画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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今日は比較的に暖かい一日だった。少し風邪ぎみだが、放ったらかしであった畑に出て雑草を取ったり、土を起こしたりした。これもいい気分転換になる。これから連休にかけて野菜の苗を買ってきてまた今年も小さな野菜畑を始めようとおもっている。
最近思うことをつれづれに、結論もありません。
普通の人が、絵だけ描いていてもなかなかあそこまで到達はできないだろう。まして色んな煩悩が渦巻いている今の状態じゃなお無理だ。絵が上手とか下手とかそんなことはどうでも良くて、兎に角その人自身そのままがそこにあるという風になればいいのだけれど。どうも気取ったり、思わせぶりだったり、よけいな付属品が多すぎてそこまで至らない。委細かまわないあのストレートな表現は習ってできるものじゃない、学習できるものでもない、訓練してなるものでもない。生き方を単純にして簡潔にしきらなければあそこまではいけない。
絵のために、絵を描くためだけに集中して生きてはじめて可能な表現かもしれんなぁ。かといって彼女が無味乾燥な潤いのない生き方だったのかといえば、まるっきり反対で情緒的で波乱に満ちた人生でもあったわけだ。
まぁそれが天性の才能といってしまえばそれまでだ。
最近思うことをつれづれに、結論もありません。
普通の人が、絵だけ描いていてもなかなかあそこまで到達はできないだろう。まして色んな煩悩が渦巻いている今の状態じゃなお無理だ。絵が上手とか下手とかそんなことはどうでも良くて、兎に角その人自身そのままがそこにあるという風になればいいのだけれど。どうも気取ったり、思わせぶりだったり、よけいな付属品が多すぎてそこまで至らない。委細かまわないあのストレートな表現は習ってできるものじゃない、学習できるものでもない、訓練してなるものでもない。生き方を単純にして簡潔にしきらなければあそこまではいけない。
絵のために、絵を描くためだけに集中して生きてはじめて可能な表現かもしれんなぁ。かといって彼女が無味乾燥な潤いのない生き方だったのかといえば、まるっきり反対で情緒的で波乱に満ちた人生でもあったわけだ。
まぁそれが天性の才能といってしまえばそれまでだ。
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一時帰宅した。寒いので少し体調もおかしい、少々風邪気味かな。一週間はやはり疲れる。仕事もまだ残ってはいるけれど、山は越えた。後は印刷が仕上がってくるのを待つだけだ。どんなものになるか?少々不安がのこるけれど、もう私たちの手からは離れた。次は各自に送るのと、オープンに向けて販売の支度をしなければならない。
今美術館では大きな団体展が開催されている。全国から多くの作品がしのぎを削って年に一度のこの会場にやってくるわけだ。ここだけを観ればなかなか絵画人口も多くて盛んな気がするのだがね。一般的にはどうなんだろう?絵を描きたいと思っている人は多いのかね?まぁいいや、そんなことを書こうと思ったわけではない。
私は何処まで行けるかわからないけれど、「いい絵」の条件は見えているように思う。ただなかなかそこまでは行き着かないだろうなぁ。努力とか精進とかそんなものでは到底行き着かないのではにかと思う。まぁ私のずぼらないい加減な性格からして難しい。まだまだ自分には煩悩がありすぎるのだ。
三岸節子の絵を観ていると、全てを絵に捧げきったある種のすがすがしさ、潔さが感じられる。まだ女流の画家などという存在が公に認められていない時代に、私は絵で生きてゆくと決めた、そんななりふりかまわない潔さを感じる。その姿勢は終戦後何ヶ月で銀座で個展を開催したことでも現れている。そんな絵描きなど男の作家にもいない。まぁ反対に女性だから出来たのかもしれないが、それは全く凄いことだ。
男というのは例えば勲章をもらったり、○○会の会員になったり、何だか肩書きがえらくなると言うところで満足するところがある。だから年をとると絵がつまらないものになってゆく。安定するからかな。若い頃はがむしゃらで全てを捨て去ったにもかかわらず、ある程度評価されてくると保身にまわるのかもしれんなぁ。
