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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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2011 11月からの「裸婦クロッキー」はこちら
http://asobibe.blog.fc2.com/blog-category-4.html

今までのまとめを見ることが出来ます。

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はる 3745
 私はこうやってパソコンに向って、さて今日は何を書こうかと考えるのが、一日の終わりのほぼ儀式のようになっている。簡単にシャメだけで済ます場合もあるけれど、興が乗れば結構真剣に考え込んでしまう場合もある。

 こうやって書くことは、普通に何気なく過ごしてしまっていることを改めて自分で確認するという意味で凄く重要な仕事になっているんだなぁというのが最近の私の想いだ。絵を描くことも自分のこころの中を覗き込むような作業だけれど、絵と違って言葉はもっとストレートにつかむ事ができるように思う。

 私の文章はある意味特殊な仕事を持つ人間の言葉で、いつも何か問いかけながら、ああでもないこうでもないと探り書きをしているようなもので、文章として面白いとか、楽しいとか、上手いとか、そういった類のものではない。私の今この場で考えていることをダイレクトに表現しているだけで、何の飾りもてらいもない。物を作る人間の見る目を通した文章だから興味がある人には面白く思うかもしれないな。私はほとんど読む人のことを考えてはいないので、反対に興味がない人にはカスみたいなものだろう。

 少し話題を変えて
 先日から考えていたことも書くことで気付いたことで、書かなければまったく見過ごしていただろう。その、クロッキーのことから始まった考察のことだ。

 今日もクロッキーがあった。全く今日は筆がのらなかった。その理由は描きながらいろいろな事を考えてしまったからだとおもうのだけれど、他人からみればほとんど変らないように見えるクロッキーも毎回、その瞬間ごとに違うわけで、描いている私だけに分ることかもしれない。

 絵が描ける、かけないという技術の話ではない。物が見えれば左でも描けるのだし、口にくわえてもでも、足でも描ける。ようするに、どのように観たか、解釈したかということなんだな。

 このことは昨日の家の話にもつながってゆく。簡単に便利にお安くという風な事ばかりで生活してゆくと、結局生きてはいるけれど、何も観ていない、聴いていない、感じていない、生物として生きてはいるけれど、人間として生きているということにはならないのではないかな。

 
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その1

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その2
 よけいなお世話をしてみましょう。昨日のクロッキーで実際に眼はどう見たのか、そんな事を考えて説明しようと試みた。正しいかどうかは分りません。

 まず、その1を見てください。人物を見て画面の中にどう配置するか、体の流れはどうなのかを実際に何本か線を入れています。それそのまま体の骨組みとなります。

 頭の頂上0から描いてゆきます。次に大事なのは左肩①の位置ですね。ここが顔からどのくらい離れているのか、頭半分ぐらいと眼ではかります。①-②の傾きも大事ですね。次に乳首の位置③これがどのくらい前に出ているのか、①の位置からどのくらい下にあるのかを計ります。③を描いている時に④の位置を気にすることが大事です。

 ②-⑩の傾きは最も重要なポイントですね。これで右に少しひねった状態を下から見上げているんだと言う事を暗示します。①-②ー⑩が描けるかどうかが、このポーズを自分のものにしたかどうかの境目ですな。いずれにしろ、どんなポーズにも肝になるポイントがあって、それを上手く報告するという気持ちが大事です。自分だけ分っても絵にはならない。

 次はおへその位置⑤です。ここからは見えませんが、おへそが縦に伸びているか、横にのびているかで、お腹の状態を報告できます。今回は多分縦に少し伸びているでしょう。⑦-⑧の傾き、⑤-⑫-⑥に至る骨盤の丸みも意識します。⑧-⑨の太ももの丸み、何気ないですが、②-⑫の背骨のラインが体をぐっとそった感じを暗示します。これも大事なポイントですな。

 ⑪の位置が①からどのくらい右にずれるか、これも目分量で測ります。手の指や足の指などは省略する人もいますが,私は暗示する程度には描きます。その方が表情がでるからです。顔より手の指の方が表情があるきがしますね。

 まぁこんなところですか。余計なお世話でした。
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 今日は月一度のクロッキーの日。有志のメンバーは大分変ったけれど、変らずにずっと続けている人もいる。他人ことはあまり言えないけれど、長く続けたら上手くなるかといえばそうでもなくて、、基本的にはほとんど変らないように見える。こういったものには凄く最初っから上手い人というのがいて、特に訓練する事もなく上手いのだ。これは珍説だけれど、字と似ているな。字の上手い人は訓練すれば絵も上手くなると思う。

 私の字を知っている人はよく分かると思うのだが、はっきり言って滅茶苦茶下手くそだ。下手にも限度があるけれど、私の字は学校に行く前の児童の字にも負ける。しっかりまじめに真剣に書いてもグネグネと曲がってしまうし、何か全体のバランスが微妙に変である。自分で言うのだから間違いない。決して謙遜でも卑下しているわけではない。その事に劣等感もないのだから、卑下しているはずもない。

 これは訓練して上手くなるというものでもないのではないかと思うのだ。小学校の頃私の夏休みの宿題は毎日ゆっくり丁寧に百字書くという課題だった。見本を見ればそれなりに上手くはかける。でもすぐに元に戻ってしまう。

 パソコンで一番いいと思ったのは生字がそのままでない事だな。だからこうやって恥じらいもなく日記などを晒す事ができるのだ。これが生字ならとても人様に見せられたものではない。人格を疑われてしまうだろう。

 で、なぜこんな話をするかと言えば、いってみれば私の指先は持って生まれた癖を持っている。言い方を変えればハンディを元々持っているようなものだ。ところが絵に限った事でないのかもしれないが、人は何かハンディを持っているほうがより遠くへ行ける気がするんだな。もし私が神のような手を持っていたら、絵を描くのに何の苦労もしなかったら、今の手法は考え付かなかっただろうし、多分そこそこで飽きて止めてしまっただろう。これだけ飽き性なんだから・・。全ては裏表なんだな。けっしていいだけではないし、悪いことだけということもない。

 クロッキーに限らないのだけれど、絵というのは見方なんだな。私にはこう見えました、こう解釈しましたという自己報告みたいなものだ。だから見えない人には絶対に描けないのだ。多くの人はそっくりそのまま、見えたままを描くのが絵だと思っているようだけれど、見えたままそっくりに描いても、絵のようには見えるけれどそれは絵ではない。ただ機械的に写しただけなんだ。それは写真でやる事を人間の手がやっているにすぎない。だから積極的にこう見えました。こう解釈しましたという報告書を載せないと絵にはならない。

 クロッキーが面白い、曲がりなりにもここまで続いてきたのは、決して上手くはならないからだろう。無論最初に比べると格段に上手くはなっているけれど、そういう問題ではない。どんなにがんばっても私はラファエロやダビンチにはなれない。もって生まれた天性が違う。彼らは元々並々ならないほど上手だったんだ。その上に努力している。そういうのを天才というのだ。

 だらだら取りとめもないことを書いてしまった。消すのも勿体ないのでアップします。あしかえあず。
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