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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3067
 「私が全存在をかけて作った作品は、「抹茶ケーキが美味しかった♪」というツブヤキと同程度なのか」

 あるメルマガを読んでいたらこんなことが書かれていた。何のことか分かりますか?そうネットの情報は無料か?という大きな問題なんだな。

 まぁ今までは何かを知ろうとすれば、ある意味本に頼るしかなかったわけだ。だから図書館みたいな知の集積箱のようなものが必要だったし、百科事典のような分厚い本が必要だった。どれだけ蔵書があるかというのが、その人の知の分量でもあったわけだ。だから本にお金を掛ける事をいとわない人も多かった。

 ところが、ネットがこれだけ充実してくると何か調べる時にいちいち本に当たることがなくなってしまった。お手軽に簡単にネットで検索すれば、かなり専門的なことでも知ることが出来るんだな。それもここが大事なんだけれど、無料なんだ。

 一人の専門化がある時期に全存在をかけた労作がいとも簡単に無料で手に入ってしまう。知の共有化といえばその通りなんだけれど、人間の共有の財産といえばそうなんだけれど、それで一人の専門家が消えてしまう。下世話に言えば食えなくなってしまう。

 アニメのキャラクターなんかもそうだな。何万もの作家志望のオタクがいてほんの一握りの才能ある作家が売れるキャラクターを作るんだけれど、成功すればあっという間に亜流で食いつぶされてしまう。

 だったらもっと厳格な規律を打ち立てて、著作権を侵犯するものは財産没収で死刑、尚且つ子々孫々末代まで罪に問われるとしたらどうか。

 私の予想としてはたぶんそうはならないと思う。なぜならば物事というのは全て楽な方に流れるからだな。規則があれば不規則な方に、秩序があるものは無秩序になるのが自然のながれだかだ。いまある流れをせき止めることは多分できない。世の中の多くの出来事がそれを示している。

 最初の話で言えばたぶん全存在を賭けた労作も「抹茶ケーキが美味しかった」というつぶやきも、価値的には同じなんだと思う。全存在を賭けた作品の方が価値があるというのは一方的な思い込みにすぎない。○か×か。求める人によって必要な人には○であり、必要ない人には×となる。全ては等価な並列な関係となるのだろう。それが多分これから迎えるであろう社会だ。
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