反対に女性はそんなところには頓着しないところがある。子育てを終わってさて、自分の時間だというと本当に何もかも捨てて絵だけになれるのかな。三岸節子は65でフランスに渡っている。普通もう隠居の年でしょう。
生き方が絵に表れている。当然だな。芸道というのは生き方なんだから、絵だけがいいなどと言うのは偽者だ。生き方が三岸節子なんだ。彼女自身の生き様なんだ。
そう考える自分は何処か逃げているところがあるな。もうここらでいいかと思っているところがある。保身にまわっては終わってしまう。自分の出来る範囲で、捨てて、壊して、何かのためにというのではなくてね、無心で絵を描かねばならないのだろう。野垂れ死を覚悟しなければいい絵など描けない。
今美術館では大きな団体展が開催されている。全国から多くの作品がしのぎを削って年に一度のこの会場にやってくるわけだ。ここだけを観ればなかなか絵画人口も多くて盛んな気がするのだがね。一般的にはどうなんだろう?絵を描きたいと思っている人は多いのかね?まぁいいや、そんなことを書こうと思ったわけではない。
私は何処まで行けるかわからないけれど、「いい絵」の条件は見えているように思う。ただなかなかそこまでは行き着かないだろうなぁ。努力とか精進とかそんなものでは到底行き着かないのではにかと思う。まぁ私のずぼらないい加減な性格からして難しい。まだまだ自分には煩悩がありすぎるのだ。
三岸節子の絵を観ていると、全てを絵に捧げきったある種のすがすがしさ、潔さが感じられる。まだ女流の画家などという存在が公に認められていない時代に、私は絵で生きてゆくと決めた、そんななりふりかまわない潔さを感じる。その姿勢は終戦後何ヶ月で銀座で個展を開催したことでも現れている。そんな絵描きなど男の作家にもいない。まぁ反対に女性だから出来たのかもしれないが、それは全く凄いことだ。
男というのは例えば勲章をもらったり、○○会の会員になったり、何だか肩書きがえらくなると言うところで満足するところがある。だから年をとると絵がつまらないものになってゆく。安定するからかな。若い頃はがむしゃらで全てを捨て去ったにもかかわらず、ある程度評価されてくると保身にまわるのかもしれんなぁ。
反対に女性はそんなところには頓着しないところがある。子育てを終わってさて、自分の時間だというと本当に何もかも捨てて絵だけになれるのかな。三岸節子は65でフランスに渡っている。普通もう隠居の年でしょう。
生き方が絵に表れている。当然だな。芸道というのは生き方なんだから、絵だけがいいなどと言うのは偽者だ。生き方が三岸節子なんだ。彼女自身の生き様なんだ。
そう考える自分は何処か逃げているところがあるな。もうここらでいいかと思っているところがある。保身にまわっては終わってしまう。自分の出来る範囲で、捨てて、壊して、何かのためにというのではなくてね、無心で絵を描かねばならないのだろう。野垂れ死を覚悟しなければいい絵など描けない。
少し時間ができたので、日本橋の高島屋で開催中の三岸節子展を観に行く。大きな作品はないけれど、実にすばらしい作品展だった。絵を見て泣いたことはないけれど、ちょっと泣きそうになった。これほど素晴らしい作品をみるとそれ以上のかんそうはなかなか書けない。
作品に少しエッセイがついているのだけれど、それを読むとその作品に対する気持ちが実によく伝わってくる。同じ日本人だからその心情がよく理解できる。ヨーロッパにあこがれてフランスに何年も住んだにもかかわらず、外国は好きではなかった。何とかフランスを自分のものにして日本に帰るんだというようなことが何度もかかれていた。まぁそれほどまでにして絵と格闘していたんだなぁと感心した。
たとえば、今開催している公募展を観てもうまい作家はいくらでもいる。けれどこれほど感動する絵はどこにもない。何がいいのか、何がそれほど感動をもたらすのか、そこのところをじっくりと考えたいな。
とにかく不器用だ。細かいところは何も描かれていない。ただの色と形なんだけれど、ただの抽象ではもちろんない。わかってはいるのだけれど、あれを真似するとただの偽者に過ぎない。むつかしい。できれば最終的にはあそこまで到達したい。
