画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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明日からいよいよ個展が始まります。タブローの個展は地元では二年ぶりですな。なんだかんだ言っても地元が一番お客さんが多いわけで、まぁ安心して遊べる?ところもあって楽しみだな。沢山のお出でをお待ちしております。是非見に来て下さい。百聞は一見にしかず。
この間の続き「全存在と抹茶ケーキ」
坂本龍一さんに聞く ネット時代の音楽表現とは
http://www.asahi.com/showbiz/music/TKY200812180219.html
「ネットのおかげで、ぼくはたくさんの人に聞いてもらうことが音楽を作る動機にならないことが逆に分かった。アマチュア時代に戻ったような新鮮な感覚だ。顔の見えない、何をおもしろがるのか分からない大量のユーザーのために音楽を作る必要性を感じない。作りたい音楽があるからやっている。テクノロジーも100%は信用していない。結局はぼく自身の体にしかよりどころはない。自分の耳がどんなメロディーを聴きたいか。それを突き詰めていく」
まぁかなり面白い問題を含んでいるよね。市場経済というのか我々西側のある種サクセスの方法というのは、何か他人と違うことを見つけてそれを特化することで差をつける、で成功するにはそれを権利として主張して保護することで何とかその権利で利益をあげる。まぁそれが民主主義で個人の権利であり当然だという共通の認識で来たわけだ。それを邪魔する者は悪であり、人類共通の敵だみたいな言い方をする。
でもさぁ、知的財産でも個人で私物化、権利を主張して他に使わせないというのは、長い眼で見てどちらが人類の敵なんだろうね。ソフトなんかでもよく思うのだけれど、無料のソフトがどんどん出ていて、あっという間にコピーされてしまうわけだ。これは違法だと知りながらどんどんかってにコピーして使ってしまっている。もしこれがなかったら、パソコンなんてこれほど広まらなかった気もするな。
で話は少し違うのだけれど、これは実にこの頃考えていた般若心経の考察とリンクする。何と言うのか我々人類は他と競争して、出来るだけ自己を特化することで他人を押さえ込んでほんの少しでも自己を優位にたたせようとしてきたわけだ。それがまぁ生存の法則であり、生きるためのモチベーションにもなっていたわけだ。
そのための方法として、一番手っ取りはやいのが実際に力を持つことで、一昔前の世紀では強い者がこの世界を制していた。今でもたぶんにそういった影響が残ってはいるけれど、最近は経済的に強い者が下世話に言うならばお金持ちが世を制しているようにおもうな。・・・・
話がとっちらかってきた。続きはまただな。
この間の続き「全存在と抹茶ケーキ」
坂本龍一さんに聞く ネット時代の音楽表現とは
http://www.asahi.com/showbiz/music/TKY200812180219.html
「ネットのおかげで、ぼくはたくさんの人に聞いてもらうことが音楽を作る動機にならないことが逆に分かった。アマチュア時代に戻ったような新鮮な感覚だ。顔の見えない、何をおもしろがるのか分からない大量のユーザーのために音楽を作る必要性を感じない。作りたい音楽があるからやっている。テクノロジーも100%は信用していない。結局はぼく自身の体にしかよりどころはない。自分の耳がどんなメロディーを聴きたいか。それを突き詰めていく」
まぁかなり面白い問題を含んでいるよね。市場経済というのか我々西側のある種サクセスの方法というのは、何か他人と違うことを見つけてそれを特化することで差をつける、で成功するにはそれを権利として主張して保護することで何とかその権利で利益をあげる。まぁそれが民主主義で個人の権利であり当然だという共通の認識で来たわけだ。それを邪魔する者は悪であり、人類共通の敵だみたいな言い方をする。
でもさぁ、知的財産でも個人で私物化、権利を主張して他に使わせないというのは、長い眼で見てどちらが人類の敵なんだろうね。ソフトなんかでもよく思うのだけれど、無料のソフトがどんどん出ていて、あっという間にコピーされてしまうわけだ。これは違法だと知りながらどんどんかってにコピーして使ってしまっている。もしこれがなかったら、パソコンなんてこれほど広まらなかった気もするな。
