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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 一日冷たい雨が降っています。
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 昨日は木枯らしが吹いて一気に冬になったようだ。寒いのは嫌いではない。これから約半年冬仕度となる。毎年のことだが、この秋から冬の初めは新鮮な感覚にわくわくする。もう何十年も同じことの繰り返しなのに、人というのは忘れるものだな。しまっておいたストーブを出した。

 もうすぐ甲府の個展が始まる。楽しい出会いがあるといいのだけれどね。



 
 鳴り物入りで町中にあたらしいビルが建って一昨日オープンした。町中の活性化をもくろんで地下から二階までが店舗でその上が宝石学校、さらにその上がマンションになっている。県営の駐車場も兼ねているからその点便利に使えそうだ。

 ということで、楽しみにして覗きに行ったのだが、想像していた以上に陳腐なスペースで驚いた。一階の一等地にバーさんが売れないような団子を売っていた。なんじゃあれは。笑ってしまう。明らかに取ってつけたような場ふさぎてきな、大学祭の模擬店のような、お店ともいえないような、悲しい寂しい場末感が漂っていた。オープンのおめでたい、一番盛り上がって盛大に人が行き来する時にあれはないだろう。

 一階のスペースしか見なかったけれど、以下は推して知るべしだな。一度行けば二度とは行かないような魅力のないスペースをいくら作っても活性化には程遠い。かえってマイナスの効果しかない。もし県の担当者があれでいいと思っているなら、一年も持たないでスラム化するだろう。少し前の西武の跡地の県民プラザ、オギノの入っていた旧ポトスの甲府あるじゃん。唯一のデパート○○デパート。すべてよれよれだ。

 公の力が入れば入るほど、援助金が入れば入るほど、活性化とは縁遠くなる。なんだろうなぁ、昔バブルの頃にリゾート開発の名目でとんでもない僻地に公のお金がどんどんつぎ込まれて、大リゾート地が突如出現したことがあった。教員などの共済会館などもそうだけれど、結婚式場や宿泊施設がぼこぼこ出来ていた。とんでもない田舎の田んぼのど真ん中にデラックスな音楽ホールなども出来た。ほぼ3年ぐらいで膨大な借金を抱えて、みんなつぶれて今は廃墟になっているか、つぶされて更地になっている。

 そうなる可能性が大いにあるから危惧するのだ。町中にあるよさというのをどうして誰も考えないのだろう?町中におしゃれじゃない田吾作のスペースを作って何をする気だろう。不思議だ。民間に任せるべきだな。おしゃれなブランドが無理なら、反対に若いやる気のある者に全面的に任せるとか、思い切った事をやらないと致命傷になる。立ち直れないよ。

 ************** 
10/28のUTYの「ニュースの星」の「アトリエ訪問」のコーナーに出ます。3分ぐらいの番組だそうです。取材は3時間もやったのにね。



 
 昨日は先日の「町の芸術祭」で知り合った若い友達と餃子と肉まんなど皮の部分から作って、みんなでワイワイと遊んだ。若い連中と遊ぶのはどうして楽しいのだろう。まぁ私がというよりカミさんがすきなんだろうな、私はただフンフンと見ているだけだから・・。

 「若いお前たちには分からんだろう」と偉そうに薀蓄をたれるわけではない。知ったかぶりして若い連中相手に君臨するつもりもない。経験がなくて未熟なのは当たり前だ。そんなところで差をつけて上から目線で話をしたいとは思っていない。ただ単に一緒に飯を食ったり飲んだりして楽しみたい、それだけだ。役に立つことなど何もしたくない。

 「閑話休題」

 修行する行者は荒行などで体を痛めつけて人間業とは思えないような苦行をする。チベット仏教などでみるのが五体投地といって体をなげうって聖地まで到達するのを修行の一つとしている宗派もある。一生右手を上げたまま生活するとか、生身の体を出来るだけ痛めつけているようにしか思えない修行もある。いかにして人の欲をたつかということであり、本質的には生物としての生と矛盾する。

