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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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コンビニやファミレスまでが地産地消をうたい出したので、これはもう一つのブームなんだろう。ブームというのはある種の集団ヒステリーみたいなもので、ある時に誰かが言い始めたら次の日には全国の人が知っていた、そんな風な伝染の仕方をする。いっきに爆発的に繁殖するウィルスのようなものか、時が来れば跡形もなく消えてしまう。

 人材などもできるだけ地産地消がいいのじゃないかな。まぁこれは色々あるかもしれん。
 
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はる 3087
「小国寡民3」
「人は何処から来て、何処に行くのか?良かれと思っていた(速い、安い、便利)は多くのものを壊してしまいました。多分これからは、ごく小さな世界を大切にして、誰かのために、誰が作ったか分かるモノに囲まれてゆっくり、丁寧に生きることが望まれるようになるでしょう。こころ豊かに生きるために、私たちの仕事がホンの少しでもお役に立てば嬉しく思います」

 昔,、家の近くに生協が出来て、100円のものを98円で売ったりし始めた。まだ「主婦の店ダイエー」が出来る前の話だ。関西は薄利多売の伝統があるのか、一円でも安いというのが、他の店と差をつける鉄則でもあった。スーパーマーケットはそうやって一気に時代を味方につけて全国に広まった。ダイエーが出来て、ゆけゆけドンドンで球団を買収して全国区になって天下をとった。その後はご存知のように凋落の一途。おごれる者久しからず、栄枯盛衰は世の習い・・。ダイエーは何故負けたのか?人は豊かになって「安い」というだけでは買わなくなったということかな。

 不思議に思うかもしれないが、昔はどこの町にも市場があって毎日買い物籠下げて買い物に行くというのが、カァサンの仕事でもあったんだな。

 市場は夕方になるとそれは恐ろしいくらいに込み合って、八百屋さんの掛け声や魚屋のだみ声が入り混じって、おっさんとおばはんの丁々発止がなかなか面白かったりした。レトロな昭和の雰囲気だけれど、本来人が生きてゆくというのはそういったことなんじゃないかな。

 大きなスーパーマーケットが出来たために、地元の小さな商店は壊滅的な打撃を受けた。特に個人商店が集まって出来たような市場がかつての面影もないほどうら寂れてしまった。確かに大手のスーパーに太刀打ちできるすべはない。今はどこの地方でも昔ながらの雰囲気が残っている市場は京都の錦市場ぐらいではないだろうか。

 外食産業のファーストフード店や、ファミレスなど、速くて安くてそれなりの味のお店が盛況だけれど、みんな知っているのだろうか、体裁はレストランだけれど、あそこには料理人がいないということを。すでにどこかで大量に調理されたものを暖めたり、解凍して出しているだけだということを。だからあそこはレストランではない。工場の末端施設みたいなものだ。

 コンビニは名前の通り便利だ。これ一つあれば多くの用事が済んでしまう。お惣菜からお菓子、トイレットペーパーなど日常品から、銀行も郵便も振り込みも、宅急便も、コピーもいつでも毎日休みなく営業している。こんな便利なお店がどこの世界にいままであった。けれど、そのために近くの個人商店はなくなってしまった。当然誰も行かない。便利だけで全てをはかっていいのかな。

 100円ショップは魅力的なお店だ。だけどこれを作った人はどれだけの労働を強いられているのだろうか。それを考えると安いということだけではかっていいのか?と疑問におもうな。

 間違ってもらっては困る。次の時代のコンセプトを考えているわけではない。私は学者でもないしねぇ・・。あえて言えば、そういった次の時代はこれだ!ということをそろそろやめないかというようなことだ。

 一つの時代が終わると、次の時代を予想する。それが次の時代の主流となって時代の寵児になったりする。けれどいずれはそれも廃れてしまう。きっと見方を変えた、新しい価値を発見したそれだけに過ぎない。そんなことに一喜一憂したくない。もっと変わらない、普遍的な価値観を持ちたい。

 「ごく小さな世界を大切にして、誰かのために、誰が作ったか分かるモノに囲まれてゆっくり、丁寧に生きることが望まれるようになるでしょう」小国寡民、人の幸せとか、生きがいとか、もっと広く言えば文化とか文明というのは、とどのつまりはこういうことを言うのではないだろうか。最近しみじみそう思う。
 



