画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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イノうえ・ナおひさのイバラード日記」より勝手引用
http://megezo.ddo.jp/inoue/tackynote.cgi?action=view&year=2010&month=12&day=28&no=1054#1
・・・・・・・・・・・・・・
略・・
僕も以前は、とくに若い頃は
「作品だけ見てもらえればいい、説明は必要ない」と思っていた。
しかし作者からの説明は、言葉の表向きの意味よりも、
その語り口、話の持って行きよう、言葉の選び方、目の付け方が面白い。
そういうもので作者の心の作り方が見えてくる気がする。
作品の見方も、なお深まる気がする。
・・略
http://megezo.ddo.jp/inoue/tackynote.cgi?action=view&year=2010&month=12&day=28&no=1054#1
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略・・
僕も以前は、とくに若い頃は
「作品だけ見てもらえればいい、説明は必要ない」と思っていた。
しかし作者からの説明は、言葉の表向きの意味よりも、
その語り口、話の持って行きよう、言葉の選び方、目の付け方が面白い。
そういうもので作者の心の作り方が見えてくる気がする。
作品の見方も、なお深まる気がする。
・・略
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はる 3473
いつの間にか還暦も近いこんな年になってしまったけれど、自分の中じゃまだまだという気がしている。いや、まだ入り口に差し掛かったばかりだという気がしてならない。そう、けっして冗談ではなくて、まだほとんど何も見えていない状態で、これで終わってしまったんじゃ、長々とやってきた意味がない。これから面白くなってくるように思うんだな。本当に。
昨日の「才能は贈り物」というのもなかなか名言だな。英語の「gift」の意味が「天賦の才能」の意味もあるということなので、確かに天から与えられたもので、自分の努力で勝ち取った能力ではないのかもしれない。
しかし、この間から書いていることと共通することかもしれないが、才能があって努力しないで、何でもすらすら出来てしまうものは、案外長続きしない。なかなか上手く行かなくてちょっとばかり努力して、何とかかじりついている人に、天は少しだけご褒美をくれるものだ。それが「味わい」とか「雰囲気」になるのかな。天賦の才能がない凡人はそこまでやらなければ一人前にはなれない。
昨日の文章で「そうだそうだ」と思ったのは、いい作品ができた時は自分が描いたものじゃない気がするってことだな。自分が持っているもので「こんなものが描けるはずがない」といつも思うんだな。
言い訳なんだけれど、こう集中して一心不乱に絵を描くということも一つの「あちらの世界」に行く方法だけれど、方法はそれだけじゃないような気がするんだな。例えば裸婦のクロッキーなどをしている時、頭の中は空っぽで一瞬「狐がついている」状態になる。そんな時に引いた線は常では真似ができない「いい線」が引かれている。あっ「いまいい線が引けてる」と思うともうだめなんだ。気持ちがこちらに戻っているからね。
もう一つはぶらぶらアトリエで遊んでいて、本読んだり、時々ちらちら絵を観てるわけだ。色んな絵をちょこっとずつてをいれている。決して一つの絵に集中することはない。そんな時にぽっといい絵が描けていたりする。後から気付くんだけどね。「これいいじゃん」みたいに。
思うに「自分の手の内だけで描いたもの」というのはまぁ安心できるし、破綻もないほどほどの出来だと思うんだな。だけど本当にいいものというのは「自分が描いたものじゃない」誰かが私を通して描かせたもののようなきがする。まぁこんな描き方なので良かったり悪かったり色々だな。