 修行するものは山に住むだから仙人というのだけれど、それは分かりやすいトレードマークのようなもので、まだまだ本物じゃない気がする。本当の修行はもっと町中で「寒山拾得」ではないけれど、箒でも持ち掃除しなら、普通に日常生活しながら、そんな中でするものじゃないかな。最終的には穏やかに、良寛さんのようにただただ子供と遊ぶそれだけでいいというふうなのが本物じゃないかな。

 何が芸術かよく分からないのだけれど、純粋に芸術と言われているものだけ取り出して例えば芸術館みたいなところに展示したり、発表したりして、それをまたありがたがって鑑賞する、そんな芸術ももちろんあってもいいのだけれど、私の目指すところではない。

 内緒のはなしをすると、人は何気ない日々の生活の中で、ちょこっと慰められたり、心のささえになたり、癒されたり、ありがたかったり、こころよかったり、こころのよりどころになるような物、事、出来事、それがひょっとしたら「いのり」というものかもしれないけれど、それが表現の核でないかと思っている。そんなものを捕まえたい。




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 昨日の話したギャラリーのシャメです。下がそのクートラスの画集。その画集にクートラス自身の言葉が残されているのだが、無断でその部分を引用する。
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Robert  Coutelas   Mes  Nuits 「僕の夜」
「立ちのぼるブーケ,気つけ薬として」p98,99より
岸真理子・モリア
「僕は描かなければいられない。だから毎日絵を描くし、紙がなければ地下鉄の切符にだって描くだろう。材料とかテクニックは二次的なことさ、たった一つ大事なことは、何かを探しているってことだよ」・・中略・・クートラスには、本質的に旅回り画家的なところがありました。「僕がバイオリン弾きだったらねぇ、通りで演奏して、生活できるのになぁ。」と言っていました。本当にジプシーのバイオリン弾きみたいに、旅回りしながら絵を描いて、生活してゆくことが出来たら幸せだったでしょう」・・中略・・
「クートラスにとって芸術は聖なるものの探求だったのかもしれないません。そんな風に思うのは、彼の言うpatronが神様のことのような気がするからです。究極の無神論者だったとも言えるクートラスが、存在の深みからほとばしり出した作品には、聖なるものが宿り、それが人の心の聖なるものに、生命に直接語りかけてくれると信じていたからです。・・略」
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 昨日色んなギャラリーのはしごをしてまわったのだが、その中でたまたま私の作品(お面)を持っている方がいて、その時にはお会いしていなかったので初対面であった。その人の家は代々神主さんで、どうしてそのお面を購入したのかという話から、その表現の奥にある「いのりのかたち」の話になって、思わず意気投合してなかなか面白かった。多くはないけれど、こうやって長く活動しているとどこかで共感を持って見てくれている人がいるもので、やっていて無駄ではなかったんだなとうれしく思った。



 
 気になっていたロベール・クートラスの展覧会を見に出かけた。地下鉄・麻布十番で降りて坂道をとことこと10分ばかり歩く。高速道路が狭い空をよけいに圧迫している。地図がなければ絶対に行けないような袋小路の突端に古ぼけた洋館のアパートがあった。青山などのおしゃれな町中で、いかにもそれ風なブテックならあるけれど、神戸の坂の上の古い洋館のように住宅として普通に使っていたアパートが、タイムマシーンにのってそこに現れたようなこころくすぐられる建物だった。

 しかし、なんだね。例えば今建てた建物が50年経ってこれだけの風格というのか品格というのかが、残っているのかといえばとても無理だろうな。建物自体に住んでいた人の愛着がないし、なんだろう美しく年を経てゆくという気持ちが、それを是とする共通の認識が育っていない。古くなって薄汚れてくれば、バリバリと重機で壊してスクラップにして廃棄してしまうという、ものすごく短絡的な荒っぽい思考を是とする気持ちしかないのではないか。物に対する愛情というのが、どんどん希薄になっているように思う。心込めたものには魂が宿るんだということを、教えなければならない。

