忍者ブログ
画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
[24]  [25]  [26]  [27]  [28]  [29]  [30]  [31]  [32]  [33]  [34
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。




はる 3449
 私の親父は59歳で亡くなった。そのまた親父、私からいえば父方の祖父さんも59で亡くなった。と言うことで私たち兄弟は59歳を戦々恐々でそれぞれ迎えたのだ。そして末っ子の私が来年四月に59を迎えることになった。

 最後の残った私が無事に59歳をクリアーすれば我が家に伝統的にある「のろわれた59歳の自縛」から逃れられることになるのだ。さてどうなるのやら。今のところは迷惑な兆候はないから、たぶんクリアーされるのだろう。

 それにしても私が想像していた59歳と、今の私の年齢の実感とは驚くほど差がある。昔の30歳はかなり大人であった。もうすでに押しも押されぬ貫禄があって、そればかりではなく分別も責任も充分感じられた。

 59歳にもなれば、定年間近ということもあるし、人生一つやり終えた満足感とか、充実感がそこはかとなく漂っていて、隠居して老後は孫の面倒でもみて悠々と暮らしてゆく。そんなイメージなんだが、おいおい今の私はまるでガキじゃん。

 仕事などまるで切りがついてはいないし、私がまともな勤めもしていないので、社会的な責任感もまるでなってない。

 これから20年経って、もういつこの世からいなくなってしまってもおかしくない年になっても、内容はほとんど変らないように思う。 

 さて、また眠くなって書いている話がピーマンになってきた。
 
 




澤登しげこ個展
本の中の主人公たち
2010 11/27~12/5
三彩洞
甲府市貢川1-1-12
055-226-8393
 



 
はる 3445
 午前中インフルエンザの注射に家内と出掛ける。一方だけが予防注射をすると、片方にうつるような気がして毎年夫婦で接種することにしている。

 午後は天気もいいので少しドライブがてら勝沼の喫茶店に行く。妙な予感が的中して今日は臨時休業だった。割とこういたことが多い。

 私の愛車はただいま入院中。どうもこのところ機嫌が悪い。冬場になると割りにトラブル多くなる。13万キロ走っているので老体には違いない。車検がまだ少し残っているので、だましだまし乗るしかない。

 このところの不穏な情勢とわが国の対応を見ていると、この国は自立していない若者のようだなと感じる。戦争に負けたことは恥ずかしいことではない。その後自立する気概を失って全くかの国におんぶに抱っこ状態に頼ってしまったことが恥ずかしい。こと外交のことは何一つ自分の言葉でしゃべれない。これは政治家だけの話ではないな、この国の全ての人共通するトラウマかもしれない。

 福澤諭吉ではないけれど「自尊自立」と言うのが個人でも国家でもとても大切なポリシーではなかろうか。そうやって対等な立場に立ってもの言うことがあらゆることの前提だと思う。でなければ説得力のある言葉はでてこない。

 例えば中国にまったく依存していたレアアースの件でも、戦略的にかの国のやったことは正しくはないかもしれないが、まともだと思う。取引の手段として相手の一番嫌がる首根っこを押さえるというのが常套手段だろう。敵に塩を送っておいて対等に勝負しようなどと言うのは美談であるが、戦略として愚策だろう。

 これがあらゆることに言えて、例えば食料だったらどうするんだ。売ってやらないと言われればそれでお終いだ。何でもいいなりにならざるを得ない。これも自立していないからだな。火急にやらねばならないのは農村、農業を復活させて自給率を上げることことだろうな。言うのは簡単だけれどさて、どうするかということだ。

 何も食料だけの話ではなくてね、結局はすべてのことに共通するのだけれど「自尊自立」することが当たり前に「かっこいい」という誇りを持つことだと思うな。「こうあるべき」などと説教されてもそっぽ向かれてお終い。「かっこいい」ということになれば放っておいてもそうなるように思う。どうだろか。

 もっとも根本的なことは、「誇り高く生きる」ことだ。そのことを少しでも伝えなければ。




 
はる 3443
 つれづれに書きます。結論はありません。

 考えるというのは必ず言葉を使っている。熱いだ、冷たいということさえ言葉なくして人に伝えることは難しい。動物には言葉がないから多分考えているふうに見えるけれど、思考はしていないと思う。

 人類はどんな未開の地に行ったとしても言葉が存在する。これは他の動物との決定的な違いではなかろうか。

 最初は具体的な事柄から始まったのだろう。身の回りにある例えば太陽とか月とか星とか雨や風などなど。そのうちに具体的なことから離れて怖いとか不安だとか心配だとか抽象的な言葉が出来てきたのだと思う。

 DNAはどんな生物にも共通する神から与えられた言葉だけれど、その言葉は思考することはない。DNAそのものはただ言葉の羅列のようなものだ。そうやって考えると言葉は遺伝子とよく似ている。基本的な文字を組み合わせてより複雑な事柄を表示できるところなど。

 その言葉を使って我々は行ったこともないところも、経験したこともないことも、実にリアルに知ることが出来るし、最大の特徴はそうやって得た知識を活用して未来を予測できることだ。こうなりたい、ああであればいいと考えてそれに備えた。