いつの間にか還暦も近いこんな年になってしまったけれど、自分の中じゃまだまだという気がしている。いや、まだ入り口に差し掛かったばかりだという気がしてならない。そう、けっして冗談ではなくて、まだほとんど何も見えていない状態で、これで終わってしまったんじゃ、長々とやってきた意味がない。これから面白くなってくるように思うんだな。本当に。
昨日の「才能は贈り物」というのもなかなか名言だな。英語の「gift」の意味が「天賦の才能」の意味もあるということなので、確かに天から与えられたもので、自分の努力で勝ち取った能力ではないのかもしれない。
しかし、この間から書いていることと共通することかもしれないが、才能があって努力しないで、何でもすらすら出来てしまうものは、案外長続きしない。なかなか上手く行かなくてちょっとばかり努力して、何とかかじりついている人に、天は少しだけご褒美をくれるものだ。それが「味わい」とか「雰囲気」になるのかな。天賦の才能がない凡人はそこまでやらなければ一人前にはなれない。
昨日の文章で「そうだそうだ」と思ったのは、いい作品ができた時は自分が描いたものじゃない気がするってことだな。自分が持っているもので「こんなものが描けるはずがない」といつも思うんだな。
言い訳なんだけれど、こう集中して一心不乱に絵を描くということも一つの「あちらの世界」に行く方法だけれど、方法はそれだけじゃないような気がするんだな。例えば裸婦のクロッキーなどをしている時、頭の中は空っぽで一瞬「狐がついている」状態になる。そんな時に引いた線は常では真似ができない「いい線」が引かれている。あっ「いまいい線が引けてる」と思うともうだめなんだ。気持ちがこちらに戻っているからね。
もう一つはぶらぶらアトリエで遊んでいて、本読んだり、時々ちらちら絵を観てるわけだ。色んな絵をちょこっとずつてをいれている。決して一つの絵に集中することはない。そんな時にぽっといい絵が描けていたりする。後から気付くんだけどね。「これいいじゃん」みたいに。
思うに「自分の手の内だけで描いたもの」というのはまぁ安心できるし、破綻もないほどほどの出来だと思うんだな。だけど本当にいいものというのは「自分が描いたものじゃない」誰かが私を通して描かせたもののようなきがする。まぁこんな描き方なので良かったり悪かったり色々だな。
内田樹の研究室より勝手引用
http://blog.tatsuru.com/2010/12/26_1356.php
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前略・・
才能はある種の贈り物である。
それに対する反対給付義務は、その贈り物のもたらした利益を別の誰かに向けて、いかなる対価も求めない純粋贈与として差し出すことによってしか果たされない。
けれども実に多くの「才能ある若者」たちは、返礼義務を怠ってしまう。
「自分の才能が自分にもたらした利益はすべて自分の私有財産である。誰ともこれをシェアする必要を私は認めない」という利己的な構えを「危険だ」というふうに思う人はしだいに稀な存在になりつつある。
でも、ほんとうに危険なのである。
中略・・
スランプというのは「私たちにできるはずがないのに、軽々とできていたこと」ができなくなることを言うのである。
「できるから、できる」ことと、「できるはずがないのに、できる」ことはまるで別のことである。
「できるはずのないことが、自分にはできる(だから、この能力は私物ではない)」と自覚しえたものだけが、次の贈与サイクルの創始者になることができる。
自分は世のため人のために何をなしうるか、という問いを切実に引き受けるものだけが、才能の枯渇をまぬかれることができる。
「自分は世のため人のために何をなしうるか」という問いは、自分の才能の成り立ちと機能についての徹底的な省察を要求するからである。
自分が成し遂げたことのうち、「これだけは自分が創造したものだ」「これは誰にも依存しないオリジナルだ」と言いうるようなものは、ほとんど一つもないことを思い知らせてくれるからである。
後略・・
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http://blog.tatsuru.com/2010/12/26_1356.php
