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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3705
 かなり仕事が進んできた。でもまだ半分か。

 この間の続き。考えながら書くので、つじつまが合わなくても御容赦願います。

 人の頭の中というのも針穴みたいなものじゃないかな。というのは始めは世界は極小さいものだった。知っている世界が小さいから当然理解する世界も小さい。多分母親と父親と兄弟、その他大勢となる。だから理解できる宇宙観(あればの話だけれど)もその程度のものだ。

 それが色々な知識をつけるにしたがって世界がどんどん広がってゆく。目で見るというだけではなくて、本を読んだり人と話したり、聞いたりすることで世界は飛躍的に広がってゆく。得た知識、外界から入ってくる情報でもって世界観が構築されてゆく。

 針穴写真が小さいピンホールから外界の光を取り込んで映像を結ぶように、我々の世界観というのも外界のあらゆる刺激を受け入れて作られるものだ。世界観はその人の身の丈以上にはならない。

 私が宇宙の果てを空想するとすると、実際には永遠に届かないはるかかなたであっても簡単にたどり着ける。一瞬のうちに私は宇宙の最果ての地にたたずんでいる。ここのところが面白い。実は宇宙は私の頭の中にあって、針穴写真機を夜空に向けたのと同じではないか。見えないけれど宇宙の最果ては確かに写っているのだ。

 こんな事を考えるのは実は絵画というのも同じではないかと思うんだな。あるものを再現するのではない。私の頭の中にある宇宙観みたいなものを、自分の目と手を使って再構築してゆく。それは多分この宇宙の成り立ちと同じ理で出来ている。私の中に宇宙があるように、今度は絵の中に宇宙を再現するということではないか。

 次はその具体的な方法を書いてみたい。まぁ今までの繰り返しになるけれどね。興味ありますか?
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はる 3693
 日本年金機構なるものから何度もお知らせが来る。確かに私はバイトを含めて色んな職業に短期間ついたことがあるので、その都度年金を申請したり止めたりしたのでつながりが分りにくいということがあるとは思うのだけれど、「年金定期便」だとか「年金の記録を確認するお知らせ」だとかが何度も同じような書類がくると、おいおいこの機構は一体何をしているのだ。大丈夫か?と心配になる。無駄だな。何にしてもシンプルなのが一番で、一目で馬鹿でも分るそんなシステムにして欲しい。

 閑話休題
 いまだに「絵描きのなり方」という検索項目でこのブログにやってくる人がいるね。何を期待しているのか、まぁ薄々分るのだけれど、○○のなり方」などというハウツーものを期待するとあてが外れるだろうな。もしそんな技法書があれば私も欲しい。



 
はる 3122
 ただし、壁の飾りを作っているつもりは無いし、またそれを期待されてもいない。飾りならもっと上手い人もいるしね、飾り職人は江戸の花形職業だ。かんざしやら根付なんか今の技術じゃとうてい作れないものばかりだ。だからといってね、それを何とか国宝とかいって保護してしまったら、死んだも同然。檻に入れられたライオンみたいなものだ。珍しがってありがたがられるけれど、生きてはいない。

 今の生活の中で、実際に使われるもの、必要とされるものでなければ本当の力にはならない。観光客やどこか遠くの縁もゆかりも無い人にありがたがられても、あんまりうれしくないねぇ。

 地産地消が言われて最近はコンビにの弁当までそんなキャッチフレーズで売られるようになったけれど、本当はね、そこに住んでいる人達や、きけば顔のわかる人たち相手に、物を作ったり調理したり、売ったり買ったりするのが、本来の姿かもしれないな。

 話が違う方向に来てしまったね。というわけで、また。

 



 
はる 3049
 今日は久しぶりのチェロのレッスン。もう何年もチェロは触っているけれど、いっこうに上手くはならない。これは全く謙遜ではなく、弦楽と言うのは恐ろしいほどいい音を出すのは難しい。例えばピアノやギターというのは誰が弾いてもドはドの音がする。まぁ強弱はあるのだろうけれどね。ところが弓で弾くヴァイオリンとかチェロみたいな物はフレットがない。だから最初っから音は不安定である。自分の耳で決めて行くようなところがある。