で話は少し違うのだけれど、これは実にこの頃考えていた般若心経の考察とリンクする。何と言うのか我々人類は他と競争して、出来るだけ自己を特化することで他人を押さえ込んでほんの少しでも自己を優位にたたせようとしてきたわけだ。それがまぁ生存の法則であり、生きるためのモチベーションにもなっていたわけだ。
そのための方法として、一番手っ取りはやいのが実際に力を持つことで、一昔前の世紀では強い者がこの世界を制していた。今でもたぶんにそういった影響が残ってはいるけれど、最近は経済的に強い者が下世話に言うならばお金持ちが世を制しているようにおもうな。・・・・
話がとっちらかってきた。続きはまただな。
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はる 3067
「私が全存在をかけて作った作品は、「抹茶ケーキが美味しかった♪」というツブヤキと同程度なのか」
あるメルマガを読んでいたらこんなことが書かれていた。何のことか分かりますか?そうネットの情報は無料か?という大きな問題なんだな。
まぁ今までは何かを知ろうとすれば、ある意味本に頼るしかなかったわけだ。だから図書館みたいな知の集積箱のようなものが必要だったし、百科事典のような分厚い本が必要だった。どれだけ蔵書があるかというのが、その人の知の分量でもあったわけだ。だから本にお金を掛ける事をいとわない人も多かった。
ところが、ネットがこれだけ充実してくると何か調べる時にいちいち本に当たることがなくなってしまった。お手軽に簡単にネットで検索すれば、かなり専門的なことでも知ることが出来るんだな。それもここが大事なんだけれど、無料なんだ。
一人の専門化がある時期に全存在をかけた労作がいとも簡単に無料で手に入ってしまう。知の共有化といえばその通りなんだけれど、人間の共有の財産といえばそうなんだけれど、それで一人の専門家が消えてしまう。下世話に言えば食えなくなってしまう。
アニメのキャラクターなんかもそうだな。何万もの作家志望のオタクがいてほんの一握りの才能ある作家が売れるキャラクターを作るんだけれど、成功すればあっという間に亜流で食いつぶされてしまう。
だったらもっと厳格な規律を打ち立てて、著作権を侵犯するものは財産没収で死刑、尚且つ子々孫々末代まで罪に問われるとしたらどうか。
私の予想としてはたぶんそうはならないと思う。なぜならば物事というのは全て楽な方に流れるからだな。規則があれば不規則な方に、秩序があるものは無秩序になるのが自然のながれだかだ。いまある流れをせき止めることは多分できない。世の中の多くの出来事がそれを示している。
最初の話で言えばたぶん全存在を賭けた労作も「抹茶ケーキが美味しかった」というつぶやきも、価値的には同じなんだと思う。全存在を賭けた作品の方が価値があるというのは一方的な思い込みにすぎない。○か×か。求める人によって必要な人には○であり、必要ない人には×となる。全ては等価な並列な関係となるのだろう。それが多分これから迎えるであろう社会だ。
「私が全存在をかけて作った作品は、「抹茶ケーキが美味しかった♪」というツブヤキと同程度なのか」
あるメルマガを読んでいたらこんなことが書かれていた。何のことか分かりますか?そうネットの情報は無料か?という大きな問題なんだな。
まぁ今までは何かを知ろうとすれば、ある意味本に頼るしかなかったわけだ。だから図書館みたいな知の集積箱のようなものが必要だったし、百科事典のような分厚い本が必要だった。どれだけ蔵書があるかというのが、その人の知の分量でもあったわけだ。だから本にお金を掛ける事をいとわない人も多かった。
ところが、ネットがこれだけ充実してくると何か調べる時にいちいち本に当たることがなくなってしまった。お手軽に簡単にネットで検索すれば、かなり専門的なことでも知ることが出来るんだな。それもここが大事なんだけれど、無料なんだ。
一人の専門化がある時期に全存在をかけた労作がいとも簡単に無料で手に入ってしまう。知の共有化といえばその通りなんだけれど、人間の共有の財産といえばそうなんだけれど、それで一人の専門家が消えてしまう。下世話に言えば食えなくなってしまう。