 
藁がこいなど何処でしったのだろうか。本格的なお百姓などしたことも無い。にもかかわらずどこかの記憶の中に冬場イチゴの苗に藁を敷いていたような気がする。間違っているかもしれないけれどね。

 この藁を敷いた景色がいい。素人のやることだから許してもらいたいのだが、例えばビニールハウスは見た目が悪い。あくまでも見た目が全て。何事もそうだけれど、見た目がいいのは自然の理に則っているわけで、とどのつまりは正道であろう。




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イルミネーションのことで思い出した。子供の頃はお金が自由に使えなっかたから、何でも自作した。自作できないものは想像力でカバーしたものだ。もみの木が無かったらヒバの枝をそれに見立てて、厚紙で星型を切り抜いて銀紙を貼り付けた。色んな飾りも色紙で作ったり描いたりしたものだ。それでも充分幸せだった。ものが無いということは不幸せなことではない。それをひがんでしまう心根が貧しいのだろう。

 今回書いた文章の抜粋
「人は何処から来て、何処に行くのか?良かれと思っていた(速い、安い、便利)は多くのものを壊してしまいました。多分これからは、ごく小さな世界を大切にして、誰かのために、誰が作ったか分かるモノに囲まれてゆっくり、丁寧に生きることが望まれるようになるでしょう。こころ豊かに生きるために、私たちの仕事がホンの少しでもお役に立てば嬉しく思います」

 お金やモノはもう充分なんだろう。それよりもゆっくり丁寧に生きて行きたい。そんなふうに思った。

 さて、上の写真はサイレントチェロです。実は10年ほど前に何処でもチェロが練習できる持ち運びが楽な、音も大きくないチョロが欲しいと思った。実際には楽器メーカーが練習用の電子サイレントチェロを販売しているのだが、本物の楽器以上に高価なしろものだ。そんなものが私に買えるはずが無い。というわけで、自作したものです。

 糸巻きの部分は壊れたギターの糸巻きを転用。寸法は実際のチョロと同じです。でもまぁ実際にはあまり使っていません。それでも上の↑写真のようにレイアウトすればそれなり見えるでしょう。ということでどこかでまた見てもらいましょうか。



 
 近所にものすごいイルミネーションで家を飾っているオヤジがいる。このところ毎年恒例になっているから、多分彼はいいと思ってやっているのだろう。電気代も馬鹿にならないだろうにと、他人事ながら心配する。普段とてもそんなことに一生懸命になりそうもない極普通のオヤジさんだから、ちょっとたまげるのだな。電飾といえばトラック野郎のけばけばしいイルミネーションを思い出すけれど、まったくそんな感じで家を飾り立てている。

 というわけであれを見てしまうと自分家にイルミネーションをという気にはならない。小さく星を飾った。



 
今年もいよいよあと一ヶ月になった。毎年のことだが、一年ははやい。個展の片付けなど絵を描くこと以外の仕事が一杯で、やたらと忙しい。まぁゆっくりやるか。
 



 
はる 3082
 個展が終わってからも結構忙しくて、まだ片付けがすんでいない。いつもはこのまま東京の個展になだれ込んでゆくのだが、今年は年内はこれでお仕舞いになる。

 毎年、銀座で個展をはじめて20年以上になる。最初、銀座ワコービルが分からなくて人に聞いたりしたのだから相当なものだ。そんなおのぼりさんでも何回か出かけるとやがてはなれるものだ。今では東京で一番地図がわかっているのは銀座界隈で、はっきり言えばそれ以外はまるっきり分かっていない。

 クリスマスの頃の銀座は何となくウキウキする。デパートやお洒落なビルがデコレーションして益々綺麗になる。サンタの格好をした昔ながらのサンドイッチマンがいたり、大きなツリーのイルミネーションがきらきらしたり、街中の雑踏がその時だけは楽しげなバックミュージックになる。子供の頃にクリスマスが待ち遠しかったように、こんなオヤジになってもどこかそんな気分が残っているのが不思議だな。

