画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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このところまじめに朝は6:30頃起きて河原を少し速めの歩調で歩くことから始まる。自由業だから何もそんなに規則正しく生活しなくてもいいだろうと思われるかもしれませんが、淡々と毎日同じように生活するというのがけっこう大事なんですね。不規則な生活はまず精神が壊れる、次に体が壊れる。
若い頃はごたぶんにもれず朝寝坊の宵っ張り、いつも明け方まで起きてごそごそと絵を描いたり、何か書きもをしたり、本を読んだりしていた。しんと静まった夜の感覚は段々に研ぎ澄まされて、集中しているように思われる。仕事が上手く行っているように勘違いする。ある種自分に酔ってしまうところがあるのかもしれないなぁ。まぁそんな時も必要なんだろうけれど、若いときはそんな生活が楽しくもあったのだけれどね。
段々に体がおかしくなるって来る。昼間は電話があったり、宅急便がきたり、来客があったりして、ゆっくりは寝ていられない。ボーっとまるで昼行灯。いつもやたらと眠いんだな。特に午前中は起こされるとそんなことで不機嫌になる。体がいつも眠いもんだからぽーっと微熱がある感じ。どことなく憂鬱。夜になると元気になる。何だか変だよな。
そんなことがあって体を壊してから、きっちり生活を変えた。実はこの方が仕事がはかどることに気がついた。夜の情熱、夜書いた手紙は出さない方がいい。昼間読むとやたらと恥ずかしい。というのは集中しすぎて「うぬぼれ」「自己中」がてんこ盛り。自分に酔っては人を感動させることはできない。酔っ払いの役者はただの酔っ払い、しらふの役者が酔っ払いの役を演じるので表現となる。
若い頃はごたぶんにもれず朝寝坊の宵っ張り、いつも明け方まで起きてごそごそと絵を描いたり、何か書きもをしたり、本を読んだりしていた。しんと静まった夜の感覚は段々に研ぎ澄まされて、集中しているように思われる。仕事が上手く行っているように勘違いする。ある種自分に酔ってしまうところがあるのかもしれないなぁ。まぁそんな時も必要なんだろうけれど、若いときはそんな生活が楽しくもあったのだけれどね。
段々に体がおかしくなるって来る。昼間は電話があったり、宅急便がきたり、来客があったりして、ゆっくりは寝ていられない。ボーっとまるで昼行灯。いつもやたらと眠いんだな。特に午前中は起こされるとそんなことで不機嫌になる。体がいつも眠いもんだからぽーっと微熱がある感じ。どことなく憂鬱。夜になると元気になる。何だか変だよな。
そんなことがあって体を壊してから、きっちり生活を変えた。実はこの方が仕事がはかどることに気がついた。夜の情熱、夜書いた手紙は出さない方がいい。昼間読むとやたらと恥ずかしい。というのは集中しすぎて「うぬぼれ」「自己中」がてんこ盛り。自分に酔っては人を感動させることはできない。酔っ払いの役者はただの酔っ払い、しらふの役者が酔っ払いの役を演じるので表現となる。
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油絵のようですが、そうではなくて車のフロンドグラス越しに今日の夕立をシャメしたものです。面白い効果がでるものです。
知り合いの「猫の後ろ姿」さんが、二三日まえの記事にさらにコメントを書いてくれました。励みになります、ありがとうございました。
http://ameblo.jp/e-no4765/entry-10623784796.html
ちなみに「甲府の街の芸術祭」ではこんなこともします。
知り合いの「猫の後ろ姿」さんが、二三日まえの記事にさらにコメントを書いてくれました。励みになります、ありがとうございました。
http://ameblo.jp/e-no4765/entry-10623784796.html
ちなみに「甲府の街の芸術祭」ではこんなこともします。
はる 3342
午後からはゴロゴロと雷が鳴って今にも夕立が来そうなのに今日もまた一粒の雨も降らなかった。一雨くれば随分とすごしやすくなるのにね。
村上春樹の1Q84を読みすすめている。二度目なんだけれど一度目はけっこう読みとばしていたのか、忘れている部分が多い。けっこう厚い本なので文庫本のようにポケットにねじ込んでと言うわけにはいかない。
色んな話がさくそうして同時進行してゆくのだけれど、おもしろいなぁと思ったのは、主人公が物語のなかで書く話がいつの間にか現実になってなってゆくってところ。まぁそんな話ならよくあるかもしれないけれど、例えば「空気さなぎ」などという今までこの世の中に存在しなかったものを登場させる。でその形態をその話の中で克明に描くわけだ。最初それは空想のお話として語られる、だからどんな風にでも描くことが出来るわけだ。主人公のイメージ、幻想だかね。ところが、それが実際に目の前に現れてくるのだけれど、その形態は自分が描いたそのままの状態で出てくる。
自分が描いた物語の中に自分が入り込んで行く。その物語の中を生きることになる。まぁ実際にはそんなことはありえないことなんだけれど、実はそういった感覚と言うのは特別不思議なことではないのではないかとおもうのだな。
