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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 アフリカの仮面はどきどきするほどの魅力がある。ピカソなどのキュビズムの作家がアフリカの彫刻からヒントを得たことは有名な話だが、高度な科学的な知識をもった頭でっかちな文明国の人間には、この素朴というのか生命の根源からくるような造詣にはまったく太刀打ちできないように思う。

 このあいだ東博で日本の古い土偶展をやっていたけれど、この中にも今の我々が失ってしまった「自然の声に感応する力」みたいなものを感じた。

 これらのものは今の我々の「美しい」という基準では計れないものだ。彼らが「美しいもの」を作ろうとして作ったわけではない、リアルに何かに似せて作ったわけでもない。しかし、全く何の基準もなかったわけではないだろう。そんな是非の基準を知りたいと思う。
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 明日からは久しぶりに仕事です。



 
はる 3248

 あるものでなんとかする。

 この話は随分と遠い話で分かりにくいかもしれない。自分でも何だかよく分かっていないところがある。で、まぁいつものように手探りで書いてみよう。うまく行かなければご愛嬌ということで許してくださいな。

 話を分かりやすくするために子供で考える。いつも思うのだけれど、大人が考えているほど子供は無邪気でも、脳天気でもない。彼らは彼らの時代を精一杯生きている。大人から見て無邪気に見えるのは自分もそんな時代があったという余裕から生まれたものだろう。

 どんなに能力があって才能があったとしても10歳の子供はそれ以上でも以下でもない。よく天才少女などと騒がれて一躍世の中に出てくる音楽家などがいるけれど、果たしてどうなんだろうか、10歳の子供には生まれて10年の経験しかないわけで、それだけのレベルでしか世の中を理解していない。もし天才だとするならその技術が、師匠の意思を反映するだけのものだということだろうな。

 表現ということでいうならば、人を感動させるには高尚である必要はない。「ないものは伝わらない」ということでいうなら、子供はこどもなりの感性で表現すれば充分人を感動させることが出来る。それが妙に大人のまねをして白々しい表現をしても薄ら寒いだけだ。

 違うなぁ、こんなことを書こうとしたわけではない。

 例えば三岸節子の絵に感動したとする。こんな絵が描ければいいなぁと思う。で、そのスタイルを真似するじゃない。まぁそれとよく似た絵はたぶん描けるだろう。そう難しいことではない。けれど何かが違う。それはあなたが三岸節子ではないからだ。

 彼女は生き方が三岸節子なんだと思う。絵のスタイルではない。芸というのはそういうことだろう。絵が上手いとかへたくそだというのではないのだな。どう生きたか?何を選択したか?何を是として何を否としたか?自分にはこれこれがあって、これこれがない。私が今見えているのはこれで、だからこれこれで描きましたというのが芸なんだろう。

 今の自分の持っているいいも悪いも、あるだけの方法で何とかするのがその人の芸道だ。

  「あるものでなんとかする」

 このことを分かっている人はわりと少ない。みんなほとんどの人がよそゆきの顔をして自分以上に見せようとがんばっている。何かそれらしきものがあるけれど、切実なものとして何も伝わってこない。このことはだれも教えてくれない。けれどこれが一番だいじなことだ。

 ここで少し話は飛躍する。

 自然界の話で「フラクタクルの理論」というのがあった。日本語では「自己相似形」とでもいうのだろうか。実際この宇宙の根本原理はこの入れ子人形のマトリョーシカに似ている気がする。何処を切っても金太郎飴のように同じようなパターンがでてくる。

 人格形成においても結局同じ事を繰り返しているに過ぎない気がしているんだな。子供時代の私も今の私もパターン的には同じ思考回路で生きている。確かに人生経験は違うので大きさは違うかもしれないが、小さな小さなマトリョーシカ人形のパターンで生きている。

 これで最初に戻った。まだ何か書き足りない気がしている。



 
 このコンポストには約半年の間に野菜くずがはいっている。昨年の11月から始めた。それまでは穴を掘って埋めていたのだけれど、これが段々に面倒になってきた。それでコンポストの話を聞いた。家族の数にも夜のだろうけれど、約一年ためても一杯にならないそうだ。二台用意して一年ごとに堆肥として使うらしい。これから真夏にかけて虫とか悪臭がどうなるのかちょっと心配のところがあるけれど、昨年作った刈り取った草などを積み上げて堆肥にしたものを上からぱらぱらとふりかけると結構匂いも抑えられるようだ。今のところ上手くいっている。

はる 3247
 「自分にないものは伝わらない」という話はけっこうショックだった。確かにそういったことってあるなと感じていたからだ。

 青山二郎の「美は観た人の発見である、創作である」というのもなかなかに衝撃的ではあったけれどね。確かにいえることは『分かる」というのはその人のレベルでしかない。どんなに高尚な高等なものでも、その人がそこまでのレベルに達していなければ『分からない」のだな。

 「今分かる」というのは案外大したものではないのかもしれない。ひょっとしたらもっと数段すばらしいものが、今の私には理解できない大きなものがあるのかもしれない。今の私に見えないものが、他の人には見えていてそれを堪能しているというのは結構悔しいな。でもまぁ見えないのだから仕方ない。

 そこまでは考えていた。これはインプットだ。「自分にないものは伝わらない」というのはアウトプット、表現について
言っている。そうかそうだよな。どんなに綺麗な高尚な言葉でも何だかうそ臭い、恥ずかしいような気持ちになることがあるよな。例えば政治家の公約みたいなもの。

 一級の役者とか、芸術家、政治家とか、セールスマンとか、宗教家とか詐欺師なら、自分にないものもあるように語ることができるかもしれん。それはまぁすこぶる怪しい、危ない人物ではあるけれどね。平凡な凡庸な人間にはそれは難しいね。

 「自分にあるもので何とかする」というのもその続きであった。ないものをねだっても始まらない。あれがないから、これがないから、自分には無理だと諦めるのではなくてね。今もっている材料や技術で何とか伝えようとするんだな。ぺらぺら余計な話が出来るより、伝えたいという気持ちがあればボディラングエイジの方が良く伝わる。

 続きはまた明日。
 



 
 長い文章を書いたがアップしたら、消えてしまった。もう書く気になれないのでまた明日だな。『自分にないものは伝わらない」の話。



 
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「伝わると伝わらないの境界はなんだ?」

このところ思っているのは、
「自分に無いものは伝わらない」
ということだ。

なんというか、
伝わらない表現になっている人は、
「いま、ここにある自分」には無い、
どっかよそにある、美しい、正しいことを、
言おうとしている、
そんな感じがする。

(this post was reblogged from onehalf)



 
 明日はまた東京です。国展もいよいよお仕舞いですよ。
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