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前略・・
才能はある種の贈り物である。
それに対する反対給付義務は、その贈り物のもたらした利益を別の誰かに向けて、いかなる対価も求めない純粋贈与として差し出すことによってしか果たされない。
けれども実に多くの「才能ある若者」たちは、返礼義務を怠ってしまう。
「自分の才能が自分にもたらした利益はすべて自分の私有財産である。誰ともこれをシェアする必要を私は認めない」という利己的な構えを「危険だ」というふうに思う人はしだいに稀な存在になりつつある。
でも、ほんとうに危険なのである。
中略・・
スランプというのは「私たちにできるはずがないのに、軽々とできていたこと」ができなくなることを言うのである。
「できるから、できる」ことと、「できるはずがないのに、できる」ことはまるで別のことである。
「できるはずのないことが、自分にはできる(だから、この能力は私物ではない)」と自覚しえたものだけが、次の贈与サイクルの創始者になることができる。
自分は世のため人のために何をなしうるか、という問いを切実に引き受けるものだけが、才能の枯渇をまぬかれることができる。
「自分は世のため人のために何をなしうるか」という問いは、自分の才能の成り立ちと機能についての徹底的な省察を要求するからである。
自分が成し遂げたことのうち、「これだけは自分が創造したものだ」「これは誰にも依存しないオリジナルだ」と言いうるようなものは、ほとんど一つもないことを思い知らせてくれるからである。
後略・・
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はる 3471
クリスマスです。この日はクリスチャンであろうとなかろうと、多くの日本人が節操なく浮かれていることでしょう。ご多分に漏れず私なんかもウキウキ楽しんだ方です。
昔はケーキなど大っぴらに食べられるのはこの時だけで、今から考えるとイチゴが乗っていたり、チョコレートがのっていたり、生クリームがたっぷり、そういったデコレーションも珍しかったのかもしれないな。アイスクリームのケーキなども始めて食ったのは遠い昔のクリスマスイブじゃなかったかな。
今は反対に生クリームがのったケーキは出来るだけ控えるそんな年になったということだな。そのことがそんなに楽しいことではなくなったというのは若干寂しいことではある。
クリスマスの最初の想い出は、日曜学校で下町の大きな教会に出掛けたことだ。サンタの格好したおじいさんがいたことにもびっくりしたけれど、何よりも天井が高い真っ暗な空間に音楽と共に中に入ってゆくことが、今までかつて経験したことがない大きなカルチャーショックだった。今考えるとどこにでもある下町の小さな教会だったのじゃないかと思うのだけれど、そういった経験は長い人生でそうあるものではない。
私の人生でこの日曜学校というのがとても重要な位置をしめているな。当時の日本の文化的な状況を考慮して考えなくてはならないのだけれど、まだテレビもなく唯一ラジオが極普通の家庭では重要な娯楽であったころの話ですよ。ラジオからは今で言うポップスなどはあまりかからないわけだ。親父はよく浪花節を聞いていた。
テーブルなどというハイカラなものはなく、長い食卓に全員が正座して並んで飯を食ったものだ。冬の暖房は火鉢一つだったきがする。そでも不満はなにもなかった。
そんな普段の生活の中で、時に出掛ける日曜学校の家庭はふかふかのカーペットが敷いてあり、ガススーブがあって異様に暖かだった。近所のガキどもはおやつほしさに三々五々集まってはだべっていたように思う。それでも其の家では邪魔者扱いにはされなかった。
前にも書いたけれどそこでもらうラファエロのカードがカラーだったな。色がついているそういった写真は当時貴重だったきがするな。いまじゃなんでもないけど・・。
異国趣味というのではない。知らないみたこともない世界というのは豊かで途方もなく魅力に満ちているんだな。日曜学校というのはそんな世界を見せてくれる小さな窓だったんだな。
クリスマスです。この日はクリスチャンであろうとなかろうと、多くの日本人が節操なく浮かれていることでしょう。ご多分に漏れず私なんかもウキウキ楽しんだ方です。