 肝心の展覧会の件についてはまた今度。

 後は銀座に出て、お世話になったギャラリー惣が一年半ぶりに再開して今日がオープン記念だったので、お祝いにかけつける。銀座に出かけた時には寄って下さい。
銀座・ギャラリー惣が再開しました。
オープン企画
武田百合子個展
2010 11/21(木)~11/4(木)
銀座・ギャラリー惣
中央区銀座7-11-6徳島新聞ビル3F
03-6228-5507



 
  明日は久しぶりに花のお江戸に出ます。色々な個展の案内が来ているのですが、なかなか出かけられないのですが、ちょうど見たい作家の展覧会とギャラリーのオープンが重なったのでこの際だからと重い腰をあげます。

 誰かが門柱のガラス玉を割った。自分で作ったものだから値段的には大したことはないのだが、謝りに来たならしかたないけれど、黙ってそのまままというのはよくないね。どうしたものか?



 
「猫の後ろ姿」さんがエールを贈ってくれた。どうもありがとう。
http://ameblo.jp/e-no4765/entry-10681353203.html
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    「花であること」   石原吉郎 
 
     花であることでしか
  拮抗できない外部というものが
  なければならぬ
  花へおしかぶさる重みを
  花のかたちのまま
  おしかえす
  そのとき花であることは
  もはや 一つの宣言である
  ひとつの花でしか
  ありえぬ日々をこえて
  花でしかありえぬために
  花の周囲は的確にめざめ
  花の輪郭は
  鋼鉄のようでなければならぬ




 
 携帯を替えてから利用料金がやたらと高くなった。前は普通に使って3000~4000円ぐらいだったのにいきなり7000円以上になった。携帯で家族以外と通信することはほとんどないのに、私の何倍も利用しているカミさんと変らないのはどう考えてもおかしい。

 料金明細が送られてくるのだが、色んな名称がついてはいるのだけれど、ほとんど意味が分からない。この明細を見てすんなり理解できる人は相当変った人ではないだろうか。生命保険の但し書きのように、あえて分からないように、理解できないように書いてあるのではないかと疑ってしまう。分かってしまうと何か不都合が生じるのだろうかね。

 と言うわけで、またまたネットで検索してみた。そうするとやはり私と同様によく分からないで疑問に思っている人がいるものだ。

 今までの携帯のシャメは古いものだから画素数がとても少なくて、言ってみれば凄く荒い画像だった。まぁそれが幸いしていたのだけど、今の携帯の画素数は昔のデジカメぐらいの画素数があって、すごく綺麗だけれどフルサイズで送ると時間もかかるし、何よりも通信料が掛かるという事らしいことがわかった。

 メールとか画像の送信は電話のように時間に対してその料金が掛かるのではなく、大事なのはその情報量で掛かるということなんだな。パケットというそうだけれど、文字のメールなどは大した情報りょうではない、問題は画像だな。私は綺麗になった大きなサイズの画像を毎日、何枚も送っていた。これが凄い情報量だった。

 普通1パケットに0.2円の料金が課せられるのだけれど、私は一ヶ月に132,946パケット使用していた。単純に計算すると26,000円掛かることになる。新しい携帯になった時にパケホーダイ ダブルという契約をしていたおかげで定額の4,200円以上はかからない契約になっていたので助かったのだが、もし、そういう契約にしていなければ思わぬ高額の請求がくることになっただろう。それにしても本来の電話としての利用料金より高い通信をしていたということで、知らなかったというだけでは済ませられないな。

 まぁシャメの画素数を落としてそれでどうなるか、それでもだめなら少しシャメはひかえることになるかな。
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