例えば宇宙を想像するとする。延々とどこまでも続く無限の世界だ。宇宙の果てまで行ったとする。実際は
きりはないのだけれどね。ところがその宇宙の果てを想像しているのは自分の頭の中であるわけだな。とすると宇宙は自分の頭の中にあるということになる。以前話したフラクタクルの理論だな、世界は実はそうやって出来ていると思う。
で、もう一つ思ったのは、こうやって絵を描いてゆく方法、行き先を決めないで絵の中に自分の描きたいものを探してゆく、発見してゆく、どんどん自分の奥底まで降りてゆくそんな作業は、この話と実によく似ている。最初はなんでもない、今まで観てきたようなありきたりな物だったり物語だったりする。それが面白くないのでどんどん壊してゆくと、今まで見たことも聞いたこともないような物や物語を発見することがある。絵を描いているのは自分なんだけれど、実は絵の中に自分を見つけているんだ。ややこしいけれどどこか似ている。
午後からはゴロゴロと雷が鳴って今にも夕立が来そうなのに今日もまた一粒の雨も降らなかった。一雨くれば随分とすごしやすくなるのにね。
村上春樹の1Q84を読みすすめている。二度目なんだけれど一度目はけっこう読みとばしていたのか、忘れている部分が多い。けっこう厚い本なので文庫本のようにポケットにねじ込んでと言うわけにはいかない。
色んな話がさくそうして同時進行してゆくのだけれど、おもしろいなぁと思ったのは、主人公が物語のなかで書く話がいつの間にか現実になってなってゆくってところ。まぁそんな話ならよくあるかもしれないけれど、例えば「空気さなぎ」などという今までこの世の中に存在しなかったものを登場させる。でその形態をその話の中で克明に描くわけだ。最初それは空想のお話として語られる、だからどんな風にでも描くことが出来るわけだ。主人公のイメージ、幻想だかね。ところが、それが実際に目の前に現れてくるのだけれど、その形態は自分が描いたそのままの状態で出てくる。
自分が描いた物語の中に自分が入り込んで行く。その物語の中を生きることになる。まぁ実際にはそんなことはありえないことなんだけれど、実はそういった感覚と言うのは特別不思議なことではないのではないかとおもうのだな。
例えば宇宙を想像するとする。延々とどこまでも続く無限の世界だ。宇宙の果てまで行ったとする。実際は
きりはないのだけれどね。ところがその宇宙の果てを想像しているのは自分の頭の中であるわけだな。とすると宇宙は自分の頭の中にあるということになる。以前話したフラクタクルの理論だな、世界は実はそうやって出来ていると思う。
で、もう一つ思ったのは、こうやって絵を描いてゆく方法、行き先を決めないで絵の中に自分の描きたいものを探してゆく、発見してゆく、どんどん自分の奥底まで降りてゆくそんな作業は、この話と実によく似ている。最初はなんでもない、今まで観てきたようなありきたりな物だったり物語だったりする。それが面白くないのでどんどん壊してゆくと、今まで見たことも聞いたこともないような物や物語を発見することがある。絵を描いているのは自分なんだけれど、実は絵の中に自分を見つけているんだ。ややこしいけれどどこか似ている。
はる 3340
いつも夏のこの時期は、一年分の大半の小品を描く。もちろん各個展前にも少し新作を追加するのだけれど、多くても20点ぐらいでそんなには多くない。今年も60点から70点ぐらいの作品を同時に描いている。
やり方は一定の決まりはないのだけれど、春の団体展の作品が終わった頃から地塗りを始める。私の場合この地塗りがけっこう重要な要素で、単に作画のための下塗りではない。布をコラージュしたり絵の具をたらしたり、壁土を塗り込んだりして何となくデコボコした独特の肌合いが自然に出てくるのを待つ。この時にはまだ何を描くのかはまるっきり考えていない。
胎児は母親のお腹の中で生物発生から進化の様子を順に踏まえてゆくそうだが、こういった作品もある意味で私の分身であるから、私の今までの描画のスタイルの変遷を順番にみせているように思う。一つの作品は突然そこに現れてきたのではなく、私の今までの経験や体験が何らかの形で沈み込んでいるのだ。だから真似をしても同じものにはならないし、百人の作家がいれば百通りの方法があって当然だ。それを考えるのが作家の仕事だとも思うな。
ある程度地塗りがいい感じに仕上がってくると、そろそろその中にあるイメージを見つけに仕事になる。けれど大体において最初のイメージはありきたりでつまらない場合が多い。無理やりいじめて何とかアイデァを出したような作為的なものは、ほとんど二順目あたりで消えしまう。そうやって何度もなんども繰り返して自分の頭の中を覗き込むような仕事をしていると、突然ピカリとひらめく時がある。そうなってくればしめたもので、自分では絶対描けない様な作品が描けたりするのだな。まぁ時々だけれどね。
今回もまだまだ二転三転するのだろうと予測している。
いつも夏のこの時期は、一年分の大半の小品を描く。もちろん各個展前にも少し新作を追加するのだけれど、多くても20点ぐらいでそんなには多くない。今年も60点から70点ぐらいの作品を同時に描いている。
