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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 井上直久さんのブログを読んでいたら、昨日書いた「秘密」と少し関係したようなことが書かれていた。下に勝手引用しておいたので、リンク元を訪ねてみてください。あぁやっぱり同じようなことを感じている人もいるんだなと思った。

 特にアメリカ発の現代美術などはこれでもかと言うほど「自己主張」の集まりです。自己主張なくしてアートはありえない「私が、、僕が、、」のてんこ盛りですね。美大やその他の美術の専門の学校などでも多分多くは「如何にすれば人と争って勝つか」そんなことのノウハウを教えるのではないだろうか。教える先生たちがたぶんそういった世界で戦って勝ってきた人たちだから、それが唯一正しい美術のあり方だと考えているのではないだろうか。

 異端だった若冲などがアメリカ経由で再び注目されるのもそんなところに根があるように思う。変っている、見たことがない、異端である、そういったことばかりが芸術の価値としてもてはやされると、敏感な若い人は争ってそんなことに血眼になりそうな気がする。

 他と違うことを唯一の取りえとしているものというのは、考えてみると非常に不安定なところに立っている。なぜならそれはすぐさま真似されて他と同じになってしまう。だからやたら「コピー禁止」や著作権を主張してその権利を守るために躍起になるのでしょう。

 今の世の中はお金が中心の世界だから、すべて利権がらみで物真似はいけないことという前提で成り立っている、しかし、どうなんだろう、よくよく考えると見知らぬ個人の利益を守るために、何故我々が我慢しなきゃならないのだろう。何かおかしくない?いいものはどんどん真似していいのじゃないかな。

 ゴッホやダリや若冲などのように決定的に他とは違っていれば、それはそれで普遍的なものに近づくことはできるように思う。それはある種神から送られた才能だから、うらやまれることもない。ただ周りにいたひとに多大な迷惑をかけたでしょうな。

 私は学生の頃に考えた。例えばここで林檎を描くとする。リアルに上手そうに描けたとする。しかし、それで一体なんなんだ?という疑問だな。例えばそれをもっと私だけの解釈で世界でどこにもない林檎を描いたとする、でもそれで世界が注目するのか?やってもやっても無駄なように思えた。

 少し見えたと思った取っ掛かりはセザンヌだった。今から考えると彼の絵は自己主張しているようでしていない。「私が、、僕は、、」という声が聞こえないのだ。淡々と内に向って、ただひたすらに根源へと向って降りている。

 人を驚かそうとか、人とは違うことをしようとか、自分のオリジナリティがどうのこうの、、など全く考えてはいない。自分のために、それが人のためになってやがて人類のになり世界ののになり宇宙まで広がっている。林檎を描いていてむなしくなった私を救ってくれた。今やっていることが無駄なことではない言われたような気がした。

 ということでまた眠くなった。また
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はる 3516
 昨日「就職しないで生きる」といったことを書いた。もし定職を持っていたら違った生き方になったでしょう。まぁ人は二つの人生を歩むことが出来ないので、どうなのかはっきりとは分からないのだけれどね。人生のある時期にどちらを選ぶのか選択を迫られる。無論どちらが正解というのではない、どちらでもいいのだけれど結果的には大きく変ってしまう。

 絵を描くことと生活が直接つながるとは考えられなかった。「絵描きになりたい」とは思っていたけれど、それが何を意味するのか、正直いって何も考えてはいなかった。場当たり的に学校の先生の職を辞してしまって、もう取り返しがつかないところまで追い込まれていた。何をやっても長続きしない、だめ男だと自分でもそう思って情けなかったな。普通なら実家の関西に帰るのが筋なのだが、今更おめおめと帰省するわけにも行かなかった。行くところがないので、学生時代すごしたここにすごすごと帰ってきたのだ。結果的には絵描きという生き方を選んだように見えるけれど、ある意味こうするしか仕方なかったというのが本当のところだ。