昔はケーキなど大っぴらに食べられるのはこの時だけで、今から考えるとイチゴが乗っていたり、チョコレートがのっていたり、生クリームがたっぷり、そういったデコレーションも珍しかったのかもしれないな。アイスクリームのケーキなども始めて食ったのは遠い昔のクリスマスイブじゃなかったかな。
今は反対に生クリームがのったケーキは出来るだけ控えるそんな年になったということだな。そのことがそんなに楽しいことではなくなったというのは若干寂しいことではある。
クリスマスの最初の想い出は、日曜学校で下町の大きな教会に出掛けたことだ。サンタの格好したおじいさんがいたことにもびっくりしたけれど、何よりも天井が高い真っ暗な空間に音楽と共に中に入ってゆくことが、今までかつて経験したことがない大きなカルチャーショックだった。今考えるとどこにでもある下町の小さな教会だったのじゃないかと思うのだけれど、そういった経験は長い人生でそうあるものではない。
私の人生でこの日曜学校というのがとても重要な位置をしめているな。当時の日本の文化的な状況を考慮して考えなくてはならないのだけれど、まだテレビもなく唯一ラジオが極普通の家庭では重要な娯楽であったころの話ですよ。ラジオからは今で言うポップスなどはあまりかからないわけだ。親父はよく浪花節を聞いていた。
テーブルなどというハイカラなものはなく、長い食卓に全員が正座して並んで飯を食ったものだ。冬の暖房は火鉢一つだったきがする。そでも不満はなにもなかった。
そんな普段の生活の中で、時に出掛ける日曜学校の家庭はふかふかのカーペットが敷いてあり、ガススーブがあって異様に暖かだった。近所のガキどもはおやつほしさに三々五々集まってはだべっていたように思う。それでも其の家では邪魔者扱いにはされなかった。
前にも書いたけれどそこでもらうラファエロのカードがカラーだったな。色がついているそういった写真は当時貴重だったきがするな。いまじゃなんでもないけど・・。
異国趣味というのではない。知らないみたこともない世界というのは豊かで途方もなく魅力に満ちているんだな。日曜学校というのはそんな世界を見せてくれる小さな窓だったんだな。
「平均律についての考察」こんな意見もあります。勉強になりました。
「最後から二番目の思想」より
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
http://www3.atword.jp/pensees/2010/04/07/%E5%B9%B3%E5%9D%87%E5%BE%8B%E3%81%AE%E6%9A%B4%E5%8A%9B%E2%80%94%E2%80%94nhk%E3%80%8Cschola%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%84%9F%E6%83%B3/
「最後から二番目の思想」より
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http://www3.atword.jp/pensees/2010/04/07/%E5%B9%B3%E5%9D%87%E5%BE%8B%E3%81%AE%E6%9A%B4%E5%8A%9B%E2%80%94%E2%80%94nhk%E3%80%8Cschola%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%84%9F%E6%83%B3/
はる 3469
こうやってパソコンの前に座って何やら一日の反省なり出来事を振り返る時というのはけっこう幸せな時間かもしれない。
随分昔そうだなぁ、日記そのものは中学生の頃からつけていた。多分時々だったろうけれど、小さな手帳でカレンダーのつきのものに日々の事などを簡単につけていた。それが意識的に日記として付け始めたのは高校生になって自我が出てきた頃だろうか。何冊も日記帳は更新されたけれど、ある時に全て処分してしまった。
意外に読み直すことなどなくてね。これはその時々にものを考える道具でしかない。後に残ったものはカスでしかないね。私の場合はっきりしている、それは読む人を意識していないので作品ではない。