やり方は一定の決まりはないのだけれど、春の団体展の作品が終わった頃から地塗りを始める。私の場合この地塗りがけっこう重要な要素で、単に作画のための下塗りではない。布をコラージュしたり絵の具をたらしたり、壁土を塗り込んだりして何となくデコボコした独特の肌合いが自然に出てくるのを待つ。この時にはまだ何を描くのかはまるっきり考えていない。
胎児は母親のお腹の中で生物発生から進化の様子を順に踏まえてゆくそうだが、こういった作品もある意味で私の分身であるから、私の今までの描画のスタイルの変遷を順番にみせているように思う。一つの作品は突然そこに現れてきたのではなく、私の今までの経験や体験が何らかの形で沈み込んでいるのだ。だから真似をしても同じものにはならないし、百人の作家がいれば百通りの方法があって当然だ。それを考えるのが作家の仕事だとも思うな。
ある程度地塗りがいい感じに仕上がってくると、そろそろその中にあるイメージを見つけに仕事になる。けれど大体において最初のイメージはありきたりでつまらない場合が多い。無理やりいじめて何とかアイデァを出したような作為的なものは、ほとんど二順目あたりで消えしまう。そうやって何度もなんども繰り返して自分の頭の中を覗き込むような仕事をしていると、突然ピカリとひらめく時がある。そうなってくればしめたもので、自分では絶対描けない様な作品が描けたりするのだな。まぁ時々だけれどね。
今回もまだまだ二転三転するのだろうと予測している。
はる 3339
村上春樹の「1Q84」の3を読んでしまってから、もう一度1から読み直している。私は本にあまり興味がないので、一度読んでしまったものは二度読むということがない。ほとんど読みっぱなしで次から次とやたらと乱読といえばかっこいいけれど、ほとんど無節操に漫画から文庫の駄本まで、読んでしまったらリサイクルショップに売ってしまう。趣味と言うのか暇つぶしというのかそういった読み方で、とうてい読書家とはいえない。
村上春樹のロングインタビューを読んでいる。同郷でだいたい同じ世代で、リアルタイムで彼の言っていることはよく分かる。はっきり言って小説よりはわかりやすい。大体の作品は読んでいるにも関わらず、いままで割りと縁遠い存在で好きな作家ではなかった。まぁ今も本当には分かっていないのかもしれないけれどね・・。
今回のインタビューで気になった言葉は「井戸を掘る」というフレーズだ。降りていって深く掘り下げることで、今まで気付かなかったことに気付くようになる、というようなことを言っていた。これは私の今のテーマともしっかりと関係している話で面白いなぁと思った。
小学校の頃の話で、自分は極普通の中産階級の子供で、特別いじめられもしなかったし、傷つきもせずに育ってきたと思ってきた。だから何の問題意識もなく30近くなるまで小説を書こうとは思わなかった・・、という風に考えていたらしい。ところが小説を書き始めて、どんどん自分の中を下ってゆくと今までなんでもなかった子供時代が違った目で、感覚で捉えるようになった。
親とか学校とか、まぁ色々な意味で既成の体制があるわけだ。子供は生まれて最初はそこそこ幸せに暮らしてゆくのだけれど、ある意味でどこかで規制がかかる。教育とか、しつけとか、規則とか、常識とか、世間体とかなんがか分からない、世の中の常識みたいなものに暗黙のうちに傷つけられているんだな。なんとなくわかる。
気がつかなければそれはそれで幸せな一生なんだけれど、こう表現という仕事をしてゆくとどうしてもそういったところまで降りてゆかなければ、書けなかったり、描けなかったり、するわけだ。ユング心理学者の河合隼雄との接点もそんなところにあるようだ。こわいけれど、なるほどと同感するところ多し。
村上春樹の「1Q84」の3を読んでしまってから、もう一度1から読み直している。私は本にあまり興味がないので、一度読んでしまったものは二度読むということがない。ほとんど読みっぱなしで次から次とやたらと乱読といえばかっこいいけれど、ほとんど無節操に漫画から文庫の駄本まで、読んでしまったらリサイクルショップに売ってしまう。趣味と言うのか暇つぶしというのかそういった読み方で、とうてい読書家とはいえない。
村上春樹のロングインタビューを読んでいる。同郷でだいたい同じ世代で、リアルタイムで彼の言っていることはよく分かる。はっきり言って小説よりはわかりやすい。大体の作品は読んでいるにも関わらず、いままで割りと縁遠い存在で好きな作家ではなかった。まぁ今も本当には分かっていないのかもしれないけれどね・・。
今回のインタビューで気になった言葉は「井戸を掘る」というフレーズだ。降りていって深く掘り下げることで、今まで気付かなかったことに気付くようになる、というようなことを言っていた。これは私の今のテーマともしっかりと関係している話で面白いなぁと思った。
小学校の頃の話で、自分は極普通の中産階級の子供で、特別いじめられもしなかったし、傷つきもせずに育ってきたと思ってきた。だから何の問題意識もなく30近くなるまで小説を書こうとは思わなかった・・、という風に考えていたらしい。ところが小説を書き始めて、どんどん自分の中を下ってゆくと今までなんでもなかった子供時代が違った目で、感覚で捉えるようになった。
