画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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二十歳前後のことはあまりくわしく書いていない。まぁその頃は一番荒れていた頃かもしれないなぁ。高校を卒業して、何とはなしに大学には入ったのだけれど、どうにも面白くなくて学校に行くよりアルバイトに出かける方が楽しかった。まだ絵を描いているわけでもなく、何をやればいいのか、将来の仕事のこと、色んなことが何も見えなくて悶々としていた。まぁ誰でもが、たぶんそうだと思うのだけれど、二十歳前後というのは危ない季節でもある。
高校時代にでも美大にゆくとか、何かしらそういった方向に行くといった指針が立っていればまた違ったのだろうけれど、その頃はまったくそんなことは考えてもいなかった。
少し前に書いたけれど、その頃はジャズ喫茶が出来ればなぁ・・と漠然と考えていた。何の特技もないなら実際に自分では演奏などできないのだから、少しでも好きな音楽のことを勉強して、そこそこの知識をもって喫茶店でも出来ればいいかなぁ浅はかにも考えていた。夢と言えばちっぽけな夢だけれど、まぁそのくらいしか考えられなかったな。
で、なぜやめたたかといえば、バイト、バイトで時間の切り売りをしているうちに段々とむなしくなってきた。仕事が単に時間をお金に変えているだけじゃつまらんだろう。今はいい、だけど今のうちに一生かけられる仕事を探さなきゃ。人生そんなもので終わってしまう。何よりも、今はもっと誰にもまねの出来ない技術なり芸なりを習得すべきなんじゃないか、勉強するべきじゃないかと強く思った。誰かに言われたのかもしれない。
で考えたのは、小さい時から何か物を作るのが好きだったので、何かしらの職人しごとがいいかなと思ったんだな。たまたま求人広告を見ていたら、京都で焼き物の絵付けの職人を募集していたので、とりあえず学生のままアルバイトで働くことにした。おかしな話だが、大阪の学校に通いながら、住まいは京都と大阪の境で今の八幡市のもっと田舎の方に農家の離れを借りて住んでいた。駅までバスで30分くらいかかる辺鄙なところだ。
学校を卒業してそのまま就職して、ここには二年ほどいた。住み込みでやれと店の人に言われたけれど、かたくなに通いで通した。焼き物の修行をやるならここじゃ物足りないし、まぁここで一生やるつもりはなかったのかもしれない。まだ根性が定まらなかった。ここをやめたきっかけは親父が死んだからだ。どうにもこうにも続ける気力がなくなった。こんな御みやげやのような品物を作って一生終わりたくない。漠然と自分の芸を売りたい、作家になりたいという夢が出てきた。まだ言葉にはならなかったけれどね。
そこからがけっこうきつかった。もう一度受験勉強を始めたからだ。一年だけやってみようと思った。それでだめなら他を考える。午前中は八百屋の倉庫の下働き。朝市場から仕入れた野菜や果物がやってくる。それを倉庫に仕分ける仕事が主なしごと。大きな八百屋さんだったのでバイト学生など常備10人前後はいた。最後の頃はそういったバイトのまとめ役みたいなことをしていた。年も上だったけれど、時給も少しは高かった。社長にかわいがってもらった。受験するなどと言うことは言わなかったけれど、薄々気がついていたようだ。最後に受かってやめると報告に行ったときは、ご祝儀をくれて本当に喜んでくれた。
午後からは京都の関西美術院という岡崎公園の近くにある美術研究所にデッサンの勉強に通った。後で知ったのだが、ここはかなり由緒ある研究所で、明治の頃、黒田清輝と張り合って負けた浅井忠が起こした聖護院美術研究所が前身だった。受験の予備校ではなかったのね。だから不思議とほとんど誰もいない教室でゆっくりとデッサンできた。まぁ反対に指導された覚えもないけれどね。
疲れたので続きはまた。
高校時代にでも美大にゆくとか、何かしらそういった方向に行くといった指針が立っていればまた違ったのだろうけれど、その頃はまったくそんなことは考えてもいなかった。
少し前に書いたけれど、その頃はジャズ喫茶が出来ればなぁ・・と漠然と考えていた。何の特技もないなら実際に自分では演奏などできないのだから、少しでも好きな音楽のことを勉強して、そこそこの知識をもって喫茶店でも出来ればいいかなぁ浅はかにも考えていた。夢と言えばちっぽけな夢だけれど、まぁそのくらいしか考えられなかったな。
で、なぜやめたたかといえば、バイト、バイトで時間の切り売りをしているうちに段々とむなしくなってきた。仕事が単に時間をお金に変えているだけじゃつまらんだろう。今はいい、だけど今のうちに一生かけられる仕事を探さなきゃ。人生そんなもので終わってしまう。何よりも、今はもっと誰にもまねの出来ない技術なり芸なりを習得すべきなんじゃないか、勉強するべきじゃないかと強く思った。誰かに言われたのかもしれない。
で考えたのは、小さい時から何か物を作るのが好きだったので、何かしらの職人しごとがいいかなと思ったんだな。たまたま求人広告を見ていたら、京都で焼き物の絵付けの職人を募集していたので、とりあえず学生のままアルバイトで働くことにした。おかしな話だが、大阪の学校に通いながら、住まいは京都と大阪の境で今の八幡市のもっと田舎の方に農家の離れを借りて住んでいた。駅までバスで30分くらいかかる辺鄙なところだ。
学校を卒業してそのまま就職して、ここには二年ほどいた。住み込みでやれと店の人に言われたけれど、かたくなに通いで通した。焼き物の修行をやるならここじゃ物足りないし、まぁここで一生やるつもりはなかったのかもしれない。まだ根性が定まらなかった。ここをやめたきっかけは親父が死んだからだ。どうにもこうにも続ける気力がなくなった。こんな御みやげやのような品物を作って一生終わりたくない。漠然と自分の芸を売りたい、作家になりたいという夢が出てきた。まだ言葉にはならなかったけれどね。
そこからがけっこうきつかった。もう一度受験勉強を始めたからだ。一年だけやってみようと思った。それでだめなら他を考える。午前中は八百屋の倉庫の下働き。朝市場から仕入れた野菜や果物がやってくる。それを倉庫に仕分ける仕事が主なしごと。大きな八百屋さんだったのでバイト学生など常備10人前後はいた。最後の頃はそういったバイトのまとめ役みたいなことをしていた。年も上だったけれど、時給も少しは高かった。社長にかわいがってもらった。受験するなどと言うことは言わなかったけれど、薄々気がついていたようだ。最後に受かってやめると報告に行ったときは、ご祝儀をくれて本当に喜んでくれた。
午後からは京都の関西美術院という岡崎公園の近くにある美術研究所にデッサンの勉強に通った。後で知ったのだが、ここはかなり由緒ある研究所で、明治の頃、黒田清輝と張り合って負けた浅井忠が起こした聖護院美術研究所が前身だった。受験の予備校ではなかったのね。だから不思議とほとんど誰もいない教室でゆっくりとデッサンできた。まぁ反対に指導された覚えもないけれどね。
疲れたので続きはまた。
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