 しかし、大人になって始めた我々のような素人はなかなかその音程が定まらない。絶対音感みたいなものがない。だからフレットに変わる物としてバンソウコウを貼ったり印をつけたりするのだが、これを見て指を確認して弾いて行くというのはスタイル的に格好が悪い。この指を気にしていると右手の弓のほうがお留守になってなんともはしたない音がしたりする。

 それから独学で何年もやっていたので、そこそこの曲なら弾けてしまう。それがまた問題で、弓や指の押さえ方などがてんでいいかげんで、変な癖がついてしまっている。これも厄介だ。直らないのだ。

 曲を弾くつもりは無い。教則本のようなもので最初は弾けなかったものが段々に曲としてつながってくると面白い。

 



 
 徒然に・・
 考えてみれば「私を見て」というのは何も人間だけではないな。花が競うように美しい色彩で人目をひくのは、虫達に来てもらって受粉するためだ。虫達がコロコロを儚げな鳴き声をあげるのは異性を求める求愛の声だな。個体の維持とその延長上に自らのDNAを残すこと、それがあらゆる生命の基本的な使命だな。

 一度途絶えた種はもう一度復活することはない。色々な生命のバリエーションが存在するのは、どんな気候の変化や地球規模の異変が起こったとしてもそれに耐ええるパターンを残しておくという巧妙に考えられた自然の知恵だ。

 無機的な世界でも結局同じようなことが起きている。星の誕生と成長そして死をみていると、生命ある有機体と全く同じようなことがおきているんだなということに気付く。ただ有機的な生命体の反応はビビッドで反応が早いという特徴があるな。宇宙の時間を短縮して眺めているようなものだ。だから多分滅んでしまうのも速いのだと思う。

 これだけの生命のバリエーションがあるということは、実はある真実を画しているように思う。一番恐れていることは何もかも無くなってしまうことだな。



 
 私の絵は何処までが地塗りか分からない、仕上がったと思った作品も数日経てばその上に新しい作品が登場する場合もある。だから手元にあるうちは終わりがないと思った方がいいかもしれないな。これもいつのまにかこんな描き方になったわけで意識してこうしようと思ったわけではない。

 気をつけていることは一つだけだな。これが上手く説明出来ないのだけれど、やってみる。

 例えば今日の仕事が終わったとするとその時点でその絵は一応何らかの形で完了している。無論途中なんだけれど、途中なりに終わっていなければならない。いつも「全体の中の部分」を意識しているということかな。

 話はまた少し飛ぶけれど、宇宙の構造はフラクタルだという話を書いた。自己相似形、簡単に言えばツルの渦巻きと星雲の渦巻きは同じ原理で出来ているといったこと(これは私の推測で証明されたことではないので人には言わないように)全体と部分は同じ原理で出来ているということだな。

 パネルという一つの閉じられた空間だけれど、これは宇宙と同じだと考える。ここにも大宇宙と同じ原理が存在している。そこからは逃れられない。何か分からない混沌としたものだけれど、画面全体としてはプラスマイナス0の均衡を保ってなければならない。

 「いつも始まりで終わっている」そんな描き方が出来ればいい。



 
 絵描きとしてはまだまだヒヨッコだと思っている。若くしてさっそうと世の中に出るのも格好はいいけれど、実際に話すぐにネタに尽きるのではないかと他人事ながら考えてしまう。まぁ負け惜しみだと思ってもらってもいいのだけれどね。

 文学賞なども一時はやたらと若い女性にターゲットをしぼって賞を与えていた。話題性はものすごくあるけれど、作家側からすればほとんど使い捨てで無責任この上ないな。まぁそれをきっかけにして長いスタンスで活動できる人もいるかもしれないけれど、まぁかなり難しい。出版社側から言えば一時話題になればそれでいいわけで、長い目で見て作家を育てようなどとは考えていない。