親とか学校とか、まぁ色々な意味で既成の体制があるわけだ。子供は生まれて最初はそこそこ幸せに暮らしてゆくのだけれど、ある意味でどこかで規制がかかる。教育とか、しつけとか、規則とか、常識とか、世間体とかなんがか分からない、世の中の常識みたいなものに暗黙のうちに傷つけられているんだな。なんとなくわかる。
気がつかなければそれはそれで幸せな一生なんだけれど、こう表現という仕事をしてゆくとどうしてもそういったところまで降りてゆかなければ、書けなかったり、描けなかったり、するわけだ。ユング心理学者の河合隼雄との接点もそんなところにあるようだ。こわいけれど、なるほどと同感するところ多し。
お盆さんのやぐら。何だかしょぼい。子供の頃のお盆祭りのやぐらはこんなものではなかった。三階建ての屋根ぐらいのやぐらから、おっさんが生で河内音頭を歌っていた。無論人出も多かったけれどね。プロの的屋の親父がどこからともなく集まってきて、怪しげなテントが張られてお化け屋敷とかバナナの叩き売りなんかも実際に見たなぁ・・。ガマの油売りなんかまだやっているのだろうかね。
これは町内会の主催で近所の親父が交代で夜店をやっている。健全だけど何もおもしろかない。あれは非日常のどこからとも流れてくる、ちょっとあぶない系のお兄さんだから面白いのだ。こんなお祭りが本当の祭りだと思っている子供たちはかわいそうだね。もっとこうスリルのある違う世界を覗き見たような興奮があるもんなんだよ。お祭りと言うのはさ、今のは形だけ真似したただの催し物でしかない。まぁいいけどさ。
これは町内会の主催で近所の親父が交代で夜店をやっている。健全だけど何もおもしろかない。あれは非日常のどこからとも流れてくる、ちょっとあぶない系のお兄さんだから面白いのだ。こんなお祭りが本当の祭りだと思っている子供たちはかわいそうだね。もっとこうスリルのある違う世界を覗き見たような興奮があるもんなんだよ。お祭りと言うのはさ、今のは形だけ真似したただの催し物でしかない。まぁいいけどさ。
はる 3337
山口画廊の画廊通信を無断で転載します。
http://home1.netpalace.jp/yamaguchi-gallery/top.cgi
画家と画商というのはある意味同じ船に乗った志を同じくした仲間だと思います。作家だけではなかなか世の中を渡って行くのが難しいし、画商もまた同じ。画商は作家が作家として精進できるように世間とのパイプ役に徹する。そんなうらやましい様な関係がつづられています。作家の最後のメッセージがこころ打ちます。
「画廊通信 Vol.80 名もなき草のように(第5回佐々木和展)
「ちょっと体が悪くなってしまったので、6月の個展は旧作も入ってしまうと思いますが……」という電話が入ったのは、昨年2月の事である。「胃ガンなんです。来月、手術の予定です」と、やけに明るく話される画家に、私
は何とお答えしていいのか分からなかった。
翌々月、京都で開催される個展案内が届いて、見ると “Ever Green NeverDie” というタイトルの脇に、こう書かれてある。 「二俣川ガンセンターから、ガン研有明に移りました。ガンバります」、早速お電話を入れたところ、開腹したが転移のため閉じて、抗ガン剤による治療に切り替えたとのお話、「ところで、案内状に載せる作品は、いつまでに送ればいいですか?」と、電話口の声はいつもと変わらずお元気であった。
翌5月の中旬、私は画家のアトリエにお伺いした。今までと趣向を変えて、今回は「密陀絵」でやりたいとの意向だったので、しばし作品を見せて頂いたり、技法の説明を受けたりのひと時、佐々木さんは随分とやせられた感じだったが、次々と作品を運んで来ては手際良く並べてくれたりと、いたって快活な振る舞いである。おかげで私はお話をしながら、目前の人の大病をつい忘れかけたりしていたのだが、今にして思えば、それは画家の思いやりだったのだろう。佐々木さんは最後まで、そんな人だった。 その日、打ち合せを終えて辞去する前に、ふっと微笑んで語られたひと言が、私は忘れられない。「来年は出来ないかも知れないので、高島屋は断ったんです。山口さんの所でやる時は、もういないかもね」、本当にいなくなってしまうとは、思いもしなかった。
佐々木さんと初めてお会いしたのは、5年前の秋である。ある美術誌をめくっていて不意に出会った、一枚の作品写真がきっかけだった。「八月の凪」と題された絵で、画面の下半分いっぱいに大きな魚が描かれ、精妙な色あいに染まる穏やかな海の彼方に、一艘の小さな釣り舟が浮かんでいる。一目見て、なんて気持ちのい、伸びやかな絵だろうと思った。これぞ天啓と確信した私は、早速連絡先を調べてその日の内に電話を入れ、数日後には作家のアトリエへと向かった。常日頃、優柔不断の私としては、異例の速さである。
JR横浜線の十日市場駅で下車、10分ほども歩いて住宅街を抜けると、突如緑豊かなエリアに入り込む。坂を降りて脇道にそれた一角に、目指す作家宅はあった。折しも晩秋の寒々とした日で、ちょうどストーブの石油タンクを下げて、物置から出て来られた画家にご挨拶申し上げ、こたつで暖まりながらゆったりとお話をさせて頂いた事が、ありありと思い出される。 以前は釣りが大好きで、房総方面は何度も行った事がある、あの絵は釣り上げた魚を描いたもの、楽しく釣っておいしく戴き、しかもその絵を買ってもらう訳だから、こんなにいい事はない、アハハハ、しかしここ数年は陸に上がって、付近の谷戸を描いている、谷戸は自然の宝庫でね……。 初めてお会いした画家は、モジャモジャの頭で見るからの自然体、とてもソフトで飾らないお人柄でありながら、一本妥協のない芯をさりげなく秘められた風、要は思っていた通りの人であった。