作品に少しエッセイがついているのだけれど、それを読むとその作品に対する気持ちが実によく伝わってくる。同じ日本人だからその心情がよく理解できる。ヨーロッパにあこがれてフランスに何年も住んだにもかかわらず、外国は好きではなかった。何とかフランスを自分のものにして日本に帰るんだというようなことが何度もかかれていた。まぁそれほどまでにして絵と格闘していたんだなぁと感心した。
たとえば、今開催している公募展を観てもうまい作家はいくらでもいる。けれどこれほど感動する絵はどこにもない。何がいいのか、何がそれほど感動をもたらすのか、そこのところをじっくりと考えたいな。
とにかく不器用だ。細かいところは何も描かれていない。ただの色と形なんだけれど、ただの抽象ではもちろんない。わかってはいるのだけれど、あれを真似するとただの偽者に過ぎない。むつかしい。できれば最終的にはあそこまで到達したい。
とうとう昨日は午前様になってしまった。市ヶ谷の印刷工場に午後からでかける。今年から印刷会社を変えたために、いろいろな情報やノウハウが0の状態からはじめなくてはならない。我々にしても一昨年経験済みとはいえほぼ素人の集団なので、ここに来て色んなことがスムースに行かなくなってしまった。まぁ当たり前のことなんだけれど、最悪印刷されないページが出ないようにはしたい。少々の誤りや校正ミスには目をつぶってもらいたい。時間との勝負のようなところがあるので、印刷会社を変えるということは実は大変なことだったということに今更ながら気がついた。
まぁ今年の経験を踏まえて来年はそこそこまわって行くのではないだろうか。いずれにしろ、絵描きが得意とする分野ではないので、そこそこのことには目をつぶってもらうか、まったく丸投げにしてプロにすべてまかせてしまうという手も有りかなとも思う。
まぁ今年の経験を踏まえて来年はそこそこまわって行くのではないだろうか。いずれにしろ、絵描きが得意とする分野ではないので、そこそこのことには目をつぶってもらうか、まったく丸投げにしてプロにすべてまかせてしまうという手も有りかなとも思う。
阪急メンズ館の展示は3階のメンバーズサロンというところらしい。やはり会員制で普通は入ることができませんが、『榎並の絵を観たい」と申し出れば入れてくれるそうです。まぁそれほどまでして見る絵でもないので、次回の個展まで待ってってください。次回関西展示は七月の神戸ルポールです。
はる 3220
絵描きになりたいという検索で私のところに来る若い人がままいる。まぁありがたいことではあるのだけれど、そういう人に何かいいアドバイスが出来きたかどうか、まことにこころもとない。
絵描きなど、とても生業としてはやってゆけるものではない。多くのものを諦めるか、色んなことを言われても、それでもしぶとく絵を描いてゆく、そんな人間だけが残ってゆくのだな。選んだわけではなくて、それしか残らなかったというのが本当のところか。とても、それがいいことだというふうには思えないのだ。
他にもっと自分に適切な仕事がやれるなら、最低でも我慢できるならその方がいい。「なまじ人生を棒に振ることはない」・・と昔私も言われた。けっこうショックだったなぁ、いまだにそのシーンを覚えている。
はる 3220
絵描きになりたいという検索で私のところに来る若い人がままいる。まぁありがたいことではあるのだけれど、そういう人に何かいいアドバイスが出来きたかどうか、まことにこころもとない。
絵描きなど、とても生業としてはやってゆけるものではない。多くのものを諦めるか、色んなことを言われても、それでもしぶとく絵を描いてゆく、そんな人間だけが残ってゆくのだな。選んだわけではなくて、それしか残らなかったというのが本当のところか。とても、それがいいことだというふうには思えないのだ。
他にもっと自分に適切な仕事がやれるなら、最低でも我慢できるならその方がいい。「なまじ人生を棒に振ることはない」・・と昔私も言われた。けっこうショックだったなぁ、いまだにそのシーンを覚えている。
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