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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 ブログが一般に公開されて面白いのは、どういった経路でそのブログにたどり着いたのかというのが、正確に誰と言う事は分らないけれど、何となく分ることだ。私という個人を知ってここに来る人はまれなわけで、通りすがりでここにたどり着くこともあまり期待できない。

 最近多くなったのが「小国寡民」いう検索項目だ。元々は老子の理想郷の話で、国は小さくて人は少ないほうがいい。最新の道具があってもそんなもの使わないで、そこで取れたものを食って、着て、住んで、平々凡々暮らしてゆくのが理想だよっていう話。
http://homepage2.nifty.com/sakai
070403/ROSHI/80syokokukamin.htm


 3.11以後の我々にとって凄く耳の痛い話ですな。何でもかんでも効率一点張りで古いものをバンバン捨てて新しいものを摂取して来たがゆえに、まぁ世界中の人々が度肝を抜くような経済的な発展をしてきたけれど、まぁなんと大事な大切なものを失ってしまったんでしょ!もう取り返しはつかないけれど、少なくとも希望だけは失わないで行きましょう。ここからは新しい人になります。
 
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 今朝の新聞に吉田秀和がイギリスの民意について書いていた。簡単に言えば新しい技術というものは、まだ発展途上のものであって不確実性を含んだもので、それを踏まえて付き合えというようなことだろうか。

 産業革命を経て先進的な機械文明を謳歌してきた英国は、だからこそ新しい技術というものは輝かしいものであるけれど、もう一方では何かとんでもない失敗が隠れていいるものだということを、身にしみて知っているとうことだろうか。

 かの国の民意がどういうものか、民主主義についても私は何も知らないけれど、知ったかぶりで書くことを許してくださいな。

 我々は政治に対してとんでもない勘違いをしている気がする。未だに「お上」的な考えで、何かやってもらう、してもらうということばかりを期待していないだろうか。本来は民意の総意として「やらせる」という方がただしいのではないかな。

 「やってもらう」というオネダリ体質がやがては天下りに癒着に予算のばら撒きに補助金漬けになってしまうように思う。明らかに負の大きな力が出来上がってしまう。我々の中に、何となく政治とはそんなものだという意識があるようにおもう。

 予算をつけてもらうとか、配分してもらうことに国会議員を何とか利用して既得権として優遇してもらう、仕事を回してもらう、そんな事のために政治と言うものを利用していないだろうか。

 だから、政治というものが凄く胡散臭い、まして政治家という人種がとても尊敬できる人物ではなくて小汚い俗物のように思えてしまうのだ。本当はもっと理想があってもいいように思うのだな。

 我々の中にある「やってもらう」「してもらう」というオネダリ体質を放棄すうることだな。指示を待つのではなく、自分たちが自主的に考えて、国民の総意として「やらせる」という方向にもってゆかねばならないように思うな。どうだろうか。

 全く懲りずに阿呆なことを言っている輩が利権に絡んで何とか既得権だけでも我が物にしようと最後のあがきをしているので、この国は末期的だなと情けなくなる。普通に常識的に考えてもう原発はだめだろう。何を考えているのやら。
 




美術館コンサート
 
 美術館で日曜日はロビーでコンサートがある。今日はサキソフォンとピアノの姉妹のDUO、クラッシクのサキソフォンやクラリネットはどうもどんなに上手く演奏してもどこか滑稽だな。失礼だけどチンドン屋を彷彿させる。ドビッシーとかドボルジャークをやっていたけれど、日本の城ヶ崎の雨が一番良かった。私が下世話だからだな。申し訳ない。



 
はる 3653
 私たちはとんでもない過ちを犯した。どう悔やんでも取り返しのつかないことを仕出かしてしまった。薄々気がついてはいたんだけれど、強く反対しないでいたために、賛成もしくはどちらかと言えば賛成と捉えられていたようだ。こういうことって結構多いよな。

