画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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はる 2764
小津安二郎監督の映画などを観ていると、典型的な戦後の平凡なサラリーマンの生活みたいなものが描かれている。丸い食卓があって奥さんは着物のうえに白い割烹着などを着て、親父は浴衣や冬は丹前などを着て、「うん」とか「あぁ」しか言わずに威張っている。
家は戦後の安普請だけれど、小さな庭があって庭には物干しの棒が二本立っている。夕方には豆腐やが自転車に乗って「トーフィ~」とラッパを鳴らしながら去って行く。西岸良平の「三丁目の夕陽」の世界だな。まぁ色々問題はあったにせよ、それが一つの「幸せのかたち」だった。
日本の企業の雇用の形態は昔の殿様と家来の封建制に似ている。一度職につくとそこに骨をうづめるつもりで「滅私奉公」するように強要する。藩をでて浪人になってしまえば再び仕官する事は物凄く難しく、大方は家族ともども藩から拝領している家屋敷からでなければならなかった。後は悲惨な末路が待っている。
まぁその代わり、一度家人になれば、あらゆる面で優遇されているし、よほどの不始末をおかさない限り、親方様は家来を守ってくれた。そこにある種の契約というのか、絶対服従を強制するかわりに死ぬまでの家族の生活全ての安堵を約束するといった、暗黙の了解があったように思う。だから兎に角「我慢する」「堪忍する」というのが滞りなく人生を過ごす家訓であったわけだ。
戦後アメリカ型の雇用形態が入ってきて、週払いや実力主義で働いただけ支払われる給料システムがやたらカッコよくみえた。フレキシブルで自分の与えられた仕事だけきっちりやれば、「お付き合い」だの「根回し」だの訳のわからない「残業」だのやらなくてもいい、すっきりした雇用形態が日本型のドロドロした泥沼型仕事よりどれだけ魅力に富んで見えたことか。その裏に隠されている厳しい現実を知るまではね。
派遣型労働形態が出来た頃は、一般にはもろ手を上げて賛成の雰囲気だった。今さら日本型の終身雇用なんて古臭い。これからはスッキリはっきりのアメリカ型の雇用形態に全てが移行して行くだろう、といった雰囲気だったな。企業側でも使い捨ての安い労働力を確保できるわけだから、大いに賛成だった。でなければ人材派遣会社があれだけもてはやされて急成長するわけがない。
少し前にも書いたけれど、能力主義(速い、安い、便利)というのは一見自由で平等で民主的にみえる。当然当たり前のこんこんちきに思える。しかし、出来る人はいい、でも能力のない人間はどうするのか、能率の悪いひとはどうするんだ。不便な場所のお店は寂れても仕方ないのか。安ければ自国の農業を衰退させても外国から食料を調達するのか。etc・・
もう一つは、若いということは何も経験がないということで、出来上がった社会に入る事には誰でもやなものだ。だから一見人当たりのいい、楽で便利で簡単そうな雇用形態を選ぶ。
社会にはどうしても必要な誰でもが嫌がるような仕事がある。いわゆる3Kの仕事であったり、単純な肉体労働など、何の経験も必要とされず、その代わり何年やっても何のキャリアにもならない、そんな日替わりで充分で、取り替えのきく無味無臭の仕事がある。
若い時はそれでも充分だと思っていた。それ以上望む事もないきがしていたけれど、年を経るにしたがって段々に辛くなる。どれだけキャリアを積んでもだれからも評価されないような仕事は、芯から嫌になってくる。そこにいてもいなくてもいいような、存在が消えてしまった、まさに透明人間になる。仕事が人を作る。そのことを充分に考えるチャンスを与えるべきだ。
新しい雇用形態を考えなければならない時に来ている。もう滅私奉公の昔には戻れない。かといって今のままではやがて社会は内から腐ってくる。出来る人はほどほどに、出来ない人は一生懸命にといった、「遅くて、高くて、不便」がカッコいいスローな社会を考えなければならないのかもしれない