ツイッターをやらないのか?と言われることが時々ある。やった事がないのでいい悪いは全く分からないのだけれど、二三日前のある人のブログにツイッターについての面白い考察が書かれていた。
ツイッターというのは今までにないかった全く新しい身体的メディアだというのだな。ブログなどと同じようにパソコンや携帯を使って自己表現するのだけれど、決定的に違うのは「リアルタイムな身体的表現が多い」ということだ。どういうことかといえば例えば「寒い」とか「眠い」とか「腹減った」とかそういった記事が決定的に多いらしい。
人が日々生きている時の意思決定の多くはそういったことで、寒いから一枚よけいに着るとか眠いから寝るとか、そんなことが日々刻々と繰り返されているわけだ。だから短時間にショートなメッセージというのはそんな表現が多くなってしまうのだろう。
ブログの場合、こうやって椅子に座って、さて今日は何を書こうかなと一日を回顧的に振り返って思索にふけるようなところがあって、ここでは寒いとか腹減ったとか、何か食べに行くなどというのは思索のうちには入らないわけだ。
と言うわけで私は多分ツイッターはやらないのじゃないかと思う。将来的にはわかりませんがね。あぁ眠いなぁ・・。
こうやってパソコンの前に座って何やら一日の反省なり出来事を振り返る時というのはけっこう幸せな時間かもしれない。
随分昔そうだなぁ、日記そのものは中学生の頃からつけていた。多分時々だったろうけれど、小さな手帳でカレンダーのつきのものに日々の事などを簡単につけていた。それが意識的に日記として付け始めたのは高校生になって自我が出てきた頃だろうか。何冊も日記帳は更新されたけれど、ある時に全て処分してしまった。
意外に読み直すことなどなくてね。これはその時々にものを考える道具でしかない。後に残ったものはカスでしかないね。私の場合はっきりしている、それは読む人を意識していないので作品ではない。
ツイッターをやらないのか?と言われることが時々ある。やった事がないのでいい悪いは全く分からないのだけれど、二三日前のある人のブログにツイッターについての面白い考察が書かれていた。
ツイッターというのは今までにないかった全く新しい身体的メディアだというのだな。ブログなどと同じようにパソコンや携帯を使って自己表現するのだけれど、決定的に違うのは「リアルタイムな身体的表現が多い」ということだ。どういうことかといえば例えば「寒い」とか「眠い」とか「腹減った」とかそういった記事が決定的に多いらしい。
人が日々生きている時の意思決定の多くはそういったことで、寒いから一枚よけいに着るとか眠いから寝るとか、そんなことが日々刻々と繰り返されているわけだ。だから短時間にショートなメッセージというのはそんな表現が多くなってしまうのだろう。
ブログの場合、こうやって椅子に座って、さて今日は何を書こうかなと一日を回顧的に振り返って思索にふけるようなところがあって、ここでは寒いとか腹減ったとか、何か食べに行くなどというのは思索のうちには入らないわけだ。
と言うわけで私は多分ツイッターはやらないのじゃないかと思う。将来的にはわかりませんがね。あぁ眠いなぁ・・。
はる 3468
街中の新しいテナントどうすればいいなかな・・。と全くの無関係な私でも考える。どうすれば利用客が喜んで二度三度訪れるそんな楽しい場所になるだろうかと。誰に頼まれたわけもなく、また多分だれも意見など聞いてはくれないのだろうけれどね。
こんな話をどこからか聞いた。出店するお店が集まらなかった。だから何だか寄せ集めのようなちゃちな模擬店のような店しか出来なかったらしい。それも出店すれば半年くらいは助成金が出るから、別に商売として売り上げが上がらなくてもいいらしい。それで半年過ぎればさっさと出てゆくわけだ。
マンションの不動産やを思い出した。田舎の土地持ちに不動産やさんが土地活用の話を持ちかける。「お宅の土地空いてるじゃ活用しませんか、マンション建てて家賃収入で老後は安泰ですよ」で土地を担保に借金させてマンションを建てる。最初は不動産やさんの息のかかったお客さんが店子になって家賃収入が入る。ところが名目だけの住民だからどんどん引越ししてしまう。家賃収入が入らなくて借金ばかりが増えて、やがて土地も権利も何もかも失うというよく出来たはなし。