翌2006年春、「四季彩譜」と題した初めての個展を開催させて頂いた。 この時は会期中に2日ほどご足労頂き、両日共にあまりお客様には来て頂けなかったので、おかげで様々なお話を伺う事が出来た。「私の絵にはすべて、その時の出来事が入ってるんです。どうせだから端から行ってみますか」と、それぞれの作品にまつわるお話を、イキイキと語ってくれた佐々木さん、深閑とした画廊に響いた朗らかな声が、鮮やかに今も耳に残る。「これは林道に咲いていたカタクリの花、これは名前は知らないけど、道端で踏ん張っていた雑草、これは近くの森に住んでいる鷹で、こちらは雪の日見た野うさぎの足跡、一度うちの庭でバッタリと遭遇した事があってね、でかいくせに気絶しちゃったんですよ」、そんなお話を聞いていると、あらためて画家の描く谷戸の自然が、決してモチーフとして使われているのではない事が分かる。例えば佐々木さんは、飽かずに繰り返し描いて来た雑草達を、「絵の題材」とは微塵も考えていなかっただろう。それは画家にとって、まずはかけがえのない尊き生命であり、溢れる様な共感を覚える同胞であり、限りない敬意を捧げるべき、谷戸の象徴であった。おそらく画家は、描かずにはいられなかったのだ、独り大地に毅然と根を張って、けなげに生きる名もなき草達を。
佐々木さんは、見るからに壮大な絶景を、豪奢に描き上げるような作家ではなかった。人が見晴るかす大自然に嘆声を上げる時、独りそのまなざしは、徹して足下にあった。ましてやそれが、取るに足らないものであればあるほど、いよいよその眼は慈しみに溢れた。何でもいい、画家の描いた小さきもの達を、一目見て頂ければ分かる、そこにはどんなきらびやかな花も及ばないような尊厳が、凛として静かに湛えられている事だろう。
展示会を終えた春の盛り、私は作品を返却に、再び横浜のご自宅までお伺いした。庭への急な坂道を登ると、まずは「ワンワンワン」というけたたましい出迎えがあって、ガラガラと玄関のガラス戸を開ける音と共に「こら!」という飼主の声が聞こえて来る。そして「あ、どうも」と爽やかな笑顔を見せる佐々木さん、いつも同じだった。くだんの庭番は、ボサボサに毛の垂れた、何となくみすぼらしい犬だったので、私はてっきり老犬だとばかり思っていたのだが、後日お聞きしたところ見かけよりはずっと若いのだそうで、いつも谷戸まで散歩に連れて行くんだと話されていた。 この日は、良い結果報告が出来なかったにもかかわらず、翌年の展示会を快くご了承頂いたばかりか、裏の竹薮で今掘ったばかりという、大きなタケノコまで戴いてしまい、何やら晴れ晴れと千葉への帰路に付いたのである。両手で受けてもズシリと重い、丸々と太った見事なタケノコで、春の谷戸に育まれた新たな命が、満々とみなぎるようであった。余談になるけれど、あんなに甘くて美味しいタケノコは、後にも先にも食べた事がない。
翌2007年夏、第2回展「野原詩(のはらうた) 」を開催、続いて2008年夏の第3回展「君がいた時」、そして昨年の第4回展「密陀絵(みつだえ) の世界」、こうしていつまでも毎年の展示会は、続いて行くものとばかり思っていた、お互いに段々と齢を重ねながら。会期を終えた昨年の七夕、私は作品を返却するため、いつものようにご自宅へ伺わせて頂いた。佐々木さんは普段と何ら変わりないご様子、実は近々私も小さな手術を控えていたものだから、それに備えた食事療法の記事をコピーしてくれたりと、かえって私の方が病人のようである。
「日頃の食生活が大事なんです」と、簡潔に説明をしてくれた後、画家はにこやかにこう言われた。「山口さんが倒れちゃうと、困っちゃう人がいっぱいいますから……」、分に過ぎたるは言わずもがな、この優しい励ましの言葉を、私は決して忘れまい。 月が変わった夕刻、画家宅へお電話を入れたところ、「今呼んで来ますね」
という奥様の言葉である。しばらくお待ちしていたらまたお戻りになられて、「散歩に出ちゃったみたいです」とのお返事、受話器を通してではあったが、私にとってそれが最後の画家の姿となった。「和さんが亡くなりました」という連絡が、地元横浜のギャラリーから入ったのは、それからわずか2ヶ月ほどを経たばかりの10月上旬である。私の脳裏には、真夏の夕暮れに長い影法師を引いて、愛犬と谷戸へ向かう画家の後ろ姿が、いつまでも残り続けた。
谷戸(やと) ──里山の森に囲まれた谷あいの地。谷津とも呼ばれ、人と自然が豊かな生態系を保って来たが、現在は乱開発のためその多くが失われつつある。そんな時勢の中、佐々木さんのこよなく愛した谷戸は、横浜という都市の中に、奇跡的に残された境域であった。 先月末、私は画家宅の傍らを過ぎて、その先に鬱蒼と広がる里山を目指し。満倉谷戸・旭谷戸・やまんめ山・梅田川、佐々木さんの作品におなじみの地名は、すべてこの周縁に位置する。とりわけ「満倉(みちくら) 」と呼ばれる谷戸は、画家の繰り返し描いた舞台だった。