 私は絵を描いて生きてはいるけれど、どうもプロの作家になりきれないところがある。というのは注文に応じてだれそれの肖像を描くわけでも、こうして欲しいという期待に応じるわけでもない。職人のようにある一定のグレードの製品が出来るわけでもない。実にあやふやな、自己満足の基準で作品を作っている。まぁ私自身の判断ではいいと思ってはいるのだけれど、世間一般ではどうなのかわからない。何十年もやってきてこれだから本当に困る。それで平然と個展をやって人様に見せているのだから恥知らずと思われても仕方ない。でもまぁそれでも生きてゆけるのだから、反対に続けてもいいということだろうと解釈している。積極的にこれが私の選んだ道だとは言えない。

 秘密と言うほどのことではないのだけれど、気付いていることを書いてみる。多くの人は「私を見て」というために絵を描いている。だからどんな絵にも「私が、、ぼくが、、」という自己主張の声しか聞こえない。一点や二点なら聞いてもくれるだろう、でも大体が飽食で気持ち悪くなる。私は反対に見る人を「引き込もう」と考えている。出すのと入れるのでは180度違う。何か共通の想いを持つこと。誰にでもどこにでもあるものを探すこと。いつもの話に戻ってきてしまった。

 もう少し書きたいけれど、眠くなった。また。



 
はる 3515
 今日もなかなか忙しかった。税金の確定申告にで出掛ける。本来の申告日はまだ先のことだが、個人の簡単な申告相談なら少し前から受け付けている。実は大阪の個展にでかける前から気になっていた事柄で、申告がすまないと一年が終わった気がしないのは私だけかな・・。

 個展を最低でも年三回開催するので、例えばそれの経費たるやけっこうかかるものだ。東京や大阪に宅急便を使って荷物を送る、送り返してくる。その地方に出掛けて滞在する交通費や宿泊、食事など。DMを作ったりそれを送る料金も馬鹿に出来ない。画材費はあまりかからないのだけれど、額装したら凄いことになる。それらすべてひっくるめたら、全収入の半分以上になるだろうか。

 まぁせこい話だけれどね。絵描きとして生きるといった場合、避けては通れない切実な話だから参考になるかもしれないので書く。その収入を得るために必要だと思われる全ての領収書を取っておかねばならない。これは後から何とかなるものではないので、その都度もらっておく必要がある。税務署の人がこのブログを見ているとは思えないので書くけれど、まぁ普通に生活している分では目を付けられることはないだろうから、そんなに気にすることもないのだけれど、やっぱり少なくとも百万をこえたら申告した方がいいかな。反対に考えたら申告することでやっと絵描きになったという自覚ができる。ただ経費を引けばほとんど赤字だけれどね。そのために領収書がいるのだ。

 確定申告することで国民健康保険やその他の税金の額なども決まってくるので、定職を持たないで生きてゆく人は必ず必要になる。勤めている人は会社や組織がある程度守ってくれるので自己防衛する必要はないけれど、ある程度出来ることはやって出来ないことはもう仕方ないけれど、上手く公的なシステムを使うことも必要だな。こんなことはどこにも書いていない。ノウハウだな。



 
 今日も一日雑用に明け暮れる。芳名録の整理もある。礼状は自分の企画でない展覧会は出さないことにした。出すなら少しはコメントを書かねばあまり意味もない。形だけの礼状を出してもごみを増やすだけだ。

 顧客管理だけれど 皆さんはどうしているのだろうか、パソコンがなかった時代はいちいち全てメモして整理しておいたのだろうかね。今はパソコンがあるから比較的に整理しやすい。

 絵描きに限らないのだろうけれど、一度でも自分の絵を観てくれた人を大事にしたほうがいい。たまたま偶然に通りがかっただけの人かもしれないが、何かしらの縁があって同じ時間を共有したわけだ。どこか惹かれるところがあって、心の琴線に触れたわけだ。そのことはものすごく大切なことでね。一期一会というのかな、人と人、人と物、物と物、というのはそういった縁で成立っている。

 