今までも街中には空きビルがいくらもあった。旧西武デパートの「県民プラザ」ダイエーが入っていた「市営のあるじゃん」誰も借り手がなくて、苦肉の策ですべて公の施設になっていた。それが分かっているにもかかわらず巨大な資金をかけてまた空きビルを作るその驚くほどの無策ぶりにあきれる。勝算があって昔のビルを壊して新しいビルを建てたのじゃないのか。ほんの一時の場ふさぎ、言い逃れだけのために何百億もの税金を投入したのか。なぜもっと真剣に努力しないのか、テナントが入らないのなら、なんとしても入るように考えないのか。アイデァを出さないのか。不思議だな、あなたたちのやっていることは。
こんままじゃ、街中に新築の空きビルが一つ増えただけになってしまうだろう。
街中の新しいテナントどうすればいいなかな・・。と全くの無関係な私でも考える。どうすれば利用客が喜んで二度三度訪れるそんな楽しい場所になるだろうかと。誰に頼まれたわけもなく、また多分だれも意見など聞いてはくれないのだろうけれどね。
こんな話をどこからか聞いた。出店するお店が集まらなかった。だから何だか寄せ集めのようなちゃちな模擬店のような店しか出来なかったらしい。それも出店すれば半年くらいは助成金が出るから、別に商売として売り上げが上がらなくてもいいらしい。それで半年過ぎればさっさと出てゆくわけだ。
マンションの不動産やを思い出した。田舎の土地持ちに不動産やさんが土地活用の話を持ちかける。「お宅の土地空いてるじゃ活用しませんか、マンション建てて家賃収入で老後は安泰ですよ」で土地を担保に借金させてマンションを建てる。最初は不動産やさんの息のかかったお客さんが店子になって家賃収入が入る。ところが名目だけの住民だからどんどん引越ししてしまう。家賃収入が入らなくて借金ばかりが増えて、やがて土地も権利も何もかも失うというよく出来たはなし。
今までも街中には空きビルがいくらもあった。旧西武デパートの「県民プラザ」ダイエーが入っていた「市営のあるじゃん」誰も借り手がなくて、苦肉の策ですべて公の施設になっていた。それが分かっているにもかかわらず巨大な資金をかけてまた空きビルを作るその驚くほどの無策ぶりにあきれる。勝算があって昔のビルを壊して新しいビルを建てたのじゃないのか。ほんの一時の場ふさぎ、言い逃れだけのために何百億もの税金を投入したのか。なぜもっと真剣に努力しないのか、テナントが入らないのなら、なんとしても入るように考えないのか。アイデァを出さないのか。不思議だな、あなたたちのやっていることは。
こんままじゃ、街中に新築の空きビルが一つ増えただけになってしまうだろう。
今年は年末に個展がないので、比較的にゆったりとした年の瀬だ。いつもはもっとバタバタとしている。早々に年賀状も書き終えた。
実は年賀状も徐々に少なくしたいとは思っている。何年も会っていない人ならイザ知らず、メールや携帯、ブログもあるし、パソコンで出力した印刷とラベルを貼っただけの年賀状もらっても手間隙以上のありがたみはないように思うな。ちなみに私は年賀状は手書きしていますよ。
年賀状の整理もわずらわしい。もらって返事も出さなきゃ悪い気持ちがするから出す、そうするとそれをみてまた来年書いてくるわけだ。当然年々増えてゆく勘定になる。それに出したか出さないかいちいち覚えていない。喪中も面倒だ。ついつい忘れて出してしまう。いいじゃないの喪中に「おめでとう」はないだろうって誰が決めたんだい。
と言うわけで、一応返事は書かないことにする。今年の年賀状はこれでお終い。ご無礼になったら失礼、ここで謝っておきます。
実は年賀状も徐々に少なくしたいとは思っている。何年も会っていない人ならイザ知らず、メールや携帯、ブログもあるし、パソコンで出力した印刷とラベルを貼っただけの年賀状もらっても手間隙以上のありがたみはないように思うな。ちなみに私は年賀状は手書きしていますよ。
年賀状の整理もわずらわしい。もらって返事も出さなきゃ悪い気持ちがするから出す、そうするとそれをみてまた来年書いてくるわけだ。当然年々増えてゆく勘定になる。それに出したか出さないかいちいち覚えていない。喪中も面倒だ。ついつい忘れて出してしまう。いいじゃないの喪中に「おめでとう」はないだろうって誰が決めたんだい。
