画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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まぁ人のこし方行く末なるものを考えてゆくと、どうやっても最終的なあり方というのかね、老い方、そんなことを考えてしまう。
それで、ホスピスの語源などを調べてみた
「・・・中世ヨーロッパで、旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指した。そうした旅人が、病や健康上の不調で旅立つことが出来なければ、そのままそこに置いて、ケアや看病をしたことから、看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになった。教会で看護にあたる聖職者の無私の献身と歓待をホスピタリティ という・・」
ターミナルケアのところで書いたと同じ。この巡礼者というのが特に気になった。洋の東西を問わず、人はある時に巡礼に旅立つんだな。
このところ年金の問題で高齢者の所在不明が問題になっているけれど、確かに残されたものが不正に年金をごまかすためということもあるかもしれないが、もっと本質的なことがあるのではないかな。
動物は自らの死期を悟ると、どこかに出かけていなくなるというようなことを聞いた。案外人のDNAの中にそういった情報が書き込まれていて、ある時ぷいと漂泊の旅に出る。巡礼の業に出てそのまま行き倒れていってしまう。そういった生き方の方がある意味正しいのではないか。
インドのバラモン教のなかに人生を四つの時期に分けて説いているのをみつけた。
1、学生期・・・あらゆることを学ぶ時期
2、家住期・・・家庭を持って子育てする
3、森棲期・・・森に住んで隠棲して修行する時期
4、遊行期・・・一定の住居をもたず乞食遊行する。漂泊期
私はなぜか小さい頃から漂泊する修行僧に憧れるような、妙にませたガキだった。何がそうさせるのか分からないのだけれど、だから今もこのバラモン教の遊行期の話を覚えていた。意味もよく分からずに何となく漂泊の旅に出るんだなと思っていたのだけれど、何となく納得したな。
何故「一輪の花」を持つか?ということなんだけれど、私などは旅芸人のようなものでね、芸を見せて生きている。だからどんなになっても、飄々とね歌を唄って生きてゆきたい。花はある種の自分たちの生き方の象徴のように思うんだな。
それで、ホスピスの語源などを調べてみた
「・・・中世ヨーロッパで、旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指した。そうした旅人が、病や健康上の不調で旅立つことが出来なければ、そのままそこに置いて、ケアや看病をしたことから、看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになった。教会で看護にあたる聖職者の無私の献身と歓待をホスピタリティ という・・」
ターミナルケアのところで書いたと同じ。この巡礼者というのが特に気になった。洋の東西を問わず、人はある時に巡礼に旅立つんだな。
このところ年金の問題で高齢者の所在不明が問題になっているけれど、確かに残されたものが不正に年金をごまかすためということもあるかもしれないが、もっと本質的なことがあるのではないかな。
動物は自らの死期を悟ると、どこかに出かけていなくなるというようなことを聞いた。案外人のDNAの中にそういった情報が書き込まれていて、ある時ぷいと漂泊の旅に出る。巡礼の業に出てそのまま行き倒れていってしまう。そういった生き方の方がある意味正しいのではないか。
インドのバラモン教のなかに人生を四つの時期に分けて説いているのをみつけた。
1、学生期・・・あらゆることを学ぶ時期
2、家住期・・・家庭を持って子育てする
3、森棲期・・・森に住んで隠棲して修行する時期
4、遊行期・・・一定の住居をもたず乞食遊行する。漂泊期
私はなぜか小さい頃から漂泊する修行僧に憧れるような、妙にませたガキだった。何がそうさせるのか分からないのだけれど、だから今もこのバラモン教の遊行期の話を覚えていた。意味もよく分からずに何となく漂泊の旅に出るんだなと思っていたのだけれど、何となく納得したな。
何故「一輪の花」を持つか?ということなんだけれど、私などは旅芸人のようなものでね、芸を見せて生きている。だからどんなになっても、飄々とね歌を唄って生きてゆきたい。花はある種の自分たちの生き方の象徴のように思うんだな。