 「絶対安全です」と繰り返していると、何だか安全なんだと思ってしまうところが恐ろしい。安全だから壊れたことの準備や供えは必要ないんだ。もしもと言う事がない、なぜなら「絶対安全」だから。で壊れたら「想定外でした」と頭を下げればいいと考えている。

 弁償するとか、保障するとか、そんなことを本当に出来ると思っているのだろうか。汚れてしまった大地や空気や水や森や海は先祖から仮に預かっているものだ。当然普通に子孫に残して行かなくてはならない。元通りにするのに百年も二百年もかかるような、人間業でないものをどうやって弁償するというのだ。

 総懺悔だな。ほんとうに申し訳ない。だから50歳以上の我々は進んで汚染された食べ物を食い、よごれた大地をきれいに掃除するんだな。で、出来るだけ汚染の少ない食料は若い人に譲る。それで原発は我々が生きている間に全て停止するようにする。それが反対の意思表示をしてこなかった最低限の我々の責任だな。
Voice - Wong Wing Tsan

yorunos.jpg

夜の舟

R0010778.JPG
2011年 6/22(水)~7/11(火)
第56回・榎並和春個展
個展タイトル「遠い記憶4」

千葉・山口画廊
〒260-0033
千葉市中央区春日 2-6-7
春日マンション 102
Tel.&Fax. 043-248-1560
(展示風景・山口画廊撮影)



 
はる 3651
 いつの間にやら今日は午前様になっていました。今日も忙しい一日だった。

 午前中は美術館に出かけてグループ展の会場当番、その後デパートに震災のチャリティー展の様子を見に行く。千葉の山口画廊では個展が始まった。場所は違うけれど今三箇所で展覧会が同時進行で開催中。売れっ子作家のようだ。

  上の作品は昨年の国展に出品した作品。今年の作品は地方巡回で間に合いません。来年出す事になるでしょうか。私の描き方だとアトリエが狭いということもあってF130号が限界です。で、ぎりぎりいっぱいの絵を描いたとしても、こうやって大きな会場で見るとどうしてもせせこましい詰まった感じがする。

 アトリエだけの問題ではないようにも思うけれど、やっぱりその器というのは知らず知らずに影響を受けるものだと思うな。兄貴から養殖魚の話を聞いた時になるほどなぁと感じたのは、どんなに大きくなる魚でも人工的なイケスで養殖した場合、外洋で取れる魚のようには成長しないそうだ。その器に合った大きさにしかならない。ということから考えると、例えばアメリカの現代作家のようにでかい工場跡みたいなところで仕事している作家には、スケールと言う事で比べると勝てるはずもないな。

 絵はスケールというのか大きさで勝負するものではないから、一概に彼らの方がいいとはいえないのだけれどね。一つの要素で考えるとお話にならない。

 絵の描き方にもよるのだろうけれど、例えば(佐々木豊説)で言えば、編み物派というのかな、どんどんつなげて行く描き方だといくらでも大きくすることが出来る。植物とか原始的な静物が増殖してゆく様子に似ているかもしれない。あえて全体を考えない。出来上がったのは作業が終わったところ、という描き方だ。建築でもガウディなどはこれに近いかな。どちらかと言えば女性の作家に多いように思う。

 反対に我々というのか男性の作家は構築派というのか、全体を一つとして見るというのか、そういった傾向が強いように思うな。閉じられた一つの宇宙を絵の中につくり出すということかな。だからある程度全体を把握していないと不安なんだな。だから手に余るような大きな作品は描けない気がする。どうだろうか。

 眠くなった。
 
  今でもこの番組はあるのでしょうか?私が聴いていた頃は日曜の夜、まさにメランコリックな気分に拍車をかけるような番組でした。このバックに流れている曲はラフマニノフのヴォカリーズです。ラフマニノフといえばロシアの作曲家の巨人ですが、、こんなメランコリックな美しい小曲を書いているのですね。彼は多分うつ病だと思う。

 
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