初回展に「満倉の独り草」という作品があって、ご購入頂いたお客様のお店に伺えば、いつも目にする事が出来るのだが、私は特にその地を訪ねたいと思った。画面の真ん中に、一本の野草がすっくと立ち、気持ち良さそうに風に揺れている。後方には森に囲まれた野原、彼方の丘には小さな納屋、その上に青々と広がる夏空……。その日は折からの猛暑で、道には人っ子一人いなかった。徐々に緑の深くなる山裾を歩きながら、「佐々木さん、来ましたよ」と呟いてみる。きっとこの野路は、幾度も画家の通った道だろう。山陰に入ってふと目を落とすと、繁みの中の小さな路標に「満倉谷戸」と読める。その脇に伸びる小道を分け入ると、丘の上に突如畑地がひらけた。その真ん中には寂れた納屋、きっとあの絵に描かれていたものだ。画家の描いたアングルを探しながら、畑に沿った野道をたどると、たぶん農機具を置くためだろうか、道の脇に薮を拓い
て、小さな空地が作られている。それを目にした瞬間、あの絵を前に語られた佐々木さんの言葉が、ふいによみがえった。「ここにはちょうど、人が一人座れるような場所があってね、そこから描いたんですよ、すっぽりと森に囲まれてね」。 そうか、ここだったのか……。カメラを構え、ファインダーを覗いてみると、どうもアングルが高い。腰をかがめてもまだ高い。地面すれすれにファインダーを下げると、初めてあの絵と同じ視線になった。その角度から眺めると、目前の畑は彼方へと広がる丘であった。今は茶色の畝が見えているが、あの絵を描いた時分には、作物が植えられていたのかも知れない。ならば畑は、一面緑に染まる野原に見えただろう。後方をぐるりと囲む森、丘の上には小さな納屋、遥かなる夏の大空……、「満倉の独り草」は、正に野草視点で描かれていた。 帰り際にふり返ると、画家の姿がふっと見えた気がした。佐々木さんは空地にしゃがみ込んで、地面すれすれに顔をくっ付け、一心にスケッチブックへ線を走らせている。目の前には、時おり吹く風に身を揺らす、一本の野草。画家はそれを脇目もふらず描いている、なんだかとても楽しそうに。その横には、あの老けたボサボサの愛犬が寝そべり、ハアハアと舌を出して涼んでいる。それほど遠くもない日、確かにここにあったひと時……。
あの日、すべては柔らかな風に抱 (いだ) かれ、谷戸の森に包まれていた。そして今、画家は独り夢のように去って、この地には戻らない。しかし、かつて名もなき草となり、描き残したあの里山には、画家の確かな魂が刻まれている。だから、もう二度と戻らない時ではあるけれど、私は描かれた永遠の谷戸の道を、幾度も幾度もたどり直すだろう。佐々木さん、また会いに来ますよ。
ゴオーッと、風が谷戸を吹き渡った。私にはそれが、画家からの爽やかな返信に思えた。
(10.08.05 ~ 生前、最後の電話を入れた日に) 山口雄一郎」
転載終わり
山口画廊の画廊通信を無断で転載します。
http://home1.netpalace.jp/yamaguchi-gallery/top.cgi
画家と画商というのはある意味同じ船に乗った志を同じくした仲間だと思います。作家だけではなかなか世の中を渡って行くのが難しいし、画商もまた同じ。画商は作家が作家として精進できるように世間とのパイプ役に徹する。そんなうらやましい様な関係がつづられています。作家の最後のメッセージがこころ打ちます。
「画廊通信 Vol.80 名もなき草のように(第5回佐々木和展)
「ちょっと体が悪くなってしまったので、6月の個展は旧作も入ってしまうと思いますが……」という電話が入ったのは、昨年2月の事である。「胃ガンなんです。来月、手術の予定です」と、やけに明るく話される画家に、私
は何とお答えしていいのか分からなかった。
翌々月、京都で開催される個展案内が届いて、見ると “Ever Green NeverDie” というタイトルの脇に、こう書かれてある。 「二俣川ガンセンターから、ガン研有明に移りました。ガンバります」、早速お電話を入れたところ、開腹したが転移のため閉じて、抗ガン剤による治療に切り替えたとのお話、「ところで、案内状に載せる作品は、いつまでに送ればいいですか?」と、電話口の声はいつもと変わらずお元気であった。
翌5月の中旬、私は画家のアトリエにお伺いした。今までと趣向を変えて、今回は「密陀絵」でやりたいとの意向だったので、しばし作品を見せて頂いたり、技法の説明を受けたりのひと時、佐々木さんは随分とやせられた感じだったが、次々と作品を運んで来ては手際良く並べてくれたりと、いたって快活な振る舞いである。おかげで私はお話をしながら、目前の人の大病をつい忘れかけたりしていたのだが、今にして思えば、それは画家の思いやりだったのだろう。佐々木さんは最後まで、そんな人だった。 その日、打ち合せを終えて辞去する前に、ふっと微笑んで語られたひと言が、私は忘れられない。「来年は出来ないかも知れないので、高島屋は断ったんです。山口さんの所でやる時は、もういないかもね」、本当にいなくなってしまうとは、思いもしなかった。
佐々木さんと初めてお会いしたのは、5年前の秋である。ある美術誌をめくっていて不意に出会った、一枚の作品写真がきっかけだった。「八月の凪」と題された絵で、画面の下半分いっぱいに大きな魚が描かれ、精妙な色あいに染まる穏やかな海の彼方に、一艘の小さな釣り舟が浮かんでいる。一目見て、なんて気持ちのい、伸びやかな絵だろうと思った。これぞ天啓と確信した私は、早速連絡先を調べてその日の内に電話を入れ、数日後には作家のアトリエへと向かった。常日頃、優柔不断の私としては、異例の速さである。
