画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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私の親父は59歳で亡くなった。そのまた親父、私からいえば父方の祖父さんも59で亡くなった。と言うことで私たち兄弟は59歳を戦々恐々でそれぞれ迎えたのだ。そして末っ子の私が来年四月に59を迎えることになった。
最後の残った私が無事に59歳をクリアーすれば我が家に伝統的にある「のろわれた59歳の自縛」から逃れられることになるのだ。さてどうなるのやら。今のところは迷惑な兆候はないから、たぶんクリアーされるのだろう。
それにしても私が想像していた59歳と、今の私の年齢の実感とは驚くほど差がある。昔の30歳はかなり大人であった。もうすでに押しも押されぬ貫禄があって、そればかりではなく分別も責任も充分感じられた。
59歳にもなれば、定年間近ということもあるし、人生一つやり終えた満足感とか、充実感がそこはかとなく漂っていて、隠居して老後は孫の面倒でもみて悠々と暮らしてゆく。そんなイメージなんだが、おいおい今の私はまるでガキじゃん。
仕事などまるで切りがついてはいないし、私がまともな勤めもしていないので、社会的な責任感もまるでなってない。
これから20年経って、もういつこの世からいなくなってしまってもおかしくない年になっても、内容はほとんど変らないように思う。
さて、また眠くなって書いている話がピーマンになってきた。
最後の残った私が無事に59歳をクリアーすれば我が家に伝統的にある「のろわれた59歳の自縛」から逃れられることになるのだ。さてどうなるのやら。今のところは迷惑な兆候はないから、たぶんクリアーされるのだろう。
それにしても私が想像していた59歳と、今の私の年齢の実感とは驚くほど差がある。昔の30歳はかなり大人であった。もうすでに押しも押されぬ貫禄があって、そればかりではなく分別も責任も充分感じられた。
59歳にもなれば、定年間近ということもあるし、人生一つやり終えた満足感とか、充実感がそこはかとなく漂っていて、隠居して老後は孫の面倒でもみて悠々と暮らしてゆく。そんなイメージなんだが、おいおい今の私はまるでガキじゃん。
仕事などまるで切りがついてはいないし、私がまともな勤めもしていないので、社会的な責任感もまるでなってない。
これから20年経って、もういつこの世からいなくなってしまってもおかしくない年になっても、内容はほとんど変らないように思う。
さて、また眠くなって書いている話がピーマンになってきた。
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