 話題が変わって。
 教室でちょっと話題になったんだけれど、絵に額をつけるよね、何故だと思う?まぁ最近は簡単にテープを巻いてすませる人もおおいけれど、額によって作品の印象ががらりと変わったりする。

 馬子にも衣装で、単に飾り物なのかということだな。私は随分と前から、これはあちらの世界とこちらの世界、あの世とこの世の境界、すなわち結界だと思って来たんだな。

 天地創造のように限られた空間ではあるけれど、作家が思いのまま世界を構築するわけで、他からの影響を極力排除したい。そのためには何らかの意識された境界が必要なわけで、地鎮祭の時に笹を四方に立てて綱を張るように、どこでも好きなところに「わが世界」の穴をうがつわけだ。よほど強固な結界でなければ自分の意志とは裏腹に他の俗な世界がひたひたと押し寄せて来て、ああしろこうしろとかしましい。

 個展なんかでもそうなんだけれど、会場内というのはある種日常の空間と異質な空間になるわけだ。会場に一歩足を踏み入れたらそこは作家の意識された特殊な世界に入り込むわけだな。俗な世界と隔絶するためにも何かしらの境界が必要なわけで、絵の場合でいうならそれが額ということになる。

 今回ほとんどの額をボックス型の標本箱のようなシンプルなモノにした。デコラティブな古色感のある額も好きなんだけれど、あえてそういった装飾を廃した形にした。

 それは絵そのものをストレートに観てもらいたいということも大きいのだけれど、私の場合、絵のサイドも作品になるような気がしてきたからだ。今までの作品を入れ込むタイプの額だと物理的に端っこを何ミリか取られてきゅうくつになる。

 そもそも、ルオーのように額も一緒に描きたいと思っている。だからこのタイプの額がまぁ今のところ気に入っている。
 



 
はる 3081
 午前中は定期検診。午後は知り合いのオヤジさんのお葬式があり、車をとばしてかけつける。ついこの間は若い人の門出に使った礼服を、今日は最後のお別れに使う。

 帰りにホームセンターに寄ってコンポストの容器を買う。今まで穴を掘って野菜くずなどの生ゴミはうめていたのだけれど、もう少し効率的に生ゴミの処理が出来ないかということで、コンポストを試してみることにする。上手くするとゴミ処理と堆肥ができるそうだ。そんなに上手く行くのか、少々疑心暗鬼。

 今年から裏の畑を借りて本格的というのか、趣味的というのか、農園を始めた。5坪ほどの極小さい畑だけれど、今年はトマトやキュウリ、ナス、ブロッコリー、ジャガイモやにんじん、かぼちゃ。夏にはバジルやルッコラなど大いに楽しく食した。意外にけっこう収穫できるものだな。

 これから冬にかけて土を作る作業をしようと思っている。堆肥を出来るだけ自家製のものにしたいのだが、今年はまだ充分に出来ていないのでホームセンターで買ってきた。

 とても農作業などという規模ではないけれど、自分達が口にするものを作るというのは、何と魅力的な仕事なんだろう。出来うるならば夏場の野菜や冬の根菜類などを、多少なりとも自分の畑でまかないたい。

 「小国寡民」は本当にこれからの日本の生きる指針になるかもしれないな。
 



 
はる 3080
 引用
「小国寡民」

小国寡民。使有什伯之器而不用、使民重死而不遠徒、雖有舟輿、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之。使人復結繩而用之、甘其食、美其服、安其居、楽其俗、鄰国相望、鶏犬之聲相聞、民至老死、不相往来。

小国寡民。什伯の器ありて而も用いざらしめ、民をして死を重んじて而うして遠く徒らざらしむ。舟輿ありと雖も、之に乗る所無く、甲兵ありと雖もこれを陳ぬる所無し。人をして復縄を結んで而うして之を用いしめ、其の食を甘しとし、其の服を美とし、其の居に安んじ、其の俗を楽しましむ。隣国相望み、鶏犬の声相聞こえて、民は老死に至るまで、相往来せず。