JR横浜線の十日市場駅で下車、10分ほども歩いて住宅街を抜けると、突如緑豊かなエリアに入り込む。坂を降りて脇道にそれた一角に、目指す作家宅はあった。折しも晩秋の寒々とした日で、ちょうどストーブの石油タンクを下げて、物置から出て来られた画家にご挨拶申し上げ、こたつで暖まりながらゆったりとお話をさせて頂いた事が、ありありと思い出される。 以前は釣りが大好きで、房総方面は何度も行った事がある、あの絵は釣り上げた魚を描いたもの、楽しく釣っておいしく戴き、しかもその絵を買ってもらう訳だから、こんなにいい事はない、アハハハ、しかしここ数年は陸に上がって、付近の谷戸を描いている、谷戸は自然の宝庫でね……。 初めてお会いした画家は、モジャモジャの頭で見るからの自然体、とてもソフトで飾らないお人柄でありながら、一本妥協のない芯をさりげなく秘められた風、要は思っていた通りの人であった。
翌2006年春、「四季彩譜」と題した初めての個展を開催させて頂いた。 この時は会期中に2日ほどご足労頂き、両日共にあまりお客様には来て頂けなかったので、おかげで様々なお話を伺う事が出来た。「私の絵にはすべて、その時の出来事が入ってるんです。どうせだから端から行ってみますか」と、それぞれの作品にまつわるお話を、イキイキと語ってくれた佐々木さん、深閑とした画廊に響いた朗らかな声が、鮮やかに今も耳に残る。「これは林道に咲いていたカタクリの花、これは名前は知らないけど、道端で踏ん張っていた雑草、これは近くの森に住んでいる鷹で、こちらは雪の日見た野うさぎの足跡、一度うちの庭でバッタリと遭遇した事があってね、でかいくせに気絶しちゃったんですよ」、そんなお話を聞いていると、あらためて画家の描く谷戸の自然が、決してモチーフとして使われているのではない事が分かる。例えば佐々木さんは、飽かずに繰り返し描いて来た雑草達を、「絵の題材」とは微塵も考えていなかっただろう。それは画家にとって、まずはかけがえのない尊き生命であり、溢れる様な共感を覚える同胞であり、限りない敬意を捧げるべき、谷戸の象徴であった。おそらく画家は、描かずにはいられなかったのだ、独り大地に毅然と根を張って、けなげに生きる名もなき草達を。
佐々木さんは、見るからに壮大な絶景を、豪奢に描き上げるような作家ではなかった。人が見晴るかす大自然に嘆声を上げる時、独りそのまなざしは、徹して足下にあった。ましてやそれが、取るに足らないものであればあるほど、いよいよその眼は慈しみに溢れた。何でもいい、画家の描いた小さきもの達を、一目見て頂ければ分かる、そこにはどんなきらびやかな花も及ばないような尊厳が、凛として静かに湛えられている事だろう。
展示会を終えた春の盛り、私は作品を返却に、再び横浜のご自宅までお伺いした。庭への急な坂道を登ると、まずは「ワンワンワン」というけたたましい出迎えがあって、ガラガラと玄関のガラス戸を開ける音と共に「こら!」という飼主の声が聞こえて来る。そして「あ、どうも」と爽やかな笑顔を見せる佐々木さん、いつも同じだった。くだんの庭番は、ボサボサに毛の垂れた、何となくみすぼらしい犬だったので、私はてっきり老犬だとばかり思っていたのだが、後日お聞きしたところ見かけよりはずっと若いのだそうで、いつも谷戸まで散歩に連れて行くんだと話されていた。 この日は、良い結果報告が出来なかったにもかかわらず、翌年の展示会を快くご了承頂いたばかりか、裏の竹薮で今掘ったばかりという、大きなタケノコまで戴いてしまい、何やら晴れ晴れと千葉への帰路に付いたのである。両手で受けてもズシリと重い、丸々と太った見事なタケノコで、春の谷戸に育まれた新たな命が、満々とみなぎるようであった。余談になるけれど、あんなに甘くて美味しいタケノコは、後にも先にも食べた事がない。
翌2007年夏、第2回展「野原詩(のはらうた) 」を開催、続いて2008年夏の第3回展「君がいた時」、そして昨年の第4回展「密陀絵(みつだえ) の世界」、こうしていつまでも毎年の展示会は、続いて行くものとばかり思っていた、お互いに段々と齢を重ねながら。会期を終えた昨年の七夕、私は作品を返却するため、いつものようにご自宅へ伺わせて頂いた。佐々木さんは普段と何ら変わりないご様子、実は近々私も小さな手術を控えていたものだから、それに備えた食事療法の記事をコピーしてくれたりと、かえって私の方が病人のようである。
「日頃の食生活が大事なんです」と、簡潔に説明をしてくれた後、画家はにこやかにこう言われた。「山口さんが倒れちゃうと、困っちゃう人がいっぱいいますから……」、分に過ぎたるは言わずもがな、この優しい励ましの言葉を、私は決して忘れまい。 月が変わった夕刻、画家宅へお電話を入れたところ、「今呼んで来ますね」
という奥様の言葉である。しばらくお待ちしていたらまたお戻りになられて、「散歩に出ちゃったみたいです」とのお返事、受話器を通してではあったが、私にとってそれが最後の画家の姿となった。「和さんが亡くなりました」という連絡が、地元横浜のギャラリーから入ったのは、それからわずか2ヶ月ほどを経たばかりの10月上旬である。私の脳裏には、真夏の夕暮れに長い影法師を引いて、愛犬と谷戸へ向かう画家の後ろ姿が、いつまでも残り続けた。