 表現というのは経験とか体験、まぁ実際に経験しなくても読んだとかどこかで聞いたとか見たとか、そんなことが積もり積もって潜在意識の中に入り込んで、自分が経験したことかどうかもわからなくなって、そこからぽっこり顔を出したり引っ込めたりしたものを、すくい集めてふるいにかけて残ったようなものだからね。時間がかかる。青春時代の生々しい経験など、たまには思い出してもいいけれど、あまり見たくもないし、聞きたくもないな。

 そういう意味で今からが面白いなと思っている。決して負け惜しみではなくて、歳を取って行くのがおもしろいと思っている。どんな年寄りになるのか、どんな風にしおれて行くのか、消えて行くのか、自分の経験や体験がどんな風に醗酵して出てくるのか、そんなことがすごく楽しみだ。

 このブログを含めて私という一表現者の生き方をライブで報告して行きたいなと思っている。



 
 ドロッピングとはようするに絵の具をたらすことである。最初の頃は確かに下地に絵の具を塗りこんではいたんだけれど塗ったというのか描いた色面というのが段々に違和感をおぼえるようになってきた。何か具体的なものがあってそれを描写するというのであれば描くというのは正しいのだけれど、私の場合最初に何の構想もない。で真新しいキャンバスに向かっても何もでてはこない。出来るだけ画面は汚れていた方がイメージが出て来易いことに気がついた。

 何も具体的なものは描かないのだけれど、出来るだけ自由に筆を遊ばせるにはこのドロッピングが一番いい。偶然に出来た絵の具のシミやかすれやにじみが具体的な物語の種になる。

 絵の強度をたまに質問される。水性の絵の具の特徴は、水を媒体にしているので濃淡が自由であるということと、もう一つは油彩画のように上からくっついているというのでなくしっかりと画面に染み込んでいるというところだな。だから乾くと繊維の中までのりが染み込んで画布と一体なって強固な造形物になる。素人考えだけれど、最近の科学的な物質は知らないけれど、人が作ったものの中で一番強い、変化しにくいものではないかな。特に私の方法は膠ではなくボンドとアクリルメジュームを使用しているのでさらに強いものだろう。このやり方でもう10年経過したけれど、ストックしている作品に剥落やひび割れはない。

 少し前にある雑誌から画材についてのアンケートがあって、具体的に今使っている材料とメーカーを書くように求められたのだけれど、画材もそうだけれど技法というのは表現と一体になっているものであって、今の私のスタイルは私の表現のために少しずつ変化していったものだ。とくに秘密のものはないのだけれどスタイルだけ真似しても意味がないと書いて提出したら採用されなかった。まぁ当たり前だけれどね。



 
はる 2968
 一番最初に絵を買ってくれたのは兄弟だった。今から考えるととんでもなく安い値段だったけれど、それでも絵が売れたことがとても嬉しくて何となく絵描きでやって行けるのかな・・とほのかな希望が持てた。身内に売ったとて、タコが自分の足を食っているみたなもので、やがてはどん詰まりになるのは見えている。でもやっぱりそこから始まるのだな。

 個展をやって他人に絵が売れたときは、絵って売れるんだ!と意外な気がした。誰かの注文で描いたわけでもない自己流の絵が値段がついて売れることが不思議だった。まだ知り合いにしか売れないけれど、親戚から少しは遠くなった。

 でもまぁここからが遠い。見ず知らずの他人が、絵だけ見てそれで買ってくれるということは少ない。何らかの人間関係ができて売れて行くのだな。でもそれはちょっと方向が違うな、勘違いする場合が多い。カルチャーの先生や学校の先生が個展をやって売れるというのは、絵がいいからではないな。単に付き合いだ。これをいくら繰り返しても画家とはいえない。

 名もない、どこの馬の骨か分からない作家の絵を買うのは勇気のいることだ。絵がいいというのは最低限必要条件だろう。それ以外にその作家がどれだけ真剣か、本気か、その生き方に共感できるか、そんなことが条件に加わる。

 絵を購入するのは、自分の価値観と共感できるからだろう。利休が名もない陶工の井戸茶碗にとんでもない価値を見出して善しとした。それまでもそこにあることはあったのだけど、だれも善しとはしなかった。そこに自分なりの価値を見つけたということだな。そこのところが大事だ。

 
 
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