 
はる 3513
 「実り」と言うタイトルの絵です。82歳の彼が昨年県展に出品した絵だ。正々堂々と真正面から自分自身とぶどうの一房を描いた。絵には色々なスタイルがあるし、流行り廃りもある。けれどやっぱり堂々と真正面から自分自身を描くという朴とつな、変らない表現は尊いと思う。人が評価することにあわせたり、受賞を狙って小細工するより数段素晴らしいことのように思う。

 一歩ずつ年を重ねることで失うことも多いし、忘れてしまうことも多いけれど、それでも健康で生きていることは楽しいし、若い頃には気がつかなかったことも一つや二つ見えてきた。生きていることは素晴らしいとハッタリでもいいから言って欲しい。



 
はる 3512
 個展が終わっても残務整理がけっこう残っている。今日絵が帰ってきた。いい絵から嫁ぎ先が決まってゆく訳ではない。なぜか縁がなくてまわりまわって私のところに残ってしまう絵もある。そういった絵がグレードが低いか?といえばそんなことはないのだな。何年か経ってながめて見ると、そのときには見えなかったものが見えてきたりして、あぁやっぱりこれは残しておくべき絵だったんだと納得することも多々ある。全ては縁だな。

 縁といえば私のデパートの展覧会の企画をするHさんとのめぐり合わせも縁だと思う。

 今でもそうだけれどデパートの絵画企画はほとんどの場合小奇麗な山や風景や静物や子供や美人を描いたものだ。それかもうすでに亡くなってしまった有名作家のリトグラフという印刷だったりする。これは明らかに偽物だな。デパートというブランドがそんな絵でも流通させてしまうのだ。

 だからまぁとても微妙なところにあるのは事実だな。そんな壁の飾りのようなものを描いているわけではない。一番新しい最先端の実験的な作品などはやっぱりデパートでは扱えないだろうな、なぜなら多くの人がそのことが理解できないからだ。デパートはそんなところにターゲットを置いていない。

 私自身芸術というものを良く理解していないから間違っているかもしれないが、すこし書いてみよう。

 よくやる間違いが誰も理解しないような訳が分からないものを「芸術だ」としてしまって、理解されないことを高尚なものと錯覚してしまうことだ。芸術家と無理解、というのを一緒にしてしまうと、独善とか独りよがりをいいものとしてしまう危険がある。

 生前は無理解で貧乏だった、というのが美談で語られるけれど、理解されないことが一流の芸術の証ではないと思うのだな。本当は一人でも理解されなければ意味がないし、そう努力しなければいけない。

 今の生活の中でも誰にも理解されないものは必要とされないだろうし、たぶん将来何年か後に多くの人に理解されるものは、もうすでにそのときに一部の人かもしれないが圧倒的な支持を得ているものである気がする。

 何か突然火がついて爆発的に有名になったようなに勘違いするけれど、本物は少ないけれど既に必要とされているものだ。、すぐに消えてなくなったり、流行り廃りがあったり、誰かに売り込んだり売り込まれたり、そんなもので左右するものは本物ではないだろう。

 「いま、ここ」で出会える人に出来る限り理解してもらおうとすること、そういった人に共感を持ってもらうこと、そんなことが一番近道のような気がするのだ。

 そういった意味で考えるとデパートというのは比較的に多くの人が行き交うところで「誰にでも、どこにでも」ある何かを探すにはいい場所のような気もするな。どうだろうか。



 
はる 3511
 長い旅が無事終了しました。約10日ほど家を留守にしていました。まぁ旅といっても実家に帰っているわけですから、気分的には気楽なものです。

 午前中は大阪の府立現代美術センターで国画会の石津豊子さんの展覧会を見に行く。大きな会場に100号以上の作品が30点以上展示してあってなかなか壮観で迫力のある展覧会です。もしお近くの方は是非見てください。

 大阪市中央区大手前3-1-43
 06-4790-520
大阪府立現代美術センター

 その後京都で途中下車。イノダでコーヒーをいただいて帰りました。 
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