谷戸(やと) ──里山の森に囲まれた谷あいの地。谷津とも呼ばれ、人と自然が豊かな生態系を保って来たが、現在は乱開発のためその多くが失われつつある。そんな時勢の中、佐々木さんのこよなく愛した谷戸は、横浜という都市の中に、奇跡的に残された境域であった。 先月末、私は画家宅の傍らを過ぎて、その先に鬱蒼と広がる里山を目指し。満倉谷戸・旭谷戸・やまんめ山・梅田川、佐々木さんの作品におなじみの地名は、すべてこの周縁に位置する。とりわけ「満倉(みちくら) 」と呼ばれる谷戸は、画家の繰り返し描いた舞台だった。
初回展に「満倉の独り草」という作品があって、ご購入頂いたお客様のお店に伺えば、いつも目にする事が出来るのだが、私は特にその地を訪ねたいと思った。画面の真ん中に、一本の野草がすっくと立ち、気持ち良さそうに風に揺れている。後方には森に囲まれた野原、彼方の丘には小さな納屋、その上に青々と広がる夏空……。その日は折からの猛暑で、道には人っ子一人いなかった。徐々に緑の深くなる山裾を歩きながら、「佐々木さん、来ましたよ」と呟いてみる。きっとこの野路は、幾度も画家の通った道だろう。山陰に入ってふと目を落とすと、繁みの中の小さな路標に「満倉谷戸」と読める。その脇に伸びる小道を分け入ると、丘の上に突如畑地がひらけた。その真ん中には寂れた納屋、きっとあの絵に描かれていたものだ。画家の描いたアングルを探しながら、畑に沿った野道をたどると、たぶん農機具を置くためだろうか、道の脇に薮を拓い
て、小さな空地が作られている。それを目にした瞬間、あの絵を前に語られた佐々木さんの言葉が、ふいによみがえった。「ここにはちょうど、人が一人座れるような場所があってね、そこから描いたんですよ、すっぽりと森に囲まれてね」。 そうか、ここだったのか……。カメラを構え、ファインダーを覗いてみると、どうもアングルが高い。腰をかがめてもまだ高い。地面すれすれにファインダーを下げると、初めてあの絵と同じ視線になった。その角度から眺めると、目前の畑は彼方へと広がる丘であった。今は茶色の畝が見えているが、あの絵を描いた時分には、作物が植えられていたのかも知れない。ならば畑は、一面緑に染まる野原に見えただろう。後方をぐるりと囲む森、丘の上には小さな納屋、遥かなる夏の大空……、「満倉の独り草」は、正に野草視点で描かれていた。 帰り際にふり返ると、画家の姿がふっと見えた気がした。佐々木さんは空地にしゃがみ込んで、地面すれすれに顔をくっ付け、一心にスケッチブックへ線を走らせている。目の前には、時おり吹く風に身を揺らす、一本の野草。画家はそれを脇目もふらず描いている、なんだかとても楽しそうに。その横には、あの老けたボサボサの愛犬が寝そべり、ハアハアと舌を出して涼んでいる。それほど遠くもない日、確かにここにあったひと時……。
あの日、すべては柔らかな風に抱 (いだ) かれ、谷戸の森に包まれていた。そして今、画家は独り夢のように去って、この地には戻らない。しかし、かつて名もなき草となり、描き残したあの里山には、画家の確かな魂が刻まれている。だから、もう二度と戻らない時ではあるけれど、私は描かれた永遠の谷戸の道を、幾度も幾度もたどり直すだろう。佐々木さん、また会いに来ますよ。
ゴオーッと、風が谷戸を吹き渡った。私にはそれが、画家からの爽やかな返信に思えた。
(10.08.05 ~ 生前、最後の電話を入れた日に) 山口雄一郎」
転載終わり
はる 3336
中学生になった甥っ子がブログを始めたということで、ちょっと覗いてみた。そう50年も前の、我々の中学生の頃には全く考えられなかった世界で、自分の趣味のプラモデルの記事などを書いている。彼らは、生まれた時からパソコンがあって、ネットの環境が整っていたわけだから、テレビとかCDとか携帯と同様に、違和感なくこの世界に入ってゆけるのだろう。考えて見ると私がHPを立ち上げたころに生まれたわけだから、なんだか面白い。
ネットのいいところは、そういった年齢とか性別、職業、今までのキャリアなどが全く関係なく対等に記事が並ぶわけで、彼の訪問者の数と私の数にはキャリアほどの差はない。まぁがんばって続けて欲しい。何か得るところがあるでしょう。
中学生になった甥っ子がブログを始めたということで、ちょっと覗いてみた。そう50年も前の、我々の中学生の頃には全く考えられなかった世界で、自分の趣味のプラモデルの記事などを書いている。彼らは、生まれた時からパソコンがあって、ネットの環境が整っていたわけだから、テレビとかCDとか携帯と同様に、違和感なくこの世界に入ってゆけるのだろう。考えて見ると私がHPを立ち上げたころに生まれたわけだから、なんだか面白い。
ネットのいいところは、そういった年齢とか性別、職業、今までのキャリアなどが全く関係なく対等に記事が並ぶわけで、彼の訪問者の数と私の数にはキャリアほどの差はない。まぁがんばって続けて欲しい。何か得るところがあるでしょう。
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