作家さんだ。宇宙飛行士から作家になってもいいし、普通の母親が子育てを書いても作家になれる。どんなに波乱万丈な人生を送ったとしても、どんなに極悪非道な輩でも、最後の最後に作家にだけはなれるのだ。

 だから、と言うんだな。最初っから作家になどなろうとしなくて、色んなことを経験して最後の最後の仕事として「作家」を残しておけと。

 そんなもんだな、作家を画家と置き換えてもいいな。



 
 今日はこれからワールドカップが始まります。あまり興味もないので実況は観ません。勝てば嬉しくてついついテレビを見てしまうのですが、どうもそればかりになってしまうとそんなに以前からサッカーファンだったけと覚めた目で見てしまう。渋谷の雑踏で騒いでいる馬鹿どもを見ると、成人式に酒飲んで暴れたり、奇妙な車に乗って「バリバリだぜ」というのと同じだな。周りが騒げば騒ぐほど、さめてしまう。へそ曲がりだな。

 香具師(やし)とか、傀儡師(くぐつし)というのも面白い。香具とは薬師(やし)ともかく、字のごとく香り物である薬などを売り歩いた渡り者を指していったそうだ。まぁ元来がお祭りとか祝日にお寺の境内や人の集まるところで、何かしらの芸をやってそういったマヤカシノ薬めいたものを売り歩いた大道芸人をさした。

 くぐつ師なども同じようなもので首からぶら下げた箱から小さな人形などを出して、手品や物語を語り聞かせたりした渡り芸人の一つだな。そんなものになぜ惹かれるのかよくは分からないのだけれど、自分の出身が淡路島というのがどこか関係しているかもしれない。

 文楽というのは本来淡路の一つの人形浄瑠璃の坐の一つであったそうだ。それがやがて人形浄瑠璃そのものを指すようになったのは時代の変遷があるのだけれど、重要なのはそういった流れ芸人の伝統があったということだな。まぁ具体的に自分の親戚にそういった人がいたということではないのだけれどね。昔家に文楽人形の本物があったからな。

 今年の団体展の作品のタイトルは「祝人」で普通は(いわいびと)と読む。でもそこにはある意味が隠されていて昔は(ほきひと)と読んだらしい。ほきひと→ほひと→ほいととなる。「ほいと」とは辞書でひけば乞食だな。ようするありがたい祝詞(のりと)を唱えて少しばかりのお布施をもらって流して生きている乞食芸人のことなんだな。

 アーチストなどというとすごく高尚なことをやっている人種かと勘違いするのだけれど、無論そういった人もいるかもしれないが、私などは上のような流れ芸人なのではないかと思うのだな。ぐつ)
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