今の制作方法になって、最初の頃は随分と自家製の絵の具を作った。色んな色粉を買ってきてはメジュームを混ぜて絵に具にした。面白いように絵の具の数は増えた。それは画期的な発見のように思った。そりゃそうだ、今までは絵の具は画材店で買うものだと考えて疑わなかったわけだから、それが簡単に色の粉で絵の具を作ることが出来ると知って驚いた。
しかし、そういった新しい発見で喜んでいる時は案外つまらない仕事しか出来ていない。絵の具は絵を描く材料でしかないということに気がついた。そして随分と絵の具の数は少なく整理されてきた。少し前に書いたけれど、今は基本的な色はアクリル絵の具を使う。そしてどうしてもアクリル絵の具ではかえ難い、例えば胡粉とか砥粉とか弁柄とかその他土せいの顔料などの絵の具は自分で作ることにしている。
そう、特別な赤は絵の具にはないから作るしかない。
しかし、そういった新しい発見で喜んでいる時は案外つまらない仕事しか出来ていない。絵の具は絵を描く材料でしかないということに気がついた。そして随分と絵の具の数は少なく整理されてきた。少し前に書いたけれど、今は基本的な色はアクリル絵の具を使う。そしてどうしてもアクリル絵の具ではかえ難い、例えば胡粉とか砥粉とか弁柄とかその他土せいの顔料などの絵の具は自分で作ることにしている。
そう、特別な赤は絵の具にはないから作るしかない。
自分は大きな作品、例えば100号をこえるような作品はどうも苦手なところがある。アトリエが小さいということも関係しているのかしれないが、今まで上手く描けたと納得したことがない。自分の身体能力的には162cmx162cmぐらいまでで、それをこえた大きさのものは若干無理して描いているところがあるように思う。公募展やコンクールは大体100号前後が大きさの規制で、まぁチャレンジしていた頃は何枚も平行して描いてた時期もあったね。今はもうそれほどたくさんの大作を描くことはない。
小品は失敗作も含めると年間で100点ぐらい描く。その中でまずまずの作品は半分ぐらいだろうか。段々個展が中心になってきたように思う。それはそれで絵描きとして生きてゆくわけだから、当然の成り行きのようにも思う。
けれど、やっぱり小品ばかりを描いていると、ばかでかい毒にも薬にもならないような、無駄に大きい、間違っても売れないような作品もかきたくなるから不思議だ。まぁ精神衛生上こういった大作も必要かなと思っている。
小品と大作というのが微妙にずれていて、なかなか同じようには描けない。気持ち的には大きくても小さくても同じように堂々とへたくそに描けばいいのだけれど、どうも大きな絵になると実力以上に見せようとするのか、下手を悟られないようにしたいという、姑息な気持ちが見え隠れするのか、満足できる作品にはならない。まぁそれが実力というものだろう。
同じように見える絵でも、少しずつ変っている。最近の大きな絵は少し前の具象的な作風に変ってきたように思う。一時はかなりタピエスに影響されてかなり具象から離れていたのだけれど、また少し具象てきな人物が入ってきたように思う。「牧歌」とか「方舟」あたりの感じかな。まぁらせん状にスパイラルしながら繰り返してゆくから、だからどうだとはいえない。また大きく抽象の方に揺れることもあるわけだからね。そうやってどんどん深みに舟をこいで行くのだろうと思っている。
小品は失敗作も含めると年間で100点ぐらい描く。その中でまずまずの作品は半分ぐらいだろうか。段々個展が中心になってきたように思う。それはそれで絵描きとして生きてゆくわけだから、当然の成り行きのようにも思う。
けれど、やっぱり小品ばかりを描いていると、ばかでかい毒にも薬にもならないような、無駄に大きい、間違っても売れないような作品もかきたくなるから不思議だ。まぁ精神衛生上こういった大作も必要かなと思っている。
小品と大作というのが微妙にずれていて、なかなか同じようには描けない。気持ち的には大きくても小さくても同じように堂々とへたくそに描けばいいのだけれど、どうも大きな絵になると実力以上に見せようとするのか、下手を悟られないようにしたいという、姑息な気持ちが見え隠れするのか、満足できる作品にはならない。まぁそれが実力というものだろう。
同じように見える絵でも、少しずつ変っている。最近の大きな絵は少し前の具象的な作風に変ってきたように思う。一時はかなりタピエスに影響されてかなり具象から離れていたのだけれど、また少し具象てきな人物が入ってきたように思う。「牧歌」とか「方舟」あたりの感じかな。まぁらせん状にスパイラルしながら繰り返してゆくから、だからどうだとはいえない。また大きく抽象の方に揺れることもあるわけだからね。そうやってどんどん深みに舟をこいで行くのだろうと思っている。
少しは秋らしくなってきた。