アニメのキャラクターなんかもそうだな。何万もの作家志望のオタクがいてほんの一握りの才能ある作家が売れるキャラクターを作るんだけれど、成功すればあっという間に亜流で食いつぶされてしまう。
だったらもっと厳格な規律を打ち立てて、著作権を侵犯するものは財産没収で死刑、尚且つ子々孫々末代まで罪に問われるとしたらどうか。
私の予想としてはたぶんそうはならないと思う。なぜならば物事というのは全て楽な方に流れるからだな。規則があれば不規則な方に、秩序があるものは無秩序になるのが自然のながれだかだ。いまある流れをせき止めることは多分できない。世の中の多くの出来事がそれを示している。
最初の話で言えばたぶん全存在を賭けた労作も「抹茶ケーキが美味しかった」というつぶやきも、価値的には同じなんだと思う。全存在を賭けた作品の方が価値があるというのは一方的な思い込みにすぎない。○か×か。求める人によって必要な人には○であり、必要ない人には×となる。全ては等価な並列な関係となるのだろう。それが多分これから迎えるであろう社会だ。
はる 3066
私の生徒操じゅう法は簡単だ。生徒の声を聞く、声をかける、それだけだ。生徒のアイディアなり考えを頭ごなしに否定しない。まずは話を聞く、あとはゆっくり話す。不思議だが、それだけで半年ぐらい付き合うとおとなしくなる。
しかし、見た目には何もしていないように見えるけれど、気力が充実していないと逆効果になる。やる気のない態度、おざなりな言動、引いた気力だとすぐに分かるらしい。その点は彼らは敏感で動物のような感覚を持っている。静かだが気力に満ちた態度、一歩も引かない毅然とした態度でなければすぐにうるさくなる。今日よくても明日はだめかもしれない。生き物相手だからしかたない。
だから40人相手の授業というのは一見静かだが、その実、結構見えない駆け引きをしているように思う。楽そうにみえるけれど、結構疲れる。
新米の教師というものがどうしてもうまく行かないのは、もちろん経験不足というのが大きいけれど、案外それまでに優等生でやってきた人間が教師になるからだろう。彼らはほぼ上から半分のところにいた人間なんだな。言わないでも分かる、学力やその他のことでも充分目立っていた存在で、あえて「私を見て」と言わなくてもそこそこ注目されていたわけだ。
世の中の残り半分は学校生活で辛い想いをしている。特に学力というのははっきりと数字で示されるから残酷だな。選別すること順番をつけること、評価すること、それだけを教師の仕事だと考えているならば、ここで大きなしっぺ返しを食うだろう。
それでも人間が好きなら何とか我慢できる。ものを売ったり買ったり、損だ得だで動かない仕事。そう考えるならば、仕事としてはいい仕事ではないだろうか。
私の生徒操じゅう法は簡単だ。生徒の声を聞く、声をかける、それだけだ。生徒のアイディアなり考えを頭ごなしに否定しない。まずは話を聞く、あとはゆっくり話す。不思議だが、それだけで半年ぐらい付き合うとおとなしくなる。
しかし、見た目には何もしていないように見えるけれど、気力が充実していないと逆効果になる。やる気のない態度、おざなりな言動、引いた気力だとすぐに分かるらしい。その点は彼らは敏感で動物のような感覚を持っている。静かだが気力に満ちた態度、一歩も引かない毅然とした態度でなければすぐにうるさくなる。今日よくても明日はだめかもしれない。生き物相手だからしかたない。
だから40人相手の授業というのは一見静かだが、その実、結構見えない駆け引きをしているように思う。楽そうにみえるけれど、結構疲れる。
新米の教師というものがどうしてもうまく行かないのは、もちろん経験不足というのが大きいけれど、案外それまでに優等生でやってきた人間が教師になるからだろう。彼らはほぼ上から半分のところにいた人間なんだな。言わないでも分かる、学力やその他のことでも充分目立っていた存在で、あえて「私を見て」と言わなくてもそこそこ注目されていたわけだ。
世の中の残り半分は学校生活で辛い想いをしている。特に学力というのははっきりと数字で示されるから残酷だな。選別すること順番をつけること、評価すること、それだけを教師の仕事だと考えているならば、ここで大きなしっぺ返しを食うだろう。
