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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 今日は勝沼の方のぶどう畑でピクニックと洒落込んだ。↑の写真は冬場に剪定したぶどうの枝の束です。こうやって冬場に剪定したり肥料を与えたりして手をかけて、やっとまともなぶどうが出来るらしい。ぶどう棚は結構急な斜面にあってこれを上ったり降りたりするだけで結構な重労働に思われる。それゆえに後継者が少なく、どんどんぶどうが作られなくなっているようだ。私のようにただ見るだけなら、美しい風景の中で仕事できるのはいいなぁなどと思うのだけれど、実際はもっと厳しいようだな。

 県内産の農産物やワインなどもそうだが、需要があってもそれを作る担い手が育っていないのが現実だ。確かにコンビニで時給で働いた方が現実的に手っ取り早く収入が得られるからね。だれも体を動かす肉体労働をやろうとはしない。作るより買った方が良い物?が手早く手に入るならだれも作り手にはならない。

 何が「いいもの」なのか。安ければいいのか、見た目がよければいいのか、この「良い」という価値判断が難しい。もっと言うなら我々は古来持ってきた、教えられてきた「良い」という価値観を壊して今のこの『便利で、効率的で、清潔な」生活を手に入れて来たんだな。

 例えば地方の町中が荒廃している。一つの原因は若い人たちが都会に出てしまって活気がなくなったということがあるだろう。仕事がないということもあるかもしれない。面白いことがないということが原因かもしれない。ただそういった原因も突き詰めていけばこの「何がいいのか」ということを教えてこなかった、教えられてこなかったということに突き当たる。

 もう少し考えてみたい。明日はまた東京です。
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 今日は教室があった。生徒である彼は80歳を越えている人生の大先輩でもある。普通は小さなバイクに画材と何枚か描きかけの絵を一杯持ってやってくる。今日は80号やら100号を含めて赤帽さんを頼んで教室まで来た。古いよれよれのコートを着て絵を描く姿は大道芸人のようで絵になるなぁ・・。絵が好きですきでたまらない、入選とか受賞とか全く関係ない。ただ描きたいから、好きだから、絵を描くことの醍醐味はそこにある。いつもそう思います。ありがとうございます。

 思想家とか芸術家、哲学者とか詩人とか、ある意味そんな職業はない。共通することは考える人だということか。何の役にもたたない極つぶしということでもある。

 今の自分はここ10年ほどの私の集大成である。そう考えるいまさら何を考えることがあるのか、私はれっきとしたくだらない極つぶしでしかない。



 
はる 3206
 午前中は春の嵐のようで雨も風も強かった。予定していたので北の方へ桜を見に出かけたが、まだ少し早かったようだ。熊出没注意!だと。

徒然に・・

 いまさら人生をやり直すわけには行かないのだが、まぁもう一度やれといわれてもやっぱりこういった行者のような生活をするのではないかと思う。いや、実際は色んな欲にまみれて日々の暮らしを送ってはいるのだが、それはどう生きたらいいのか、どういった生き方が私が望んでいる生き方なのか、それでは、私とは本当はどんな人間なのか?という問いかけの奇跡でもあるわけだ。答えなど出るわけはないのだ。

 30年前に絵描きになりたいと思った時に、私は絵さえ描ければ幸せだという人間ではないことを知った。そのことに気づいてショックを受けたな。例えばゴッホのように無我夢中に描かざるを得ない衝動に突き動かされて、やむにやまれず描き続けている、そんな人間であったらどれほどよかったか。まぁ人間はそんなに単純ではない。

 天然であればどれほど楽か。あちらの世界に行きっぱなしの人を芸術家とは言い難いのだけれどね。

 どうなりたいか?やっぱりまだもう少し考えたい。



 
はる 3204
 メセナとか奨学金とか補助金とか、私も若い頃は随分利用させてもらっていまさら言えた義理ではないのだが、もらった本人は嬉しくて有頂天になって後は何とか使い切ることばかりを考えている。どうもこの感覚というのは政府の予算の配分に似ていて、使い切ってしまうということに意味があって、それを何かに役立てるということに目的が置かれていない、本末転倒型が多いように思うなぁ。

 奨学金や補助金をもらうと、何かしらの報告義務があって、確かにこれこれのことを実際にやりましたという、ある種の体裁ばかり、カッコばかり、つけることに始終して、確かに見た目はすごく内容があるように見えるけれど、実際は見てくれだけで内容は薄っぺらというのが多い。これも野球の消化試合のようで気の抜けたものだ。

 人間というのはある意味ものすごく利巧でね、目の前に餌があるとそれを獲得するために一生懸命になるけれど、餌をもらってしまうと急速にやる気、モチベーションが落ちる。ほかの事にその能力を使ってしまう。この場合だとみばのいい報告書を書く事だな。

 まぁ何が言いたいのかわからなくなった。また明日。

 



 
はる 3203
 そうだった。「どうなりたいか?」

 何かのキャッチコピーを読んでいたら「よく使う言葉の集積がその人を表している」とか書かれていた。う~ん。なるほどなぁ。さしずめ「どうなりたいか」というのはよく使うフレーズだな。

 二十歳やそこらの人間ではない、還暦ももう目の前に迫っている準老人がまだ「どうなりたいか」などと考えているわけだ。これはもう、一生私は「どうなりたいか?」と考え続けて棺おけに入るわけだな。まぁそれもまた私というわけだ。面白い。

 私のペンネームのように「遊び」というのが一つのキーワードのように思うな。この場合の「あそび」にはクリエイトという意味が含まれている。

 「絵描き」であるというのもある意味「遊び」の一つである気がする。遊びも真剣勝負でなければ面白くない。「命がけ」なんだけれど、かといってすがりたくもない。さらっと気前よく命を預けたい。ここのところのニュアンスが難しいところだ。野暮は一番避けたいところ。
 



 
 町内の花見会。途中で雨に降られたけれど、まぁまぁ皆さん楽しんでいました。後は恒例のカラオケ大会です。

 明日は東京、また遅くなります。では。



 
はる 3200
 糸井さんのコラムより
http://www.1101.com/darling_column/2010-02-08.html
・・略・・
(おそらく、「どういうじぶんでありたいのか?」
という自問自答のなかでは、
理想のじぶんと、そうはいかない見苦しいじぶんとが、
しょっちゅう対話しているにちがいない。
でも、その問答、その対話が、
その人をつくってるんだというのは、すごいことだ。)



 
 近所の公園の桜並木、今年も桜が咲きました。この日曜日は町内会の花見です。昔は考えられませんでしたが、最近は近所のお年寄りと花見をしたり、町内の公民館の文化祭にもごく普通に参加するのです。ほとんどの人が私が絵描きだと知りません。小学生の工作や、ばぁさんの編み物や、じぃさんの俳句の短冊などと一緒に展示されています。これでどうだ!というのは恥ずかしい。妙に違和感なく並んでいますね、それでいいと思っています。
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