甲府の個展のDMが出来ました。一度個展にこられた方は展覧会一週間前(11月)になりましたら送るつもりです。いま少しお待ちください。それから遠方の方で是非DMが欲しいというひとはここに住所、氏名を書いて送って下さい。
甲府の個展のDMが出来ました。一度個展にこられた方は展覧会一週間前(11月)になりましたら送るつもりです。いま少しお待ちください。それから遠方の方で是非DMが欲しいというひとはここに住所、氏名を書いて送って下さい。
人は長生きし過ぎたのかもしれないな。普通生物は子供が巣立ったら自らの寿命は尽きる。DNAを無事に運んだわけだから生物として一応の義務を果たしたというわけだ。ところが人類は子供がひとり立ちしても尚長く生きている。ある意味子供の足を引っ張る可能性も大いにあるわけだ。親の世代が子供世代に負担をかける生物など他にいないのではなかろうか。
私自身がもう孫がいてもおかしくない年齢になってきた。この先のことを考えるとまぁ安穏とはしていられないのだけれど、さてさて、こればっかりはどうしようもない。どういう結末が待っているのか、楽しみでもあり、恐ろしくもある。だからあまり考えないことにしてきた。
絵のテーマとしてそんなことがちらりと浮かんだ。終末医療というのは違うのかもしれないけれど、いずれ自分たちが面と向って対峙しなければならない問題だな。今はまだ頭でっかちで考えているだけだけれど、一度は死病と対峙した経験はあるのだけれど、この老という問題は初めてのことだ。どうやって付き合ってゆけばいいのか皆目見当がつかない。
今回そんなことを考えながら作品にしてみたけれど、どうもまだまだ消化不良で上手くはいかない。そうやって周りを眺めてみてもあまりそういったテーマで絵を描いている人もいない。不特定多数の幸せな風景や情景は「「ラブ&ピース」のようなもので絵にしやすいのだけれど、こういった深刻な話は一般化しにくいのかもしれないな。
どうも眠くて話がピーマンになってきた。またそのうちに。おやすみなさい。
私自身がもう孫がいてもおかしくない年齢になってきた。この先のことを考えるとまぁ安穏とはしていられないのだけれど、さてさて、こればっかりはどうしようもない。どういう結末が待っているのか、楽しみでもあり、恐ろしくもある。だからあまり考えないことにしてきた。
絵のテーマとしてそんなことがちらりと浮かんだ。終末医療というのは違うのかもしれないけれど、いずれ自分たちが面と向って対峙しなければならない問題だな。今はまだ頭でっかちで考えているだけだけれど、一度は死病と対峙した経験はあるのだけれど、この老という問題は初めてのことだ。どうやって付き合ってゆけばいいのか皆目見当がつかない。
今回そんなことを考えながら作品にしてみたけれど、どうもまだまだ消化不良で上手くはいかない。そうやって周りを眺めてみてもあまりそういったテーマで絵を描いている人もいない。不特定多数の幸せな風景や情景は「「ラブ&ピース」のようなもので絵にしやすいのだけれど、こういった深刻な話は一般化しにくいのかもしれないな。
どうも眠くて話がピーマンになってきた。またそのうちに。おやすみなさい。
シャメとブログというのは昔の絵日記のようだな。一応今日は何をシャメするか?ということを頭の中にインプットしておかないと忘れてしまう。忘れてしまって何もない時はアトリエの風景でもシャメする。文章は後で考える、というのかまず何かを書き始める。書きながらおおそうだそうだと修正したり、付け加えたりする。この方法だと何も書くことがなくても、次第に芋づる式に文章がつながってゆくと言うわけだ。
時々本を読んだり、新聞を読んで感じたこと、今日はこれをテーマにして何か考えてやれと言う時はどこかにちょこっとメモしておく。これも旬があって大体24時間以内に書かないと意欲が薄れる。だからこれはネタになるからといって取っておいてもだめだね。ネタが古いまずくなる。絵とおんなじだ。旬が大事だ。
こうやって10年続ければ相当文章がストックされる。いや同じようなことを何度も何度も反芻している牛のようなので、面白いかといえば面白くないかもしれん。つたない文章で情けなくもある、でも知ったことではない。そんなことのために書いているのではないからね。まず自分が書くことが、考えることが好きだ、ということだ。誰かに強制されれば、これほど苦痛な修行はないだろうな。ないものをいくら探って書けない。
例えばここに鉛筆一本転がっていても、なぜここに鉛筆があるんだということを考えてゆくと、誰かがどこから持ってきたわけだ、それはもらったものか、買ったものか、いつ買ったんだとか、それなりの来歴が綴れるわけだ。
ものというのは自然には集まってこない。必ず何かしらの理由があってそこにやってくる。そう考えると、身の回りにあるものが、すなわち仮の自分の姿でもあるわけだ。なんだかんだと言いながらも毎日、毎時、この一瞬一瞬選択しているだな。