それでも人間が好きなら何とか我慢できる。ものを売ったり買ったり、損だ得だで動かない仕事。そう考えるならば、仕事としてはいい仕事ではないだろうか。
はる 3064
「邂逅の森」熊谷達也
なかなか面白かった。かなり厚い文庫本だったけれど、東京往復の電車のなかでほとんど夢中で読んでしまった。以下は気になった個所
・・人間の欲というものは、やっかいなもんでな。欲を消せば抗うこともしなくなる。・・・山の獣は、人間の欲望で獲るものではなく、山の神様から授けられるものだ・・
・・山の神様といっても、明確な姿形をもっているわけではない。・・その場その時によっていかようにも姿形を変えるのが、山の神様の本質である・・・・ある時は動物に姿を変え、またある時は木々や森となり、風にも雲にも変化する。ありとあらゆる空間に偏在しつつ、その時のマタギにとって最も分かりやすい姿になって助けてくれるのが、山の神様の実体である。・・
・・山の神様に守ってもらうには、人間の性である欲深さを封じ込め、意識や感覚を出来うる限り獣の領域まで近づけなくてはならない。・・
話を変えて
昨日は野暮用で東京にでる。そのついでに三箇所ほど個展会場を覗いた。一つは来年早々にお世話になる銀座松屋デパートの画廊。私と同じキュレータ(企画屋さん)の企画で、盛岡在住の版画家兼ギタリストである大場冨生の個展をやっていた。作家が在廊されていてリクエストしたら気軽に応じて「黒いオルフェ」を演奏してしてくれた。感激!いずれまたどこかでお会いしましょうと約束して次の会場へ。
もう一つはネットでどこで見つけたのかはっきりは憶えていないのだけれど、退職されてから精力的に個展を開催されている作家の個展を見た。アクリル、ペンキ?と紙などをコラージュした作品で古いヨーロッパの石壁とか化石の動物や人物、花のようなものが、所狭しと展示されていて作者のエネルギーが感じられて面白かった。ただこれは誰にでもいえることなんだが、「どうだ俺を見てみてみろ」という声が大き過ぎて、本来の絵のよさである慎ましやかな内なる声が聞きつらい気がした。自戒をこめて。
「邂逅の森」熊谷達也
なかなか面白かった。かなり厚い文庫本だったけれど、東京往復の電車のなかでほとんど夢中で読んでしまった。以下は気になった個所
・・人間の欲というものは、やっかいなもんでな。欲を消せば抗うこともしなくなる。・・・山の獣は、人間の欲望で獲るものではなく、山の神様から授けられるものだ・・
・・山の神様といっても、明確な姿形をもっているわけではない。・・その場その時によっていかようにも姿形を変えるのが、山の神様の本質である・・・・ある時は動物に姿を変え、またある時は木々や森となり、風にも雲にも変化する。ありとあらゆる空間に偏在しつつ、その時のマタギにとって最も分かりやすい姿になって助けてくれるのが、山の神様の実体である。・・
・・山の神様に守ってもらうには、人間の性である欲深さを封じ込め、意識や感覚を出来うる限り獣の領域まで近づけなくてはならない。・・
話を変えて
昨日は野暮用で東京にでる。そのついでに三箇所ほど個展会場を覗いた。一つは来年早々にお世話になる銀座松屋デパートの画廊。私と同じキュレータ(企画屋さん)の企画で、盛岡在住の版画家兼ギタリストである大場冨生の個展をやっていた。作家が在廊されていてリクエストしたら気軽に応じて「黒いオルフェ」を演奏してしてくれた。感激!いずれまたどこかでお会いしましょうと約束して次の会場へ。
もう一つはネットでどこで見つけたのかはっきりは憶えていないのだけれど、退職されてから精力的に個展を開催されている作家の個展を見た。アクリル、ペンキ?と紙などをコラージュした作品で古いヨーロッパの石壁とか化石の動物や人物、花のようなものが、所狭しと展示されていて作者のエネルギーが感じられて面白かった。ただこれは誰にでもいえることなんだが、「どうだ俺を見てみてみろ」という声が大き過ぎて、本来の絵のよさである慎ましやかな内なる声が聞きつらい気がした。自戒をこめて。
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