と言うわけで、一応返事は書かないことにする。今年の年賀状はこれでお終い。ご無礼になったら失礼、ここで謝っておきます。
はる 3465
先日隣駅が著名な建築家の設計で建てかえられたというので、ついでがあったので寄ってみた。何しろ今をときめく世界的な建築家なのでただただそれだけで田舎者は恐れ入ってしまう。これでもかという場違いの建物で田舎がよけいに際立ってしまった。道路も満足に出来ていないのに建物だけ世界的なものを持ってきてもちぐはぐだろう。
地産地消が今の流行なのに形だけ世界で活躍する建築家に頼んでもそこが世界的に有名になるわけでもない。もっと言うなら本当ならそこを利用する地元の建築やさんに頼んだ方が、どう使えばいいかよく分かると思うな。多分世界的な建築家は利便性など全く考えていない。
北口の開発もどうなっているのだろう。一向に進んでいない。何年か前に国体があって其の時に昔のぼろい駅舎じゃ恥ずかしいということで今の駅ビルになった。北口もその頃にきれいにした記憶がある。大きなケヤキを何本も植えて最近はけっこういい感じになっていた。
ところが再開発なのか知らないけれど、あっという間にケヤキはどこかに移されて跡形もない。樹ってそんなに簡単に植え替えるものなの?百年二百年その場にあるから御神木にもなるわけで、人の都合で簡単に植え替えちゃだめだろう。芝居の書割じゃないんだからなぁ。
それこそ百年ぐらいのスタンスでグランドデザイン決めて、将来どんな町にしたいかそんなコンセプトをもってやらないといくらお金かけてもまた引っこ抜いてお終いだ。スクラップあんどビルドばかりを繰り返して町中はどんどん安っぽくなるばかりだ。
住んでいる人が楽しくなるような、住んでいない人も住みたくなるような町を作らなきゃ、町はどんどん寂れてゆく。どうしてもまだ肩書きやブランド、都会的なものに憧れているんだな。だから「世界的」な肩書きにやられてしまう。そのことが「貧しい」ということに気がつかないのだ。世界的が貧しいのではなく、そこだけに価値を見出してしまう見識のなさが貧しいのだ。
田舎はいなかでいい。其のところにプライドをもつべきだな。
先日隣駅が著名な建築家の設計で建てかえられたというので、ついでがあったので寄ってみた。何しろ今をときめく世界的な建築家なのでただただそれだけで田舎者は恐れ入ってしまう。これでもかという場違いの建物で田舎がよけいに際立ってしまった。道路も満足に出来ていないのに建物だけ世界的なものを持ってきてもちぐはぐだろう。
地産地消が今の流行なのに形だけ世界で活躍する建築家に頼んでもそこが世界的に有名になるわけでもない。もっと言うなら本当ならそこを利用する地元の建築やさんに頼んだ方が、どう使えばいいかよく分かると思うな。多分世界的な建築家は利便性など全く考えていない。
北口の開発もどうなっているのだろう。一向に進んでいない。何年か前に国体があって其の時に昔のぼろい駅舎じゃ恥ずかしいということで今の駅ビルになった。北口もその頃にきれいにした記憶がある。大きなケヤキを何本も植えて最近はけっこういい感じになっていた。
ところが再開発なのか知らないけれど、あっという間にケヤキはどこかに移されて跡形もない。樹ってそんなに簡単に植え替えるものなの?百年二百年その場にあるから御神木にもなるわけで、人の都合で簡単に植え替えちゃだめだろう。芝居の書割じゃないんだからなぁ。
それこそ百年ぐらいのスタンスでグランドデザイン決めて、将来どんな町にしたいかそんなコンセプトをもってやらないといくらお金かけてもまた引っこ抜いてお終いだ。スクラップあんどビルドばかりを繰り返して町中はどんどん安っぽくなるばかりだ。
住んでいる人が楽しくなるような、住んでいない人も住みたくなるような町を作らなきゃ、町はどんどん寂れてゆく。どうしてもまだ肩書きやブランド、都会的なものに憧れているんだな。だから「世界的」な肩書きにやられてしまう。そのことが「貧しい」ということに気がつかないのだ。世界的が貧しいのではなく、そこだけに価値を見出してしまう見識のなさが貧しいのだ。
田舎はいなかでいい。其のところにプライドをもつべきだな。
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