 そして我々は知っている。確実なこと、いずれは消えてなくなってしまうことだ。

 神は多分そこまで予想していなかった。方舟に乗せたのはありとあらゆる生命の遺伝子だった。そこまでは成功だったんだな。ところが人は言葉の遺伝子を考えついてしまった。

 言葉は宇宙だ。無から無限まで自由自在。過去から未来までこれもまた自由自在。二次元でも多次元でも何でもござれ。こんなことを考えられるのは神しかいなかった。この思考する言葉の中に大いなるものの意思があるのではないかな。よくわからんけれどね。

 



 
 私が学生になってもう一度基礎から勉強しようと思った頃は、洋画とか日本画などという枠が随分の古臭いものだという認識が生まれつつあったころだ。ちょうど経済的に凄まじく成長して、戦後自信をなくしていた日本が少しばかりプライドを持ち始めた頃と重なる。

 何故油彩画を描くのか、油彩がなくてはならないのか?そもそも絵を描く動機は何だったのか?とそれぞれがみんな考えはじめた頃だ。確かに西欧の油彩画の技術はすばらしいもので、その堅牢な画面から伝わってくるものは西欧のある意味真髄なんだろうな。絶対に変らないもの。人類の目指すべき理想「真、善、美」そんなものを表現しようとした気がする。西欧の風土が育てた合理的な精神がそんなものを生んだのだと思う。

 我々モンスーンに住む者にはないんだな。変らないものなど何もないというのが、基本的な考え方ではなかろうか。

 また眠くなったので続きは後日。



 
はる 3441
 携帯電話を見ていると、我々はついに神の領域に入ったのではないかとさえ思う。多くの機能はほとんど使えないのだが、今こうやって考えたことが瞬時にどこか誰も知らないところまで伝達できるわけだから、つい最近まではとても考えられない機械だ。

 例えばこんな風には考えられないだろうか。今現在、この宇宙には人類のほかには知的な生物はいない。もし仮に遠い昔にいたとしても今この時点で同じ時間を生きているとは考えられない。宇宙の時間で見れば人類の繁栄など一瞬の出来事にすぎないからだ。

 これから先人類はどこまで総体としての「情報」を伝える、または残すことができるかわからないけれど、その情報を受け取ることが出来るのは人類以上に高度に発達した知的なものでなければ不可能だ。

 反対に、もし仮に人類以前にそういった生物がこの宇宙にいたとして、彼らはどうやって我々にその「意思」をのこしたのだろう。

 我々生物はある意味で遺伝子の方舟であるということを聞いたことがある。ありとあらゆる生物は基本的にはほとんど同じ遺伝子で出来ているらしい。この遺伝子がどうやって作られたのかはほとんど神の采配でしかないわけだけれど、ひょとして我々以前のこの宇宙のどこかの知的生物の「意思」かもしれない。

 今でも星は誕生と消滅を定期的に繰り返している。それはまさに一つの生命体と同じように長い目で見れば生きているということが出来るかもしれないな。で最後に大爆発を起こしてその星の内容物をこの宇宙に撒き散らすらしい。

 我々の体の中核を作っているたんぱく質も実はそういった星のかけらがなくては出来ないものらしい。

 具体的にはよく理解していないのだけれど、もし仮に「おおいなるもの」の意思というものがあったとしたら、そういったかたちで過去から現在そして未来とつながってゆくものかもしれないね。

 普通遺伝子自身は意思を持たない。ところがたまたま人類の遺伝子をもった「人」は考えることをはじめてしまった。多分これは予想外のことだったんだな。

 ・・・まとまらない。今日はここまで。

 



 
はる 3440
 世界の中で東西に今も分かれている国は韓国しかない。かつてはドイツもベトナムもそうだった。日本が戦争に負けたときにひょっとしたら同じように東西に分断される可能性はあった。もし仮にそういうことになっていたとしたら、昨今のことは自分の身の上に起きたことかもしれない。

 どんな戦争もその当事者にとっては聖戦でしかない。今から侵略しますといって蛮行に及ぶ国民はほとんどいない。命を懸けて戦うのは自分の命と家族を守るためであって、それ以外はほんの少しの正義感と聖戦であるという道義だけだろう。

 ほんの少し前の自国のことを考えても、軍事国家、独裁国家が一番恐れるのは自分を含めた体制が崩壊することで、世界の多くの独裁国家の末路というのは実にあっけなくやってきて終わってしまう。

 ヒットラーの国家戦略は非常にたくみで、よく知られた宣伝相ゲッペルスを国家の重要な地位につけたことでもよく分かる。世論を味方につけること、ようするにどんな戦いも「聖戦」にしてしまうことだ。

 そうやって少し冷静にかんがえると、今回のかの国の攻撃を太平洋戦争の「真珠湾攻撃」のように利用しているのではないかと少し危惧するんだな。よくアメリカがやる手口だからね・・。韓国軍は忠実にアメリカのやり方を真似するのではないかと危惧するわけだ。

 
**
ブログ内検索
忍者ブログ [PR]


(Design by 夜井)