今日の格言「集まったガラクタは自分自身」
時々本を読んだり、新聞を読んで感じたこと、今日はこれをテーマにして何か考えてやれと言う時はどこかにちょこっとメモしておく。これも旬があって大体24時間以内に書かないと意欲が薄れる。だからこれはネタになるからといって取っておいてもだめだね。ネタが古いまずくなる。絵とおんなじだ。旬が大事だ。
こうやって10年続ければ相当文章がストックされる。いや同じようなことを何度も何度も反芻している牛のようなので、面白いかといえば面白くないかもしれん。つたない文章で情けなくもある、でも知ったことではない。そんなことのために書いているのではないからね。まず自分が書くことが、考えることが好きだ、ということだ。誰かに強制されれば、これほど苦痛な修行はないだろうな。ないものをいくら探って書けない。
例えばここに鉛筆一本転がっていても、なぜここに鉛筆があるんだということを考えてゆくと、誰かがどこから持ってきたわけだ、それはもらったものか、買ったものか、いつ買ったんだとか、それなりの来歴が綴れるわけだ。
ものというのは自然には集まってこない。必ず何かしらの理由があってそこにやってくる。そう考えると、身の回りにあるものが、すなわち仮の自分の姿でもあるわけだ。なんだかんだと言いながらも毎日、毎時、この一瞬一瞬選択しているだな。
今日の格言「集まったガラクタは自分自身」
公募展なんかでもそうだけれど、コンクールの功罪でよく言われるのが「射幸心」って言葉。で、射幸心をもつことはいけないことのように書かれていることがよくわからなかった。まぁ言葉の意味の元々はギャンブルの努力もせず単に偶然で一攫千金を狙う心構えをいうのだけれど、どうもいいやら悪いやらがよく分からない。
若い頃に多くのコンクールに出品したのは、世の中に出る方法として、一番要領よく注目を集める方法はコンクールで大賞を取る事だということが書かれていた雑誌を鵜呑みにしたところもある。学歴も画歴もほとんどないような若造が、普通にまじめに地方で絵を描いて個展を開催すると言うだけではなかなか注目されないだろうと考えた。時代はバブリル真っ最中で色んなところで冠の着いたコンクールが開催されていた。で、手当たり次第にコンクールに出品したのはそういったわけだ。
今なら「射幸心」の意味も分かる。例えばたまたま偶然に幸運なことに一等が当たったとしよう。絵画のコンクールはくじやバクチではないので、当たったという言葉は本当は間違いなんだけれど、コンクールで大賞を獲得する幸運は限りなくバクチに近いものがあるし、偶然の左右することも大いにあるわけだ。
たまたま当たってしまうと、時に勘違いをおこす。芥川賞や直木賞を取って二三年大騒ぎして消えてしまった作家は何人いるだろうか。もちろんそこから運命を切り開いて押しもおされぬ大作家になった人も大勢いるのだが、絵画の場合ほとんど消える確立の方が大きい。運命のきまぐれで人生を踏み外してしまうのだな。
まぁそのことを肝に銘じて、そのことに翻ろうされずに、反対に武者修行ぐらいのつもりで利用すれば適度なモチベーションの維持にも役に立つのでいいところも大いにあるな。
若い頃に多くのコンクールに出品したのは、世の中に出る方法として、一番要領よく注目を集める方法はコンクールで大賞を取る事だということが書かれていた雑誌を鵜呑みにしたところもある。学歴も画歴もほとんどないような若造が、普通にまじめに地方で絵を描いて個展を開催すると言うだけではなかなか注目されないだろうと考えた。時代はバブリル真っ最中で色んなところで冠の着いたコンクールが開催されていた。で、手当たり次第にコンクールに出品したのはそういったわけだ。
今なら「射幸心」の意味も分かる。例えばたまたま偶然に幸運なことに一等が当たったとしよう。絵画のコンクールはくじやバクチではないので、当たったという言葉は本当は間違いなんだけれど、コンクールで大賞を獲得する幸運は限りなくバクチに近いものがあるし、偶然の左右することも大いにあるわけだ。
たまたま当たってしまうと、時に勘違いをおこす。芥川賞や直木賞を取って二三年大騒ぎして消えてしまった作家は何人いるだろうか。もちろんそこから運命を切り開いて押しもおされぬ大作家になった人も大勢いるのだが、絵画の場合ほとんど消える確立の方が大きい。運命のきまぐれで人生を踏み外してしまうのだな。
まぁそのことを肝に銘じて、そのことに翻ろうされずに、反対に武者修行ぐらいのつもりで利用すれば適度なモチベーションの維持にも役に立つのでいいところも大いにあるな。
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