小津安二郎監督の映画などを観ていると、典型的な戦後の平凡なサラリーマンの生活みたいなものが描かれている。丸い食卓があって奥さんは着物のうえに白い割烹着などを着て、親父は浴衣や冬は丹前などを着て、「うん」とか「あぁ」しか言わずに威張っている。
家は戦後の安普請だけれど、小さな庭があって庭には物干しの棒が二本立っている。夕方には豆腐やが自転車に乗って「トーフィ~」とラッパを鳴らしながら去って行く。西岸良平の「三丁目の夕陽」の世界だな。まぁ色々問題はあったにせよ、それが一つの「幸せのかたち」だった。
日本の企業の雇用の形態は昔の殿様と家来の封建制に似ている。一度職につくとそこに骨をうづめるつもりで「滅私奉公」するように強要する。藩をでて浪人になってしまえば再び仕官する事は物凄く難しく、大方は家族ともども藩から拝領している家屋敷からでなければならなかった。後は悲惨な末路が待っている。
まぁその代わり、一度家人になれば、あらゆる面で優遇されているし、よほどの不始末をおかさない限り、親方様は家来を守ってくれた。そこにある種の契約というのか、絶対服従を強制するかわりに死ぬまでの家族の生活全ての安堵を約束するといった、暗黙の了解があったように思う。だから兎に角「我慢する」「堪忍する」というのが滞りなく人生を過ごす家訓であったわけだ。
戦後アメリカ型の雇用形態が入ってきて、週払いや実力主義で働いただけ支払われる給料システムがやたらカッコよくみえた。フレキシブルで自分の与えられた仕事だけきっちりやれば、「お付き合い」だの「根回し」だの訳のわからない「残業」だのやらなくてもいい、すっきりした雇用形態が日本型のドロドロした泥沼型仕事よりどれだけ魅力に富んで見えたことか。その裏に隠されている厳しい現実を知るまではね。
派遣型労働形態が出来た頃は、一般にはもろ手を上げて賛成の雰囲気だった。今さら日本型の終身雇用なんて古臭い。これからはスッキリはっきりのアメリカ型の雇用形態に全てが移行して行くだろう、といった雰囲気だったな。企業側でも使い捨ての安い労働力を確保できるわけだから、大いに賛成だった。でなければ人材派遣会社があれだけもてはやされて急成長するわけがない。
少し前にも書いたけれど、能力主義(速い、安い、便利)というのは一見自由で平等で民主的にみえる。当然当たり前のこんこんちきに思える。しかし、出来る人はいい、でも能力のない人間はどうするのか、能率の悪いひとはどうするんだ。不便な場所のお店は寂れても仕方ないのか。安ければ自国の農業を衰退させても外国から食料を調達するのか。etc・・
もう一つは、若いということは何も経験がないということで、出来上がった社会に入る事には誰でもやなものだ。だから一見人当たりのいい、楽で便利で簡単そうな雇用形態を選ぶ。
社会にはどうしても必要な誰でもが嫌がるような仕事がある。いわゆる3Kの仕事であったり、単純な肉体労働など、何の経験も必要とされず、その代わり何年やっても何のキャリアにもならない、そんな日替わりで充分で、取り替えのきく無味無臭の仕事がある。
若い時はそれでも充分だと思っていた。それ以上望む事もないきがしていたけれど、年を経るにしたがって段々に辛くなる。どれだけキャリアを積んでもだれからも評価されないような仕事は、芯から嫌になってくる。そこにいてもいなくてもいいような、存在が消えてしまった、まさに透明人間になる。仕事が人を作る。そのことを充分に考えるチャンスを与えるべきだ。
新しい雇用形態を考えなければならない時に来ている。もう滅私奉公の昔には戻れない。かといって今のままではやがて社会は内から腐ってくる。出来る人はほどほどに、出来ない人は一生懸命にといった、「遅くて、高くて、不便」がカッコいいスローな社会を考えなければならないのかもしれない
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