現代語訳

国は小さく住民は少ない(としよう)。軍隊に要する道具はあったとしても使わせないようにし、人民に命をだいじにさせ、遠くへ移住することがないようにさせるならば、船や車はあったところで、それに乗るまでもなく、甲や武器があったところで、それらを並べて見せる機会もない。もう一度、人びとが結んだ縄を(契約に)用いる(太古の)世と(同じく)し、かれらの(まずい)食物をうまいと思わせ、(そまつな)衣服を心地よく感じさせ、(せまい)すまいにおちつかせ、(素朴な)習慣(の生活)を楽しくすごすようにさせる。(そうなれば)隣の国はすぐ見えるところにあって、鶏や犬の鳴く声が聞こえるほどであっても、人民は老いて死ぬまで、(他国の人と)たがいに行き来することもないであろう。

(小川環樹:中公文庫 1997年改版 167P~168P)

「小国寡民2」
 道具というのはある意味で人の機能の延長上にある。スコップは手の土を掘るという機能だし、ぺンチは握るという機能を特化したものだ。やがて車はより速く走るために考え出されたものだ。電話や携帯、pcも大体同じようなものだな。

 道具が一つ開発されるとその代りにそれまでそれを生業にしていた仕事がなくなる。昔は家を建てるとなればそれは多くの職人の世話にならなければ出来なかったわけだ。家などという大きなものでなくても日常使うカップやお皿でもどこかの職人が作ったものだったわけだ。それがまぁ機械化というのかオートメーションで同じ意匠のものが捨てるほど作られるわけだ。それで多くの職人の仕事がなくなる。

 結局人は、突き詰めて言えば人は仕事をなくす方向を求めてきたことになる。極端な話何もしないでロボットかそれに類する機械が全てのことをやってくれるそんなことを目指してきたのではないかとさえ思われるんだな。で、人は幸せになったか?ということだ。

 今の不況というのをじっくり考えてみれば、結局仕事そのものが不足しているのじゃないかな。工業化というのは大きくいえば分業化だな。一人一人は機械の歯車でしかない。チャップリンのモダンタイムスみたいなもので、人間にとっての仕事の意味が単に賃金を稼ぐだけになってしまった。パートタイム、アルバイト、契約社員、派遣、言葉は代わっても仕事の内容は変わらない。時間の切り売りでしかない。

 パソコンが出てきて今まで人力でやっていた経理や商品管理、顧客管理もできるようになった。社報やちょっとした報告や印刷は自分でできる。デジカメが普及して町のカメラやサンは必要なくなった。画集を作ったときに感じたのは情報のやり取りがメールで出来るので経費が随分とかからなくなった。これもコンピュータのおかげといえばそうだろう。これでどれだけの仕事を食っただろうか。

 仕事という意味をじっくり考えてみると、結局は自分や家族の食い扶持を得る行為だな。

 つづく・・
 



 
はる 3079
 デフレのスパイラルに落ち込んでいるそうだ。具体的にデフレなるものがどういったものかよくは知らない。けれど例えば今まで120円でしか売っていなかった缶コーヒーが100円のところがあらわれて、やがて90円、80円という具合になってゆけば、まぁどんどんと値は下がってゆくでしょうね。120円で売られていた物は当然売れなくなるでしょう。

 全てのものがそういった具合に値下がりしはじめると、掛けた労力は同じであるにもかかわらず、トータルで収入が少なくなる。でものが動かない売れないという悪循環に陥るというシナリオらしい。

 ただ考えると今回の不況、物が売れないというのはもっと根本的な事が間違えている、おかしいのじゃないかな。どこがというのはうまい説明が出来ないかもしれないが、やってみる。

 人はある意味欲のかたまりである。旨いものを食いたいというのも欲ならば、いい生活がしたい、お金が欲しい、etc、etc・・。そういった欲がまぁこの世の中を進歩させてきたわけだから、なまじ否定はできない。

 人力でやっていた洗濯を洗濯機が代用する、スコップで掘っていた穴をパワーショベルが簡単にもっとすばやく解決してくれる。車は色んなことを可能にしてくれた。宅急便はすこぶる便利だ。その日のうちに自宅まで荷物を運んでくれる。携帯はいつでもどこでも個人と個人をつなげてくれる。パソコンのネットワークは世界をつなげた。

 今までえっちらおっちら運んでいた荷物があっという間に目的地まで運んでくれる。速い安い便利がこの世の中の合言葉であったわけだ。

眠い・・・つづく
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