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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3248

 あるものでなんとかする。

 この話は随分と遠い話で分かりにくいかもしれない。自分でも何だかよく分かっていないところがある。で、まぁいつものように手探りで書いてみよう。うまく行かなければご愛嬌ということで許してくださいな。

 話を分かりやすくするために子供で考える。いつも思うのだけれど、大人が考えているほど子供は無邪気でも、脳天気でもない。彼らは彼らの時代を精一杯生きている。大人から見て無邪気に見えるのは自分もそんな時代があったという余裕から生まれたものだろう。

 どんなに能力があって才能があったとしても10歳の子供はそれ以上でも以下でもない。よく天才少女などと騒がれて一躍世の中に出てくる音楽家などがいるけれど、果たしてどうなんだろうか、10歳の子供には生まれて10年の経験しかないわけで、それだけのレベルでしか世の中を理解していない。もし天才だとするならその技術が、師匠の意思を反映するだけのものだということだろうな。

 表現ということでいうならば、人を感動させるには高尚である必要はない。「ないものは伝わらない」ということでいうなら、子供はこどもなりの感性で表現すれば充分人を感動させることが出来る。それが妙に大人のまねをして白々しい表現をしても薄ら寒いだけだ。

 違うなぁ、こんなことを書こうとしたわけではない。

 例えば三岸節子の絵に感動したとする。こんな絵が描ければいいなぁと思う。で、そのスタイルを真似するじゃない。まぁそれとよく似た絵はたぶん描けるだろう。そう難しいことではない。けれど何かが違う。それはあなたが三岸節子ではないからだ。

 彼女は生き方が三岸節子なんだと思う。絵のスタイルではない。芸というのはそういうことだろう。絵が上手いとかへたくそだというのではないのだな。どう生きたか?何を選択したか?何を是として何を否としたか?自分にはこれこれがあって、これこれがない。私が今見えているのはこれで、だからこれこれで描きましたというのが芸なんだろう。

 今の自分の持っているいいも悪いも、あるだけの方法で何とかするのがその人の芸道だ。

  「あるものでなんとかする」

 このことを分かっている人はわりと少ない。みんなほとんどの人がよそゆきの顔をして自分以上に見せようとがんばっている。何かそれらしきものがあるけれど、切実なものとして何も伝わってこない。このことはだれも教えてくれない。けれどこれが一番だいじなことだ。

 ここで少し話は飛躍する。

 自然界の話で「フラクタクルの理論」というのがあった。日本語では「自己相似形」とでもいうのだろうか。実際この宇宙の根本原理はこの入れ子人形のマトリョーシカに似ている気がする。何処を切っても金太郎飴のように同じようなパターンがでてくる。

 人格形成においても結局同じ事を繰り返しているに過ぎない気がしているんだな。子供時代の私も今の私もパターン的には同じ思考回路で生きている。確かに人生経験は違うので大きさは違うかもしれないが、小さな小さなマトリョーシカ人形のパターンで生きている。

 これで最初に戻った。まだ何か書き足りない気がしている。
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